走馬灯
―私は、あなたが来ることを、ずっと待っているから。
ふと、彼女の声が聞こえた気がした。
三年前に、突然言われた言葉。今日のように寒く、今日以上に空には星が瞬いていた場所で。僕の隣にいた彼女は最初、こう告げた。
「決めた」
あまりの唐突な言葉に、僕は聞き返すしかなかった。
「何が?」
「何だと思う?」
当ててみて、と含みを持たせる彼女に、僕は苦笑した。
「正解を言ったら、怒るくせに」
そうなのだ。彼女は僕が正解すると、逆に機嫌を損ねてしまう。彼女の拗ねる姿は、それはそれで可愛いのだけれど。
「仕方がないなぁ。じゃあ、教えてあげる」
溜息を吐きつつも、彼女の口元は緩んでいるのを、僕は見逃さなかった。
「あなたに決めたわ」
僕が何かを言う前に、彼女は「だからね」と言葉を続けた。
「私は、あなたが来ることを、ずっと待っているから」
何とか彼女のことを理解したくて、一生懸命に考えを巡らせる。だが、やはり僕では理解力というものが足りないみたいだ。彼女には申し訳ないが、真意を問うしかない。
「それって、どういう意味?」
しかし、彼女は僕から顔を逸らして夜空を見上げてしまう。
そこには、数えきれないくらいの星々が連なっていた。
「……本当に、綺麗」
彼女の独り言に誘われ、僕も夜空を見上げた。確かに、都会の中でこんなにも星が瞬いて見える場所は、そうそうないだろう。彼女へ視線を戻すと、彼女の吐いた白い吐息が頼りなく霧散していくところだった。それなのに頬と耳は真逆のように赤い。僕は慌てて自分のマフラーを解き、彼女の首に巻き付ける。 彼女は口元を尖らせつつも、僕の好きにさせてくれていた。僕が何気に好きな、拗ねているときの顔だ。
「……首が窮屈だから嫌だって言ってるのに」
「文句言わない……よし、できた」
ぐるぐる巻きにされた彼女は、どこかアンバランスだった。しかし、それがまた男心をくすぐるのだ。
「……ありがと」
彼女は拗ねながらも、感謝の言葉を口にした。頬に帯びている赤さは、決して寒さからくるものではないと、瞳が語っている。
「どういたしまして」
胸元は空いてしまって、風は容赦なく入ってくるが、僕の頬もきっと赤いのだろう。もちろん、寒さとは別の理由で。
「あのさ、さっきの話なんだけど」
僕は恥ずかしさもあって、話題を元に戻した。
「君が、その……僕を待ってることを決めたって。それって」
「そのままの意味よ」
彼女は、僕が言い終わる前に言葉を紡ぐ。まるで僕の言葉を拒絶しているような言い方だ。
「ごめんなさい。ちょっと一方的過ぎたわね」
何も言い出せずにいると、彼女から謝ってきた。僕は、ただ首を横に振る。
「……ねぇ、私のこと。好き?」
びっくりした。自分のことを好きかどうか。彼女が確認してきたことなど、今まで一度もなかった。告白したのは僕からだったし、逆に何故僕と付き合ってくれているのか不思議なくらいなのだ。
負けず嫌いで。強引で。自信家な彼女。
僕とは正反対の位置にいるからこそ、惹かれて止まなかった。
「好きだよ」
彼女とは違って臆病な僕は、視線を逸らしながらでしか伝えることができなかった。
「嬉しい」
その言葉に誘われるように顔をあげると、思わず目を見張ってしまう。彼女は満面の笑みを僕に見せてくれた。こんなに嬉しそうな顔を見るのは、初めてかもしれない。そう考えただけで、胸が熱くなる。僕が喜びと戸惑いの狭間でもたついている間に、彼女は僕の胸に勢いよく飛び込んできた。彼女なりの力強さで、抱きしめられる。
「私も好き。ずっと大好きだから」
彼女の大胆な行動、言葉に僕の鼓動は跳ね上がった。それを落ち着かせるように、僕もありったけの力で抱きしめ返す。
―だから私は、あなたが来ることを、ずっと待っているから。
それは、僕にとってはとても。とても甘い響きだった。
彼女がいなくなったのは、その出来事から二日目のことだった。
メールを送っても、返ってこない。電話をしても通じない。次の日には、「この番号は現在使われておりません」のアナウンスが流れるようになってしまった。僕は慌てて彼女がいるはずのアパートへ向かう。きっと大したことはない。部屋まで行けばきっと、彼女が出迎えてくれる―無理やり、そう思った。
しかし、扉の前に書かれているはずの表札は空欄になっていた。彼女の名前など、どこにもない。その意味をどう捉えていいのかわからず、扉の前で呆然としていると、隣の部屋の住人が帰ってきた。そして、無常の宣告をした。
「知らない?彼女は昨日、引っ越したよ」
その後、どうやって自分が住んでいるマンションに帰ったのか、記憶がない。気づけば、冷蔵庫に貯蓄していたはずの缶ビールが全て空になって床に転がっていた。
彼女に電話を掛けようとして、無駄だということを思い出す。そのときになって初めて、涙が零れた。
「私も好き。ずっと大好きだから」
彼女の言葉が、空しく響く。
「私は、あなたが来ることを、ずっと待っているから」
待つ必要なんて、どこにもないじゃないか。
だって、お互い同じ場所にいるんだから。
あのときは、ちゃんと同じ場所にいたはずなのに。何で。何で……。
