要領のいい俺は、できるだけ課題<友人つくりとはじめてのおつかい>をまとめて提出したい
まあ、そういうわけで。緩急もない日常を重ねて、俺はようやく声を手に入れた。
その表現が正しいのかはわからない。元より備わっていたものに対して使うべきにはふさわしくないのかもしれない。けれど、機能の有無を問わず、使いこなせてこそ獲得したって言えるんだろうって俺は考える。
この俺にそう言わしめるほど、その道のりは決して安易な物じゃあなかったんだ。ひどく単調ではあったけどな。
つまりまとめると、想定以上に時間がかかったっていうことだった。
俺が最初に聞きたい、言いたいと決めていたことは、口が利けるようになってからも言うことはなかった。
だって、テンはもういない。今更なにを聞くっていうんだ?おっさんの口から語られるテンなんて聞きたくはない。
鏡がほしいって要求だって、この身体で目覚めたときに叶っている。
だから口にするのはおっさんへの応答ばかりだ。
こんななら別にしゃべれないままでも問題なかったかもしれない。対おっさんへの反応がめんどうになったときにはそんなことが過る。
俺が新たに目覚めた、鏡のあるあの部屋の主はテンだった。
今は俺が私室として使っている。何もないときはそこで勉学などに勤しんでみたり、待機してみたりしている。
テンの死と俺の覚醒に時差はあったはずだが、部屋には特に手の入れられた様子はなかった。それは男の感傷なんかじゃない、ただのものぐさだ。
建物の内部は割と好きなように移動できている。不十分な清掃状況は把握していた。
残念ながら、今のところこの建物の外には未だ出ることは叶っていない。
「ふらふら遊びに行くのもいいけどな、まずは家の中のことをちゃんとこなせるようになってからだ」―― おっさんが、そう命じた。掃除しろ、と。
俺よりまずはお前もしろと言いたいところだったが、外出について言及されてしまえば抗うことはできない。
せめてもの反抗に、清掃は与えられた部屋を重点的に行うことにしている。
濡れモップで床を擦っていた手を止め、端に立てかけてある箒を見遣る。
俺はまだ箒を使ってない。使えてないのは、あれが俺にとってのテンの象徴だからだろう。
箒が象徴。なんて、魔女かよ。
そんなの、おとぎばなしだった。
***
ある昼下がりのことだった。
俺は日課をこなしていた。
濡れモップで床をごしごしやっている。
場所はいわゆる俺の給水場所、正式名称はキッチンという。
自動人形である俺は1日に何度かの水分補給と電氣の供給をうけなきゃいけない。そういった理由から、キッチンは俺の部屋に次いでの清掃スポットだった。
電氣の供給場所は俺のメンテナンスも行う重要な部屋だったが、見方によっちゃおっさんの私室の一種ということもあり、その優先度は低い。設備の破壊も怖いしな。
埃が気になったらやろうとは考えてるんだけど、どうにもな。
懸命にごしごしやってる俺の後ろで、おっさんは新聞と何やら飲み物を口にしていたんだ。
会話はない。おっさんは自ら進んで雑談をしない。口を開くとしたら何か用件のある時だ。
「――アオ、ちょっと買い物頼むわ」
そう、こんな風に……は?唐突になんだよ。
俺はおっさんを見た。
新聞を見るのはやめにしたらしい。俺を見ながら、おっさんは音を立てて新聞を畳み始める。
「はっ、そりゃ驚くか。いきなりだもんな」
にやにやとだらしない笑みを口の端に浮かべてるところから見るに、俺の反応を伺ってるんだろうな。
声帯不使用期間が長かったせいか、俺はまず口より先に頭の中で返事する癖がついている。これの良くない部分は、それで返事は済んだと考えがちなところだ。
だから俺は別に驚いて言葉を失くしてるってわけじゃないんだからな!
