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美味しくなるまで

作者: A峰

 私は蚊帳によって囲まれていた。細かな網目から覗くことのできる庭は薄い月明かりに照らされ、宵闇の中でぼうっと浮かび上がる。開け放しにされた窓からは風が舞い込み、私の頬をそっと撫でる。甘くて、どこか酸っぱい金木犀の香りが鼻を掠めては流れていく。

 枕にうずめたままで頭を動かし、私は庭から目を逸らした。頭の下でそば殻がざわざわと鳴り響く。私は天井を凝視する。節くれだった(はり)、何層にも積もった埃、屋根裏から滲んだ雨水によって描かれた人の(かお)。子供に不安と恐怖を抱かせる、黴臭(かびくさ)い闇が広がっていた。

 力尽きるように瞼を下ろす。闇がさらに深まり、その冷たさに心が凍り付く。

 布団に突っ込ませていた右手を抜き、胸に被せる。貧相なふくらみの下ではとっくりとっくりと鼓動が奏でられていたが、その音色には、どこか脆弱さが見え隠れする。

 ゆっくりと忍び寄ってくる終末の足音に、私の心臓は炙られている。

 左手を動かす。ほとんど平坦なくびれを通り過ぎて、骨張った腰に触れる。さらに(まさぐ)らせた左手が握り締めたパジャマは、くしゃりと呆気なく潰れた。掴み損ねた空気が我先と争うように抜けていく。そこにあるはずの骨と肉が、そこにはなかった。

 唇を噛み締め、親指に爪を食い込ませる。(つんざ)いた痛みも、血の味も次第に薄れていく。

 感覚の麻痺。体の中で行き場を失った感情が暴れ狂う。嫉妬と切望、薄氷(うすらい)のような憎悪。ただただ羨ましいと想いを馳せて、独りよがりの感情を、そこにあるはずだった左足とそこにあって欲しくなかった心臓にぶつける。

 もしもこの世に神様がいたなら、どうして私にこんな重荷を背負わせたのだろう。

 失われた足と欠陥だらけの心臓。ひとつだけならまだしも、いいえ、それがいくつだとしても私には重すぎる。十六歳というちっぽけな心と体が、潰れてしまうほどに。

 私の体だ。お医者様は「きみの体は脅威だよ! 僕はね、きみが生まれたときに余命は六年だろうとご両親に伝えた。それがどうだい? きみはもうすぐ十六歳だ。このまま治療を続けていけば、きっと普通の生活もできるようになるよ」と意気込むけれど、やっぱりこれは私の体なのだ。誰よりも私が分かっている。今夜死ぬことを誰よりも知っている。

「こんばんは」

 ひときわ激しい風が吹き、生ぬるい大気が私を呑み込んだ。

「こんばんは、死神さん。今夜はそんな姿なのね」

 月明かりを遮るように、燕尾服を粋に着こなした男が窓のそばに(たたず)んでいた。

「その様子だと十年前の約束を忘れていないようだ。安心したよ」

 男は細く息を吸い込み、ゆったりと懐かしむように続ける。

「散りゆくきみに未来を、十年の命をあげよう。十年の自由をあげよう。ただし、十年後のこの日に、貸し与えた命の代償としてきみの魂を貰い受ける。僕ときみの約束であり、契約だ」

 彼は眦を釣り上げ、満足そうに唸る。そうして私に近寄り、私の瞳を覗き込み、頬に指を滑らせると訊ねた。

「十年の時間は幸せだったか?」

「いいえ」

 ふるりと首を振る。死神の瞳がうろたえ、微かに揺らめいた。

 それが私の答え。

 毎日のように変わらず、繰り返されるだけの日々は治療という名の束縛でしかなかった。親身になって世話をしてくれた両親には感謝している。いつ死ぬともしれない娘に対し、両親は全力で心を砕き、愛情を注いでくれた。それでも私の中では何かが欠落していた。

 それほど高尚なものじゃない。むしろとても単純で、ありふれた憧れ。

 両足で走りたい。学校に行きたい。友達を作りたい。ばかなことで笑って、喧嘩して、仲直りしたい。大声で歌い、語らい、あめ色の恋だってしてみたかった。

 そんな当たり前なことに憧れて、羨んでいた。

 寿命が延びたところで何も変わらなかった。走ることも学校に行くことも、友達も何もかもが遠い夢のようだった。無理を承知で学校に通ったところで理想のようにはいかず、突然倒れて保健室に運ばれ、そのまま何週間も帰ってこない。

