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俺はコイから適正距離の測り方を考えることにした、だってなんか近いから

「私、言うわ」

 ゆったりと動かしていた足をふと止めて、チヅルは唐突に宣言した。

 街を離れるという事実を告げられてからふたり、特になにをするでもなく彷徨うように公園を歩いていたのだった。

 その間しばらく話題という話題はなく、だから無言の中で彼女が一体どんな思考に到達したのかということはちっとも見えていない。相変わらず思考の飛躍が見えない子だな。

「うんっと?急に何だよ」

「だからね、ずっと抱えていた気持ちを伝えてみようかしらなんて考えているの」

「気持ち?ってどんな?」

 なんだそれは。だからとか言われても説明になっていないんだけど。

 俺は問いながらも軽く思考を巡らせる。このままひとつひとつを尋ねたところで、答えがわかるのは大分先かもしれない。先回りしておく方が賢明だろう。

 裏表がない、とまではいかないんだろうけど、チヅルが何かを秘めているような人間には見えない。俺にとっては良くも悪くも素直な女の子だった。

 いや、待てよ。本人は伏せているつもりでも、実際のところは筒抜けという可能性も低くはないかもしれない。

 うーん、考えても思い当たらないな。

 まったく伝わっていないという俺の素振りに、彼女はおずおずと口を開く。口の重さは、先程までのものとは別種のもののようだった。目が泳いでいる。

「それはもちろん……こ、告白よ」

 だれに?

 決まっている。あの男に、だろう。

 全体から見れば切れ端のような言葉だったが、さすがにそれは理解できた。

 告白というのは、自身の持つ恋愛感情を告げて相手の気持ちを問うというあれだ。そして相手が了承したならば、ふたりは晴れて恋仲となるわけで。……うぅん、時機が早くはないか。


「しばらくここを離れるでしょう?黄烏にだって行けないわ。常連とまではいかなくっても、折角ここまで通ったんだもの。今更なしにするのはもったいなくって……区切りってつもりはないんだけど、これもいい機会かしらって思うのよ」

 耳が拾う音声の意味は分かっている。でも、それはあっさりと流れていくようでうまく掴めない。

 この子は一体なにを言っているんだろう。理解をした上で、俺はそう考えている。

 いや、理解できていないのかもしれない。認識の不具合だろうか。

「告白したせいで隣街から帰ってこなくなる、なんてことにはならないよな」

 理解が像を結ばないまま、俺は呆然としたままに口だけが勝手に動いて言葉を紡ぐ。

「ひどいわ!アオは駄目だろうって思ってるんでしょう?」

「そうじゃなくて。結果どうこうってより、その気になった理由が気になるだけだ。チヅルはビビリだからな、それに至った何かがあるんじゃないか――って、ちょっ、待てって」

「知らないわ。そんなひどいこと言うひとなんて、ここに置いて行ってしまうからっ」

 くるりと回転して、進もうとしていた方向とは別の向きへと歩き去っていく。俺は慌てて追いかけた。

 もちろん本気で逃げる気はないんだろう、それは数歩で横に並べるくらいの速度。俺は再び彼女の隣に収まった。

「第一、チヅルはまだあの男の名前知らないんだろう?もっと親しくなってからでいいじゃないか、それこそ名前で呼び合うようなくらいに」

「……知らない、けど」

 一呼吸分の間を置いて、チヅルは口を開いた。

「あのひとだってきっと私の名前は知らないはずよ。だけど、名なんてなくたって互いの存在認識はし合えていると思うもの」

 そうしてすらすらと、淀みなく言葉を紡いでいく。

「始めから想い合っている必要はないの。それが無関心でも、ただのお客であったとしても、これからの感情は私が足して、引っ張って行けばいい。後から付いてくるものだってあったっていいわ」

 夢見るように瞼をうっすらと伏せて、彼女はそう言い切った。

 圧倒されて、何も言えない。差し挟めるものなんてどこにもない。

 その様子に内臓のどこかが絞られたみたいな、変な感覚に襲われる。――あれ。電氣水のせいかな。

 はやく洗浄してしまいたい。手を突っ込んで引きずり出してしまいたい。そんな衝動と不快感とが俺を苛む。

 俺は最後に「そう、」とだけ呟いた。



 重くなる足を何とか動かす。腕は時たま彼女にぶつかるようにかすめて、いつの間にか肩同士がくっついている瞬間が増えていく。

 もたれかかることはしなかったが、微かなそれが今の俺の寄る辺だった。

 ――ん?今何かあったな。違和のある何かが、俺の視界の端を通り過ぎた。

「あ。鯉だ」

 振り返って見てみれば、そこに居たのは陸魚だった。

 同じ場所に滞在するかのように泳いでいるようで、狙いを定めてそっと手を伸ばせば気付かれる前に触れそうだ。

 こいつはきっと鈍いやつなんだな。

 少し前に、触れてみたいと話し合っていたっけ。ここで一緒に笑い合えたら、また穏やかな気持ちで過ごせるだろうか。どこか緊張感の孕む空気を掻き消せるかもしれない。なんだか不調な俺だって、気くらいは持ち直せるかな。