思考は、歪ながらも徐々に一つの線になっていく。熱が引いて、水を浴びたかのように冷えていった。
離れていったのは、彼女だ。
僕は悪くない。僕のせいじゃない。
だから。
「嘘つき」
僕は彼女を罵ることで、決別した。
決別したといっても、しばらくは彼女のことを思い出してしまう日々が続いた。その度に、僕の心は激しく痛む。彼女のことが好きだったのだと自覚するのが嫌で、彼女との思い出がある場所へは行かなくなってしまった。たくさんの星々が見える、あの場所も。「綺麗」と言っていた彼女を思い出すのが怖くて、星を見ることすら嫌いになってしまった。
それでも、月日がそれなりに経ってしまうと、徐々にではあるが彼女の面影が薄れていくのが自分でもわかった。温もり、声音、そして表情。どれもが、おぼろげになっていくのを止められない。安堵と焦燥、両方が僕の心でせめぎ合う中で、その事実を受け入れかけていたときだった。
「すみません」
振り返ると、不安そうな顔をしている女性が立っている。大きな二重に、肩にかかる栗色の髪。
「あの、道を聞いても良いですか?」
―このとき、僕は二度目の恋をした。
そして、一年をかけて。僕の二度目の恋は無事に成就する。今度の彼女は控えめで、つまるところ僕と同じような性格の女性だった。今日はまさに、予約をしているレストランで、彼女にプロポーズをする予定だ。ちゃんと、指輪だって用意している。
それなのに何故、今になって彼女のことを思い出すのだろう。二度目の恋が、愛が彼女のことを消し去ってくれたはずなのに。いや、それ以前に。
「ここは、何処だ?」
何故か辺りは真っ暗で、光と呼べるようなものはどこにもない。ちゃんと着込んでいるはずなのに、寒々しい。とっさに両手で自分自身を抱きしめる。その感触は、氷のように冷たい。
「どうして」
僕はその場に蹲る。
どうして、僕はここにいる。
わからない。
「……行かなくちゃ。彼女が待ってる」
予約しているレストランはすごく人気で、半年前から予約をしていたのだ。予約が無事に取れたとき、彼女はすごく喜んでくれた。
彼女を思うことで何とか自分を保ち、顔を上げる。そのときだった。
「やっと来た」
後ろから、声が聞こえた。僕の知っている声―否。つい先ほどまで、忘れ去られていたはずの声、そのままだった。
「待ちくたびれちゃった」
ゆっくりと、後ろを振り返る。
淡い光の中で、一人の女性が立っていた。
あのときの、あの姿のまま。首元には、僕が巻いてあげたマフラーをしている。
「どうして」
僕は同じ言葉を繰り返す。先ほどとは、少しだけ違う意味で。
「待ってるって、言ったじゃない。忘れちゃったの?」
彼女は口元を尖らせる。その姿は、僕がマフラーを巻いてあげていたときにしていた表情と同一だった。
「仕方がないなぁ。じゃあ、もう一回だけ言ってあげる」
僕は首を横に振ろうとしたが、彼女から目を逸らすことができない。何かに囚われたように、前を見ることしかできなかった。彼女はそんな僕を見て、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私は、あなたが来ることを、ずっと待っているから」
ね?と首を傾げる彼女は、あのときの彼女とやはり、寸分も違わない。つい先ほどまで忘れていたはずの言葉が、今は鮮明に思い出すことができている。それがこんなにも、恐ろしい。思わず僕は、足を後ろに引きそうになった。しかし、彼女がそれを許さない。彼女は駆け足で僕に近づき、そして抱き着いた。
「抱きしめてくれないの?」
何も反応できなかった僕に、誘惑にも似た彼女の言葉が響く。
「……無理だよ」
「どうして?」
彼女は、僕に問う。
「だって、僕はもう他の女性を、好きになってしまったから」
僕の答えに、彼女の腕が解かれる。一歩後ずさると、勢いよく顔を上げ僕を睨みつけた。
「私のこと、好きって言ったじゃない。嘘を言っていたの?」
非難の言葉を浴びせられ、僕は戸惑いながらも言い返した。
「だって、いなくなったのは君じゃないか」
「だから、待ってたじゃない。ずっと。ここで」
「……ここで?」
もう一度、辺りを見渡してみる。しかし、本当に何もない。ここにいるのは僕と、目の前にいる彼女だけだ。辺りは暗く、ただ彼女の周りだけが仄かに明るい。こんなところで、彼女は待っていたというのだろうか。何のために。
「そんなの決まってるわ。あなたを待つためよ」
僕の心を読んでいたかのように、彼女は答えた。背筋が、凍る。鳥肌が立ったのが嫌でもわかった。
「何を今さら。寒いのなんて、当たり前じゃない」
「え?」
僕の反応に、彼女は淡く微笑んだ。後ずさっていた足が再び近づく。そして僕の肩に手を置くと、彼女はとびっきりの種明かしをするように、耳元で囁いた。
「だって、あなたはもう―」
彼女の言葉が、理解できない。
頭が、全力で拒否していた。
彼女は、そんな僕に満面の笑みを向け、手を差し出してくる。
「ねぇ、私にちょうだい。その指輪。それで、全て許してあげる」
―そして、ここで永遠を誓いましょう。
遠くで、サイレンの音が聴こえた気がした