俺が最初にしゃべった言葉?なんか電氣法則の証明的な感じの音!
もしも俺に声を出すことが許されていたならば、この瞬間に何を口にしただろう。
しゃべってみたいという望みはあっても、しゃべったことのない俺にはそんなことを考える余地はなくって、見当がつかなかった。
男は――おっさんは、今まさに起きたとでも言うかのような寝ぼけ顔で俺を見上げる。まあ普通に寝てたしな。座ってたけど。
いや、寝てたわけじゃなくさっきまで死んでたって言われてもそうかって頷く程度には陰気くさい顔をしているかもしれない。
呆然としたその顔は自分がされたことに気付いてないらしかったから、もう一度蹴ろうと決めた。気付いてないってことはないのとおんなじだ。それを得と取るか損と取るかは感じ方次第だけど。
今度こそ俺は無防備に曝け出された鳩尾を狙って、つま先を叩き込もうとするが、立てている膝が邪魔になってできない。仕方なく脇腹に足の甲をめり込ませてやることとする。
おっさんは呻き声を上げて縮こまる。俺はそれを見ていた。うん、なかなか上手いんじゃないか。
俺にとっては得だったようだ。
「動くな!」
蹴ったところを手で押さえながらおっさんは口を開けた。想定よりも早い立ち直りは、正直不満だ。
俺は命じられるままに、動くのを止めた。観察姿勢だった俺が止められるのは、瞬きと呼吸くらいのものだったが。
もちろん聞き分けよく従ってみただけで、これはおっさんにびびっての行動じゃない。その、掠れた呼吸音の混じるがなり声には少し驚いたんだけどな。
「おっまえ……くそ、いきなり蹴るとかねえだろうが!製作者を害してどうすんだ、次やったら罰だからな。そもそも、まだ動いていいとも言ってないだろ」
言われていたけど?
手指のような細かい関節部分の許可すら下りていたじゃないか。……なんだ?まさか身体が変わったからまた振り出しからってことにはならないよな。
「気付いてないのかもしんねぇけどな、身体が変わってんだよ。悪いんだが、また最初っからだ。一連の許可を取り消し、初期化する。『動くな』ってことだ」
そうかよ……やっぱりそうなのかよ!
でも先程から何も動いていないから、大丈夫だ。ただ、開いたままの瞼が気にかかる。それが前回とは違うところだからだ。
戸惑う俺に気付いたのか、おっさんはふむ、とかひとりで何やら考え込んでいる。
「これは結構上手く馴染んでるか……」
目が開いていることはいいのか。
それにしても、ずいぶんと淡々としているんだな。
いつものように身体の状態の確認を見始めたおっさんに、手持無沙汰になった俺は意識の半分を思考に傾ける。
俺が入ってるのはテンの肉体だ、なんて言わないのか。……当たり前か。この男にとっては俺たちは知らない者同士のままなのだろうから。
でもそれは好都合だった。俺も知らない振りができるってものだ。
おっさんの目の昏さ、陰鬱な声。それらに俺はまったく、ちっとも気付いていなかった。
そういうことに、した。
「なあ、アオ」
なんだよ。
作業中、おっさんが急に喋りかけてくるなんてことは今までなかったものだから、俺はちょっと驚いた。独り言は散々あったけどな。
「こうして振り出しに戻っちまったが、直にまた文字が書けるようになる。喋るのだってすぐに覚えられるだろ。そうしたら、外に出てみるのもいいかもしれん、友人でも作って人間のように振舞えるだろう。性格なんざ文字でしか知らんが、お前はちょっと言葉が乱雑っぽいのがなぁ……悪いヤツじゃあないんだが」
……そうかよ。
その言い様に思うところはあったが、おっさんの口振りからすると、これからも俺の個性とやらは尊重されるらしかった。
そのことについて文句はない。でもこれではっきりしたことがある。
おっさんはテンを取り戻そうとしたわけじゃないんだ、ってことが。
それは俺の纏う身体の素材――死体が見知らぬ少年のものからテンのものにすげ替わった時点で否定できたことかもしれなかった。あるいは、俺をアオと呼んだ時点でも。
でも死体の保全問題や別の事情から急を要する可能性や、テンの喪失を認識した上で身代わりにした可能性があったから完全な否定にはならなかったんだ。
つまり、俺にテンを模倣させるって方法が残っていたってこと。
テンを求めた結果でもないのに、この有様。見た目だけがテンの、俺という存在。
だからきっと、おっさんがテンを殺したんだろう。
俺はそれを疑わなかった。
あんなに仲がよさそうだったが、それとも表出していない何かがあったのかもしれない。
人間って分からないものなんだな。
「もしもお前に友人のひとりでもできたなら、――あぁ、いや。条件はちゃんと付けとくか」
人殺しの、暗く濁った瞳が視界に割り入ってくる。
視線が交わる。なあ、あんたは今誰を見てる?