「だっ!だめよ!!」

 鋭い静止の声に、俺は手をひくりと痙攣させるように押し留める。次の瞬間、腕を鷲掴みにされて、ぐ、と強い力で引っ張られた。

 反射的に指先が空を切っても、陸魚には届かなかった。

「は、危ないところだったわね」

 間一髪という風情に、俺は疑問を覚えた。一体どうしたんだろう。

「チヅル……?」

「あの鯉は死んでいるわ、触ってはだめよ」

 そういえばそうだ。一々気に留めていなかったせいで気付かなかったが、その陸魚からは生きている音がしていない。

 見たところ死にたてのようだけど、腐っているんでもなければ触ったっていいんじゃないか?汚れが付くような見目はしていない。なんてことは、今まで見たことのないくらいに怖い顔をしたチヅルには言えなかった。

 でも俺の言いたいことは伝わったんだろう、彼女は呆れたように諭す。幼子に言い聞かせるような、穏やかな声。

 その穏やかさはまるで悼んでいるかのようで。

「汚いわ。死骸は黴菌まみれだというもの。そんなの触っちゃあ、だめ。近寄るのだってよくないわ」

 ――他所事とばかりに突き放しているかのようだった。

 こんなときのために清掃局がいるから大丈夫、そう言って彼女は微笑んだ。


 死骸。

 汚い。だって黴菌にまみれているから。

 触りたくない、触ってはいけない。それは死骸だからだ。

 自動人形(オートマタ)は、人間の死体と電氣の力でできている。それと、水と夢と希望だったっけ?

 でもそんなのはどうだっていい。

 つまり俺は人間の死骸からできている。そういうことだった。

「!」

 思考がそこまで至った途端、俺の身体は勢いよくチヅルから距離を取った。

 チヅルを汚してしまう。いや、彼女に汚れると思われてしまう。

 俺がどちらをより恐れているのかは分からなかった。判別できないくらいに、だめだと思考が内なる声のようになって強く頭にこだまする。

「ね、やっぱり具合が悪いんじゃないの?そろそろいい時間でもあるし帰りましょうよ」

 俺の様子を不審に感じたのだろう、チヅルは顔を覗き込んできた。いつの間にか俯いていたようだ。縮こまるように、俺は背すら丸めていた。

「本番は明日よ、もちろん付き合ってくれるわよね?それならきっちり休まなくてはいけないわ!」

 でも無理なら教えて頂戴。

 なんて、相も変わらずくるくると表情の変わる声が追い打ちをかける。

「いや、大丈夫。行くよ。チヅルをひとりで向かわせるのは心配だし、だから今日は大事を取って帰ろうか」

「アオがいっしょに居てくれたら心強いわ。でも無理をさせたいわけじゃないもの」

「……だいじょうぶだよ」


 今日はいいことのない日だ。

 悪い知らせばかりを耳にする。



***



「なんかあったか」

 夕食の準備をしているおっさんは何気なく俺に問うた。

 とは言っても、缶詰に入った魚の加工品――側面に『赤魚ノ甘汁煮』と書いてある――に何やら調味液を過剰にかけているだけだが。いくら食事に興味はなかろうと、それが人体にはよろしくない塩分量を追加しているのだということはわかった。

 とくに注意を促すつもりはないので言及はしない。死なない程度に、俺の調整ができる程度に生きていればいいのだし。

「なんだよ、唐突だな」

「珍しい、お前が今更のように本なんざ開くなんてな。生物学か――」

 来るべき明日に備え、俺は読書をしているところだった。内容は、生物の繁殖行動についての専門書だ。参考にできるような浪漫小説や恋物語は、この家の本棚には存在しない。

「俺が繁殖できないのは知ってる。人間と触れ合ってみて、新たに知りたいことが増えたんだよ。前に見たおんなじもんでも違って見える。ま、これは見たことないやつだが」

 そう嘯いてみせる。

 的外れな回答なのは承知していたが、やはりおっさんは俺の製造者というべきかそれで呆れて黙るなんてことはなかった。こんなときに限って捨て置いてはくれない。

「そこまで咎めてねえよ。それにしても外的要因による成長か、望ましいこった。表情も段々とふつうの人間でも違和のないくらいまでになってきてるしな。……だからこそ聞いてんだよ、なんでまたそんな渋い顔してる?」