そんな俺に構わず、おっさんは何やら投げつけてきた。
「これ。金だ」
放物線を描く包み紙は崩壊して硬貨を吐き出す。3…4、5枚。って、おい!2枚しか捕まえられなかっただろ。
俺は顔をしかめてみせた。残りは後で拾おう。
「場所は?どこに何を買いに行けばいいんだよ」
というか、ひとりで出歩くのか?この周辺ならともかく、買い物って……おっさんは付いてこないのか……。
別に一人歩きに自信がないわけじゃない。俺なら完遂できるだろう。
でもそれは俺のみに焦点を当てた場合の話だ。対応しきれない未知に恐れがあった。
そんな思考を吐き出すわけにはいかず、らしくなく、後ろ向きな文句が口を滑り出た。
「そもそも最初の外出っていうなら、対人含めず散歩とか周辺散策程度に留めるべきじゃないか」
「さんぽぉ?ジジイでもあるまいし、ガキはイイコぶっておつかいでもしてりゃいいんだ。つうかな、下手に歩き回られるよりか、道筋、時間がはっきりしてる分そちらのが都合良いんだよ」
それなら道順決めた散歩でもいいじゃないか。俺はむっとした。
何を言っても無駄な気配がした。結局のところは外出が億劫なだけなのだ、この男は。
「そもそもだがな、アオ。誰とも会わんつもりで散歩だけするってんなら、それは室内歩行と何が違う?」
身体ボディの作動には、あんなに細かく段階踏んだくせにな。
「わかった。あんたのいうとおり、それもそうかもしれない」
納得なんてしてないけど。
「金包んでたのが地図、買ってくるのはコーヒー豆だ。量り売りのじゃなくって、こんくらいの袋に入った……っていうかこれだこれ」
立ち上がったおっさんは、自分がぶちまけたものを無視して棚へと向かう。俺は仕方なく自称地図とかいう紙切れと、捕まえきれなかった硬貨を回収した。
おっさんは棚から紙袋を引き出して、雑に丸められていた上部を引き延ばした。手のひらより二回り大きくなったそれは、赤く太い文字で『苦ク煎ッタ豆《珈琲味》』と印字されている。なんだ、コーヒー豆と言いつつ紛い物じゃないか。
モップを紙袋に持ち替えると、俺は裏側や底までしっかり眺め透かして記憶した。
底には小さな文字で『安価追及徳用品』と書かれていた。
「外出たら、忘れず人間のフリすんだぞ」
「わかってるよ」
俺は頷く。人間としての動きは、今日までにしっかり身体に覚えさせた。
判定者がこのおっさんということに不安はあったものの、元より造り物である俺は優秀なのだから大丈夫だ。でも造り手はこのおっさんで……なんて考えちゃいけない。それは負の螺旋階段のようで、やがては自己否定に到達してしまうだろうから。
俺は考えるのをやめた。
「見付かったら壊される可能性があるんだ、そんな失敗はしないよ」
「あぁ、お前みたいな存在は、他の人間には受け入れられねぇもんだからな。それを電氣回路中によく走らせておくことだ」
「あっ」
さて、出発となったところで急に浮かんだ疑問があった。
「そういえば、さ――えっと、俺の前身、……なんだけど」
戸惑って、言い淀む。
それはずっと避けてきた話題だった。そう、テンのことは。
わざわざ聞くまでもないことだったか?でも、
「もしも街に知ってるヤツ、とかいたら。あの、知り合いとかに会ったら、」
「大丈夫だ」
男が言い切った。
「知り合いなんざいないさ。あいつは、ここの人間じゃなかった」
ちぐはぐだ。他人みたいな言い様で、懐かしむ目で、男は何でもないように言い切る。
殺したのはあんたなのにな。
***
実際外に出るんだってなれば、期待よりも不安の方が大きくなるようだった。
一歩出てしまえば、どれもその場で足踏みするだけで、簡単に手放してしまうものみたいだけど。
日差しは窓越しとあまり変わりなく、窓から乗り出して感じた風よりも穏やかだった。
ちがったのはそれが全身で感じられるということだろうか。
あれほど出てみたかった外の世界は、出てしまえばなんてことはない。窓から見ていた景色の延長でしかなかった。
もしも外に出る時が来たなら、あまり周囲を見回してばかりいないように気を付けなくてはと考えていた。物珍し気な素振りは目立ってしまう。
でも興味を抱けないままだったせいで、その必要はなかったのだった。
目的の店はすぐに分かった。
おっさんから与えられた手書きの地図は俺にとってはわかりよかった。が、断じてあれは地図というものではない。
一本の長い矢印が3回折れ曲がっただけの図と、あとは文字情報だけのメモ書きだった。
大まかな距離と時間と方位が書かれていただけだ。こういう場合は、目印になるものや色、見た目とかも書き添えるものじゃないのか?