その眼球に映っているのはテンの顔。でもこの瞬間だけは、そのまま目の前の意識が別物のテンじゃなくって――むしろ目の前なんて見ていなくって、過去のテンを思い返してるって、なぜだかそう感じたんだ。
「お前がそのときまでちゃんと人間として振舞えたなら、お前の願いをひとつだけ叶えてやってもいい。俺のできることなら、なんでもだ」
視線のピントが合った。この男は今、ちゃんと俺を見ている。
自覚したそのとき、腹の底がくすぐったいような奇妙な心地がした。なんだこれは?けれどすぐに思い当たる。
これは背中に一瞬走ったざわめきで、あの瞬間すぐあとには消えたと見ていたけれど、腹の内側に移っただけのようだった。潜っていただけだったんだな。
もしもこれが悲しみというものだったなら、どうかそのすべてがテンの身体に残った記憶でありませんように。
***
時間っていうものは、割とするする流れるものだ。
電氣みたいなもの、と言うのも納得だった。
なんにもなかったみたいに、何事もなかったように。
俺は久しぶりに晴れた空を、硝子越しに見上げている。
前に太陽を見たのはいつだっけ。……指を折る。うん、4日前か。もっと長い気がしていたけど。
「なあ、おっさん。俺はまだ外に出ちゃ駄目なのかよ」
返事はなかった。だから蹴る。
「あのさあ、聞いてんの?」
「いてぇだろうが!だから蹴るなっつってんだろ、いつもいつも!」
知るか、そんなの無視する方が悪いんだろうが、いつもいつも!
しかも俺は加減してやってる。おっさんの骨も内臓もこのとおり無事だっていうのに。
「ますます足癖が悪くなってんな、これじゃあ外には出せん」
「あっ、そう。それよりまずは外に出せよ」
「だからな、そんな暴力的な生き物、外には出せねぇんだって」
俺は鼻で笑ってやった。まるで人間のような自然な振る舞いだった。
「あのさ、外出するってことは歩くだろ。つまりそれができないから蹴ることで発散するしかないんだ。そんなこともわかんないわけ?」
「野生動物かよ。家の中でも歩いてろ」
おっさんは、読んでいた新聞を折り畳むと、投げつけてきた。ありえない!家庭内暴力とは最低な男だ。
俺は、自動人形。野生動物じゃない。
電氣で発展した街で、生みの親である技師の男(知的クールで格好良くて……つまり紳士的な俺!と違って粗野で適当な感じの野郎だ)と住んでいる。
俺は男なんだけど、身体は少女のものだ。人工物だからね、こういうことだってあるんだ。そう、だからきっと少数派じゃないし、決して可哀そうな身の上ではない。ほかの自動人形なんて知らないが。
でもこれでも俺の中では折り合い付いてんだよ、悲しいとかそういうのはないんだ。
自動人形は、人間の死体と電氣の力、それから夢や水分でできている。そんな素敵な存在なんだ。たぶんね。
「やあんっ!一体いつまでこんな狭っ苦しいところに軟禁されてなきゃいけないのぉ?パパはアオのコト、どうするつもりなのよお!」
いつもより舌を丸めて出した声は、頭の内部で少しだけテンの音に近い高さで響いた。
俺は間違えたことに気付いていた。でも用意した発言は一応言い切っておく。途中で止めたら痛々しいからだ。
でもこれ、次回はないな。俺は、俺の考えた女っぽい振りを封印することにした。もうこんなことは二度としない。
だって、箒が俺を撫でるから。そしてテンの粗悪品なんて許せるものじゃない。
俺はおっさんに怒られた。
言及されたのは、発言内容についてだが。