「べっつに。俺にもまだまだ成長の余地があんだなって考えてただけ」

「まさかお前、誰かに言い寄られでもしてんのか!?まさかだれかと恋仲になったとでも言うんじゃねえだろうな!」

 おっさんは、俺の言葉を額面通りに受け取る気はないようだった。がちゃがちゃと卓上のものが振動する。おっさんが暴れたせいだ。珍しいな。この反応は初めて見た、こんなに驚いているのは。

 何も割ったり溢したりしてはいないようだが――妄言もいいところだ。

「はあ?そうやって寝言吐いてんなら素直に寝とけよ。おっさん、もう若くねぇんだから」

 いきなり飛躍した話題に俺は声を荒げる。

「繁殖できない造り物が恋愛感情なんて、そんな欲求なんて……持つはずがねぇだろ。なに言ってんだ」

「……確かに」

 少し、間が開いた。その意味は分からなかった。

「だがな、アオ。人間の恋愛感情ってもんは、繁殖とは割ともう切り離されてるとこがあんだよ。全部がそうじゃねえ、部分的なとこもあるかもしれんがな」

「あんたがそんな台詞吐くのってなんかきもちわりぃ」

 言うのに躊躇ってでもいたのかよ。そのまま黙っていればよかったのに。

 おっさんは俺の悪態を無視して、魚を口に運び出した。

 まさか今更こんなことで傷付いたというわけでもないだろう。言葉が返ってこないことに、俺は少し動揺した。調子が狂う。

「いや、俺はあんたの過去の恋愛がどうだったとか知んないし興味ないけど。そうやって過去の感傷に浸っ、」

「んなわけねえだろうが。メシ食いたかっただけだっての」

 全部を言わせてはもらえなかった。

 ま、どうせ過去の恋愛事情どころか感傷とすら呼べるものさえ持ち合わせてないんだろうが。こいつは偏屈な男だ。寄り付く女などいるはずもなかった。

 テン、は――テンは分かんないけど。あんまりそういった感じはしないからやはりいないのだろうと結論付けて。

「はいはい。じゃあ黙って食ってろよ」

 俺はもう話かけるなとばかりに右手を閃かせた。


「お前が身を持って恋愛感情を解することができる日が来たならば報告するように。それはそれで興味深い」

「そんな日、来ると思ってんの?」

呆れた声で応じておく。俺の頁を捲る手は完全に止まっていた。

「さあな。でも、来たとしたら素晴らしいだろうが」

 俺の(技術)が。

 その言葉に俺は鼻で笑ってやった。もうこうして手を離れてる以上、おっさんだけじゃなく俺の手柄でもあると主張しておく。

 おっさんはまた俺を無視して魚を口に突っ込む作業を再開した。くそ。



「……そういやさ、俺の身体(ボディ)から人間の部分を抜くのって無理な話なわけ」

「無理だな」

 すぐにそう切り返された。機械的な判断で、そこには何の感情もこだわりもないようだった。

「もちろん処理はしてても経年劣化ってもんがある。うん?もって3年じゃねぇか」

「結構短いんだな」

「そんなもんだろ。……それにしても、読んでるもんとはこうも逆の質問がくるとはな。これが感性の違いってやつか?」

 興味深いとばかりにおっさんは俺をじろじろと見てくる。

 俺は今度こそそれに以上話を続ける気はないとばかりに読みかけだった書物へと視線を落とした。



 電氣水のことはまだ言っていない。

 この身体をどうにかするのか、それとも俺自身が廃棄になるのか。

 おっさんが何を選ぶかなんて俺にはわからない。そういう選択肢なら、彼女の出立には立ち会えない。明日にだって間に合わないのは分かっていた。他の選択肢があったとしても俺には思い付かなかったし、こういうときは最悪を考えるべきだ。

 だからあとちょっとの時間くらい黙ってたっていいだろう?

 そのことについての後ろめたさなんてなかったから、俺は堂々としたものだった。

 俺の在り様にこそ、後ろめたさが勝っていたせいもあるのかもしれない。

 あの内臓の不可思議な感覚は、もうなかった。


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