――成就するよう願ってる。その恋が、俺自身のものじゃなかったとしても。
建物と建物の狭間、いつもの待ち合わせ場所。そこで俺たちは向かい合っていた。
チヅルは心配そうな面持ちで、俺の様子を伺っているようだった。薄暗いなら気付かれないとでも思っているのだろう、無遠慮にこちらを観察する視線を感じている。けれども俺は、知らない振りをした。
「具合、大丈夫なの?」
一通り観察が終わったらしい頃合いで、チヅルはようやっと口を開いた。何をもったいぶっているんだろう。口先だけの言葉が返ってくるとでも考えているのか?
「平気だよ」
だから俺は間髪入れずにそう言うのだった。
実際は内部に不安が残るところだったが、今のところ自覚症状と言えるものは表出していない。昨日体内に不快感を感じたあれきりだった。
「無理していない?」
「してない。これっぽっちだってしていないさ」
ただ正直な話、チヅルと会うのは怖かった。
正体――俺自身がどういったモノであるか、その真実に気付かれることはないと分かっていてなお、近付く距離に恐れを抱いた。
それは如何ともし難い己の身を分かっていたからで、諦めだった。
でもそんな懸念や悩みなど相対すれば霧散してしまう。現金なものだよな。
だって気付かれるはずないと、繰り返される思考名の中で確かに俺はそう結論付けたのだから。
「それより、今日はチヅルの方が早かったんだな、今来たってわけでもないんだろう?」
「最後だもの――いいえ、ちがうわね、しばらくここで待ち合わせできないんだもの。だから少し早く来てみたのよ」
俺の話題転換に乗っかってくれた彼女は、落ち着かない様子で身を揺らしてそう言い切ったのだった。
***
「少しだけなら、いいけど」
さて、チヅルに代わって呼び出しをしている。少し抜けられないか、そう頼む俺を見る男の目はやたら水分量の多いようで、光の反射具合のせいかきらりと光った。なんだよ、怖気づいて泣きそうなのか?別に暴力に訴えたりはしないんだけど。体格の劣る少女の身体に恐れる必要はないだろ。俺は不安になった、こいつがチヅルの恋人とやらに収まるのは本当にいいことなのか、ってな。彼女が望む以上、俺はその気持ちを応援してやりたいんだが。
夜――勤務時間が終わってからならたっぷり取れるという言葉は黙殺した。今じゃないと意味がないんだ。
……いや、チヅルにとっては肩透かしでも、明日であってもいいのかもしれないが。でもそれは夜ではない。少女にはその時間の外出は憚られるのだから。夜なら送って行くよなんて言葉も続けて黙殺した。だから俺じゃあないんだっていうの。それよりこの男はあんな路地で俺たちを待たせるつもりなのか?
「ぇえ。少しですから、ほんの少し。だから今少し時間をいただけませんか」
そう言って微笑んで見せる。少しかどうかなんて、それは主観的なもの。何より時間なんてこの男の応答で短くもなり長くもなるのだろうし。そうと分かってはいたが、俺は少しだと言い張った。長いって言って尻込みされたらいやだもんな。
「君がそう言うなら仕方ないなぁ」
なんて渋々ぼやく体の男を半ば引き摺るような格好で、カフェの外――更に人目の付かない場所というか建物同士が作る隙間へと連れ出した。
建物の隙間へと男を押し込めば、俺は存在感を無にして隙間から通りへと躍り出る。
もちろんチヅルと男を人目の付かない場所にふたりきりになんてしやしない。彼女からの要請もあったものの、俺は隙間のほぼ真横の壁に貼りついていた。
そんなにべったりしなくても音はくっきりと聞こえるのだが、俺は限りなく壁と一体化して存在しているのだった。
上擦った少女の声、溜息に詰まる声。
乱れる心音。それから戸惑う声音。
それはふたつの心音から察するに、時間にしてはほんの少しの出来事だった。
けれど少しかどうかなんて主観的なものだろう。きっと時間は一定にしか流れなくて、同時に三者三様に違うように流れていたに違いない。
まず、隙間から男が現れた。
すぐ近くに立つ俺の姿に驚いて、それから困ったような顔で去っていった。とくに言葉は掛けられなかった。
それを尻目に、男と入れ替わるようにして俺はチヅルの前へと飛び込んでいく。
「チヅル」
俺の呼び掛けに、彼女は俯いたまま肩を揺らす。
泣いて、いるのだろうか。
――答えはあたりではずれだ。
俺の声に誘われるように彼女は泣きだした。せめてあの男の前ではと堪えていたのかもしれない。小刻みに震えては嗚咽を漏らす。
「チヅル」
彼女の心情を察した俺は、労わるように声を掛ける
「……って、……だめだっ――」
「ん、うん。大丈夫だ、聞いてたから。ちゃんと分かってる。話はあとで聞くから、だから今は」
乱れて辛そうな声に俺は言わなくていいと止めた。まずは壊れそうなくらいに溜まった分の涙を吐き出してほしいと願ったのだった。
すべて聞いていたから、経緯なんて口にしなくても分かっている。
彼女の中には言いたい、聞いてほしいという欲求があるだろうことは理解していた。吐き出すことによって、ある程度昇華されるであろう悲痛も分かっていながら。
口にして初めて自覚することもあるだろうが、それでもなお、無闇な自傷は見たくなかった。
ひくりと痙攣する臓器のせいか未だまともに言葉を紡げない状態のチヅルの傍にいた。いや、寄り添っていた。
躊躇いがちに伸ばした腕は特に拒まれることはなかったものだから、今となっては遠慮なく彼女をすっぽりと包んでいるのだった。
「ごめんなさいと、そう言われたわ」
「……うん」
やっと落ち着きを取り戻した彼女がそう零す。平気そうにさらりと言うが、それでも声は悲しげだった。
「あのね、私がだめなんじゃあないの。すっ、好きなひとがい、いるのですって」
なんてやつだ。
俺はその言葉を、あの男の声で耳にした時以上に許せないことだと考えた。
だってそうだろう?