それが皆無ともなると、あの男の見ている世界が垣間見えるというものだ。
「いらっしゃい!」
扉を開けて入店すると、すかさず店主らしき初老の女から声がかかる。やけに覇気がある。商売をしている者はそんなものかもしれないが。
「おじゃまします」
俺は愛想よく聞こえるように笑顔を作って挨拶した。おっさん相手にはてきとうやってるが、俺だって丁寧なしゃべり方くらいはできるんだ。
さほど広い店ではない。お目当ての紙袋らしい姿もすぐに発見することができた。赤い太文字がやけに目立つ。
近寄ってみて、持ち上げてみた。
底にも記憶してきた文字が書かれているのを確認する。うん、間違いない。
品物を手に、女の前に立った。
「会計、お願いします」
「あらお嬢ちゃんは初めての来店だね。見ない顔だけど」
お嬢ちゃん。
お嬢ちゃん――。
「えっ。あぁ、っと」
俺はその言葉に少し怯んだ。
俺の身体はテンのものなんだって認識はあった。
でも必ずしもその認識と意識が結びついているわけじゃない。
そう、俺の見た目は女だった。忘れてたわけじゃないけど、忘れてたっていうのが本当のところだ。
おっさんもとくべつ女扱いとかしてこなかったからな。というより、身体変更前後では大して俺への態度は変わってないように記憶している。
もちろん最初の頃とは変わっているが、それは俺がしゃべるようになってから、経過した時間が要因のものだった。
落ち着け、大丈夫だ。俺の振る舞いにおかしなところはないはず。俺は元々知的でクール系だった。最初の身体ボディもそんな風だったから、今まで俺が描いていた俺像で問題はないんだ。
一人称とおっさんのせいで身に着けかけている乱雑な言葉遣いに気を付ければどうってことはないだろう。
さっきみたいに事務的な感じを装えば中性的に見えるんじゃないか?よし、これから対人会話は敬語系でいこう。おっさんは除く。
「違うのよ、駄目とかそういうつもりじゃないの。ここは常連だけに開けてる店じゃあないんだから。新しいお客さんは大歓迎」
口籠ったあと黙ってしまった俺に、女は慌ててそう付け加えた。客の少女を怯えさせたと思ったのかもしれない。
「とくに若いお嬢さんはなかなか来ないから。ご贔屓にしてくれると嬉しいわ」
「家の者に頼まれたんです」
言い淀んだことへの言い訳なんて持っていなかったから、俺はそれに乗っかった。
「おっさんなんですけど」
「なるほどねぇ、おっさんっていうなら常連の誰かかもしれないわ」
これは乗っかり方を誤ったかもしれない。余計なことを言った。
いまだに俺はおっさんの本名というか、正式名称とやらを知らされていなかった。
買い物は問題なく――若干の誤差は遊びの部分だから計上しないこととして――完了した。
それどころか今後のためになりそうな振る舞いについて考えることもできた。
俺は些細なことからも学び、成長する男だ。
俺は軽い足取りで元の道を戻っていく。
とんとんっと、足の裏が石畳を蹴り上げる。家の中では出せない音だ。
でもそれは間違いなく油断だった。
任務の成功に高揚した精神に隙が生まれていたことに、俺は気付いていなかった。
おっさんに報告するまで任務完了とは言えないのに、そんなことは大差ないとばかりに甘く見ていたんだ。
「ごめんっ!君、だいじょうぶかい!?」
水分を被った俺は、こうして謝罪の言葉を吐く男を見上げている。
俺を追い抜こうとしたこの男は、手に持っていた液体を誤って俺にぶっかけたのだった。
――いや、油断とか関係なく避けられなかっただろうけど。
でもそれとこれは別なんだ。俺は被害者だった。
「弁償するよ。でもまずは何か拭く物を……」
男は何やらがさごそやってる。うん、でも何も出てこないな。
こういうときってどうしたらいいんだ?
途方に暮れたくなったけど、何とか言葉を捻り出す。
拭くものを出せなかった男が迷う素振りの後に、おもむろに脱ごうとしたからだ。
「濡れたのはいいんです。家でなんとかするので。……でもお金、ください」
成果である紙袋が湿ってしまったのが一番の問題だろう。コーヒー豆はきっと、湿気でカビを生やす。 コーヒー豆じゃないけど。
――それが、俺の結論だった。