 そんな私を憶えていてくれる人も、そんな私に接してくれる人もいない。

 足がないから、病気だからと接してくれる人はいた。彼等からすれば、それは善意に溢れた素晴らしい行いなのかもしれなかったけれど、私からすれば一方的な善意を押し付けられたに過ぎなかった。素直に受け入れていればよかったのかもしれない。そうすれば、この十年は愛情と思いやりに恵まれた、素晴らしい日々になったはずだ。それを友情だと思えばよかった。

 けれど、ひねくれ者の私はそれを拒んだ。

 私が抱える重荷から来るものなんて何もいらないと、愚かにも掃き捨てた。

「意外だね。それは、少しばかりあり得ない」

 死神は心底不思議そうに呟いた。

 きっと、死神がこれまで命を貸し与えてきた人は、みんながその時間に満足してきたのだ。器用に生きて、満足して、名残惜しみながら、時には未練に焼かれながら命の代償を差し出してきたのだ。

「きみはそれでよかったのか?」

「全然よくない。未練ばかり……」

 死神は目を伏せた。眼窩に落ちた影が妙に怖ろしい。

 私は静かに息を吸い込み、死神の手を取った。

「約束を果たしましょう」

 今度こそ、私に自由を与えて欲しくて。

「変わらない日々はうんざり。そんなのはただの経験。刺激がないと生きてるなんて言えない。あなたの手で約束を果たして、私を経験の日々から解放して――」

 泣き出すことを堪える子供のように死神の貌がくしゃくしゃに歪み、彼に変化が訪れた。彼の躰はぐずぐずに爛れていき、湿った体毛が湧き上がる。全体の大きさに比べて異様に小さい瞳が私に向けられた。

「それがあなたなのね。醜悪なばけものだわ」

「どうして、俺達が命を貸し与えると思う?」

 全身を震わせて話す生物を初めて見た。それは声ではなく音なのかもしれない。

「美味いからだ。人生で幸せな思いをした人間の魂は、それこそ死ぬほど美味いんだ。逆に言えば、幸せな思いをしてこなかった、寂しい人間の魂は――」

「死ぬほど不味いのね? だから命を貸し与えるの? 幸せな思いをして美味しくなってもらうために」

 死神は包み隠すことなく頷いた。

 そう、結局、死神も理由ある善意だったのだ。

「それで、私は美味しいの?」

「不味い。この上なく不味いだろう」

 即答だった。

「食べるのやめる?」

「それはない。髪のひと房に至るまで、それは俺の晩餐だ」

 またもや即答だった。

「それならどうするの?」

 私の訊ねに応えることはなく、死神はまっすぐに私を見据えた。何かを思索するように少しばかりそのままで、それから、死神は唇を大きく歪めて微笑んだ。

「俺と一緒に来るかい?」

 甘い声でささやかれる。

「一緒においで。楽しい思いをさせてやる。走るのは難しいが空を飛ばせてやる。仲間だって紹介してやる。笑え、歌え、泣け。美味しくなるまで、嫌になるほど幸せにしてやるよ」

 凍り付いた心が溶けていく。死神の瞳を覗き込み、湿った体毛に手をうずめ、

「それもおもしろくなさそうね」

 微笑んで答えた。生まれて初めて、私の胸は軽やかに踊っていた。

 窓の向こうから、金木犀の花が風に乗って舞い降りる。

 乱れた布団の上には、ただ、艶やかな羽だけがちりばめられていた。

読了感謝。


この作品は私の原点ともいえ、およそ6年前に書いたものです。現在がどうかを評することに意味はありませんが、当時の文章は未完成であり、また稚拙なものでした。投稿にあたり一から書き直したことは言うまでもありません。それでもこの作品が書けたこと、またそれが小さいながらも日の目を見たことは、私が創作活動を今でも続けていることに対して大きな原動力となっています。

思い入れが大きいということは、翻せば固執しているということです。この作品は私にとってひとつの『殻』なのです。殻を破るためにも『A峰』の第一作目としてこれを公開することは、おそらく正しかろうと信じています。


作品そのものに対して語ることはあまりありません。読んでいただいた通りです。漫然と生きることに果たして意義は生じるのか。甘酸っぱくも青臭いテーマです。

私はこう考えた、ただそれだけを綴りました。

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