好きな人――そう、あいつには恋人や奥さんがいるわけじゃあない。もっと優しくしたっていいんじゃないか?何もこんな少女を泣かせるなんて、なんでそんな酷いことをするんだ。
俺があの男なら、チヅルを悲しい目に遭わせたりしないのに。
泣かせたりなんて、しないのに。
断るんだってもっと上手くやる。いいや、断ったりなんてしない。
どれほど彼女が純粋に慕っていたか、俺はちゃんと見てきたのだから。
でも、そんなことは言えなかった。
今の、女の姿をした俺では下手な慰めにしかならないだろうから。
「……?」
今の俺、なら?
おかしなものだ。前の、少年の身体だったなら、その姿でここにいたならばすらすらと言えたのだろうか。いいや恐らく、言えやしないだろう。俺はあの男じゃない。そんなことはよくわかっていた。
俺はただの友人に過ぎない。同性の、恋人にはなりえない友人。
だから抱き締める腕の力だけは柔らかに、指先だけ固くするのだった。
さよならの時間はきっとすぐに訪れるのだろう。
それでも落ちていく陽の光が消えない内なら、俺はチヅルをこの腕で包むことができるのだった。
***
長かったような、短かったような。
そんな不思議な時間は今まで感知したことのない速さで過ぎてしまった。
感じていた彼女の温もりはとうに冷え切っている。しばらく触れ合っていたのだと実感するようなものは何も残ってはいない。俺は何とも言えないまま、家へと戻った。
あぁ、なんだか億劫だ。おっさんの相手なんてとてもする気になれない俺は、話し掛けられない内にと早々に自室に引っ込むべく、廊下を足早に進む。
なんとかおっさんとは何とかかち合うこともなく辿り着くことができた。狭い家というのは、こういうときにはいいものだ。
「――……い!おい!!」
今日くらいは浸りたい。思考を深めていきたい。だって何かが掴めそうな気がするんだ。そんな俺なんて知らないとばかりに、おっさんがどこぞで喚いている。顔を合わせることはなくとも、声は充分届く範囲。これが狭い家の弊害ってやつか。
「ちょっと来い!」
俺は聞こえなかった振りをすべきかどうか、少しの間考えてみる。
例えここで聞こえない振りをしてみたところで、きっと後に再度言われる事柄だろう。それならいっそのこと、今ですべて終わらせるというのもありかもしれない。
今でも後でも実際のところは大差ない。むしろ、命令違反を咎められた時にこそ面倒は起こるのだろうから。
「今!行く!」
俺はつまらないを通り越したような、不快感に近いものを覚えながら椅子から身を起こす。吐き出した音は尖っていた。
扉から出て、居間へと向かった。ほんの十歩に満たない距離だ。
はたしておっさんは――いた。湯気の出ている何かの入った器を両手で包み込んでいるようだった。ただ、視線だけは俺の方を見ている。
「どうしたんだよ、急に。何か用でもあんのかよ」
「何やら様子がおかしかったんでな」
「は。今帰ってきたところだぞ?部屋で休息することにおかしいところなんてないだろ」
さらりと躱すような俺の言葉に、珍しくおっさんが深く介入してきた。うっとうしいことこの上ない。察して放っておくということもできないのだろうか。
多感な年頃の男は時に放っておくべきなのだ、と。若い頃の想像がこれっぽっちもつかないようなおっさんにもそんな時期は――いや、なかったかもしれない。変人にしか見えないし。
「あのさ、何か言いたいことがあるんならはっきりと――」
「いや、な?最近おかしかったろ、塞ぎ込んでるっていうか。だから何か悩んでることでもあるんじゃないかと思っていてな。経過観察ってことで静観しといたんだが……今日は特に落ち込んでいるように見えた」
などと、俺のことを分かっているのか分かっていないのかはいまいち判別できないものの、おっさんはどうやら俺を心配しているらしかった。最後に「まぁ、研究の一環ではある」と、そう嘯いたことは聞かなかったこととする。それがあろうがなかろうが、大して変わらないからだ。
「この俺に『悩み』なんてあるわけ、ない」
「……そうか。なんかあったら言えよ」
先日のようにしばらく見られてはいたが、掃除をすると言えば、あっさりその視線は外された。
掃除とは程遠い気分だったが、有言実行しなくてはならない。自室へと引き返した俺は、今までずっと手にとってすらいなかった箒に手を伸ばした。水拭きには限度がある。汚れが伸びるんだ。今日はあんまり丁寧にやっていられない気がしたものだから、問題ない範囲で手を抜いていきたい。
今となっては、簡単に見えないように鏡台の影に箒は置かれていた。
きっと俺はそれを見る度にテンを思い出して、その度に鮮度の薄れた記録を思考が繰り返していくのだろうから。それが分かっていたから簡単に視界に入らないだろう位置に仕舞っていたのだった。
俺は有能だし、忘れたくないことを忘れてしまうようなポンコツではない。けれど、だからこそ記憶の中のテンが少しずつずれていくことはわかっていて、それが怖かったのだった。
今、無造作に箒を手に取ったものの、さすがにそれで床を掃く気にはなれない。なんで箒で手抜きしようだなんて考えたんだろう。
それは決してテンへの感傷ではないことだけは分かっていた。ただの俺の意地みたいなもので。
そんな自分をまとめて、少し嫌になった。
柄を握って先端を上に向けてみる。うっかり『掃除』なんてしてしまわないように。
これは大事なものだから。
雑な扱いをしようとしたこと以上に、大事であるという事実を取り戻すように丁寧に扱った。
振り上げたような格好になった丁度そのとき、箒のわさりとした中に白いものがちらりと過る。
「……む?」
なんだこれは。
俺は咄嗟にそれを摘まんで引っ張り出した。それはふたつに折り畳まれた紙で、手紙のようだった――そう、テンの。
俺の脳が何らかの指令を下す前に、指はその紙を開く。
『私の弟、蒼へ――』
そこにはテンの字がたくさん並んでいた。俺の頭が何かを言う前に、視線で絡めとった文字が脳を埋めていく。
私の弟、蒼へ。
そんな書き出しで、その手紙は始まっていた。
内容は、初めてできた『弟』への感謝の気持ち――生まれてきてくれてありがとう、とかいうやつだ――、それから簡単で……どうにもからっぽな自己紹介、そして。
そして、渇望に似た何かの叫びだった。俺には決して分からないだろう、理解できないだろう苦しみに塗れた声だった。
どうやら彼女は病んでいたらしい。それがどういった症状なのか、そこからはあまり測れなかった。それでも壊れていく自身を自覚して、謝罪と諦めと、根底に見える助けを求めるテンの叫びがそこにはあった。
たった数枚の紙きれではあったのだけれど、情報の欠如は甚だしかったのだけれど。それでも初めてテンを深く知ることができて、そうしてなぜ殺されたのかもわかってしまうだけのものが籠められていたのだった。
「…………」
どうしようか。
これは、俺の胸に仕舞っておくべきなんだろうか。それともおっさんに知らせるべきなんだろうか。
ゆっくりと手紙を折り畳みながら、俺は思考を回転させる。すぐに終わってしまう作業にいやに時間を掛けながら。くるりくる。俺は悩んだ。最適解が分からない。
……まあでも、そんな心配は無用だったのだが。
振り返ると、そこにはおっさんがいた。
なに勝手に入ってきてんだ。追いかけてきたのかよ等過ったが、その気配に気付かなかった自身というものに認めがたいものがあったので、俺は何も口にはしなかったしできる限り気取られないように努めたのだった。
「なんだよ」
黙っているのも何か気味が悪いというもの。俺は無難に問うてみた。
「今から掃除するから」
応えないおっさんを無視して、部屋を出ようとする。
先程と同じ言い訳だ。他に言い様はない、事実なので。
すれ違いざまに、肩を掴まれた。そのまま流れるように紙片は奪われる。
そりゃそうだ。残念ながらとでも言うべきか、俺とおっさんには体格差っていう、明確なものがあった。俺は気付かなかったが、きっと俺の頭越しに広げられた紙に踊る文字を見ていたのだろう。
もちろんその文字が誰の手によってしたためられたものなのか、きっと知られている。
不満を漏らすことはなかった。むしろ居心地の悪さを感じる。
なぜならあの手紙は俺宛とはなっていたものの、総合的にはおっさん宛のものだったのだから。俺に届けられなかったのも、その証左だ。
俺は一切の言葉を発しないまま部屋を出た。
おっさんの泣き言なんて聞きたくもなければ、悔恨すら耳にしたくはない。
掃除をするんだ。きれいにしなきゃな。
いつもよりか念入りに行われた掃除の後、しばらくして。
「なぁ、アオ。後悔なんてもんはやっぱしてからじゃあ遅ぇんだよな――お前、なんかあるだろ?はっきり言え。今なら少々無理してでも叶えてやっていい」
おっさんはそう俺に問いかけたのだった。
だから今度こそ、『生まれて』はじめて。俺はねがいを口にした。咄嗟に出た言葉だった。
それが俺の望んでいたことなんだって、音に成って初めて知ったんだけど。




