知らされた衝撃の事実!無垢だった俺の身体に忍び寄っていたアレ
場所はいつものごとく、黄烏。
注文の品を待つ間、俺たちは交換し合ったロゼットを順番に開封している。とはいっても洒落た色紙で包んであるわけでも飾り紐でで厳重な封がしてあるわけでもない、小さな紙袋。材料を買い求めた際に手に入れたものだ。丸められた、あるいは折り畳まれた上部を引き伸ばせばすぐに終わる作業なのだけれど。
椅子に深く腰掛けて、目の前で進行中の開封作業をぼんやりと眺める。
そういえば。と、まるで今気付いたかのように俺の内に何度目かの記憶の浮上があった。
一緒に出掛けるという男の申し出を、このとき俺はまだチヅルに伝えられないままでいた。
忘れていたわけじゃあない。ただ好機がないからで、道中言えなかったのは上手く口火を切れなかったから。今は視界に入る位置に当人がいる、こんなところでは話しづらいせいもあった。
……ぐ。それは嘘ってわけじゃあない、でも真実ってわけでもない。ただの言い訳なんだ。
伝えきれなかった理由、それはなんだか水を差されるようで。――何に?決まっている、ロゼットの受け渡しっていう特別な事柄だ。
チヅルも楽しみにしてくれていたみたいだし、互いの準備だってあったんだ。それをないがしろにされるだなんて考えられなかったが、なぜだか無性に嫌だった。
あとから伝えたって別に時期を逸するわけでも、色褪せてしまうようなものでもないだろう。だから、後でだって問題ない。
口を開けた紙袋上から覗き込んで、チヅルは恐る恐るといった動作で手を突っ込むと、中からロゼットを引き上げた。
そんなにしなくっても壊れはしない。むしろ落として駄目にしてしまう公算の方が高いように見える。いや、机から落としたって損なうようなものではないが。
「これがアオから見た私の印象……?ふふ、なんだか高貴な感じがするわ」
「そうかな?単に作り手の品の良さが表れてるってだけかもしれないよ。それに、手加減した結果かもしれない」
「お上品になり過ぎないように?」
「さあて?どうだろうね。お転婆になりすぎないように、って方かもしれないけど」
俺の意地悪な返しにも、チヅルはうれしそうに笑い声を立てた。軽口だとでも捉えてるようだ。
でも、嘘じゃない。
身体的特徴――彼女の纏う色味を揃えるように尽力はした。印象的な孔雀緑の目を連想させるような硝子石、それからリボンの配置だって豊かな髪を思わせるようなものに。
涼やかなはずの色が、リボンのせいか甘ったるくなってしまいそうで。それは全然彼女らしいとは言えなくって、だから仕方なく装飾性を高める方へと舵をきったのだった。
甘やかさを抑えるのに必死になって、気付けばお行儀の良いものができあがっていたのだった。
完成してみれば、注意を払ったそれよりか甘さのある試作途中の方が彼女らしいのではないかというような思考が頭を過る。
おかしい。チヅルは決してふんわりと甘い女の子ではない。それは第一印象から一貫していて、だから俺の認識がおかしいのだろう。彼女はいつもここで食べる焼き菓子を楽しみにしている。それに引っ張られたのかもしれない。いや、楽しみにしているのはあの男に会うことを、だろうか。
よくわからなくなって、俺は視線を下へと落とした。
不定形の思考はぐにゃりと歪んでいて心地の良いものではない。目的もなくほんやりしていて、きちんとした思考ではないせいだ。
顔を伏せたままにきゅっと眉間にしわを立ててみる。そうすると、思考が少しだけまともな動きをしそうな気がした。
気付けば視線の先――手元には開封済みのロゼットがあって、俺はそれを両の手の内に閉じ込めるよう握り込んでいた。もちろん潰すことのない様に軽く、軽く。
でもそんなのはあくまで力加減での話だ。慌てて閉じた手を開く。……よかった、曲がったり折れたりはしていない。
チヅルが、俺のことを考えながら作ったロゼット。縫い付けてあるダークブラウンの硝子玉が印象的で、鋏で扱くようにくるりと巻いたのだという細いリボン。――俺にとってそれはテンの色で、形だ。
『姉』と出会ってからと俺がこの姿を得るまで、それから今日までの時間。この3点の内、前より後ろ2点の距離がどれほど広がったところで、この色を俺のものとは認識できない。どうしようもなく、テンの色だったから。
そのせいかな。贈り物をうれしく考える頭はあるはずなのに、俺にはいまいち現実味が薄いのだった。
時たま何か言葉にはしてみるものの、ふたりして静かに贈られた品を眺めている。
ゆったりとした時間の中に停滞している。いつもの定番である飲み物と焼き菓子はとっくに届いていた。
この時間は嫌じゃない。近くでチヅルの音がする。それだけで落ち着けるのだった。
同時に、せっかく共にある時間は限られているのだから何か言葉を交わしたいとも考えている。両立しない考えは、どちらの方により傾いているものか。
算術でもあるまいし、過程はともかく答えはひとつに絞る必要はないだろう。それも俺は自動人形、電氣工術の答えはいくつもあるのが常だから何ら不思議はないのだけど。
細かな水滴で曇った硝子を無造作に掴んで引き寄せる。ひやりとした感覚のあとに、氷が音を立てた。
曇っている部分は下半分――半分よりすくなくなっている電氣水、それを口に含む素振りをする。その間だけ、チヅルの方へと何度かに分けて視線を遣るのだった。ロゼットに夢中なチヅルの方に。
出された飲み物はあんまり減っていない。焼き菓子だって手を付けていないままだ。いつもの通り、押し付けようと寄せておいた俺の分の小皿も中途半端に机の真ん中に陣取ったままだ。
……何か言えばいいって?でもうまい話題なんて特には浮かばない。見つけられるまで、俺はこうやって繰り返すんだろうか。
それにしたって飽きないんだな。何をそんなに見ることがあるんだろう。
チヅルの特別だとでも言うかのような反応は初めはただ喜ばしいだけだったが、ここまで尾を引くとなれば少しおもしろくない。
俺からの贈り物がうれしいんじゃなくって、相手はだれでもよかったんじゃないかと被害者ぶったような嫌な思考がゆらりと立ち上る。
「チヅル?そんなにじっと見て、布の目でも数えているのか」
ちゃんとした話題を見つけるまではと閉ざしていた口は、簡単に開いてしまっていた。それも拗ねたように口の中で言葉を転がすような不明瞭さを纏って。
詰まらなさそうな俺の声音に気付いてか、驚いたように彼女は顔を上げる。
「いやだ、素敵できれいなものってずっと眺めていたいじゃない?」
「お褒めの言葉をありがとう。けどさ、だからってずっと黙ってばかりじゃあ詰まらないんだけど」
「それは……えっと、ないがしろにしてるわけじゃないのよ。何もしなくても、気を遣い過ぎないで互いに 別々の好きなことをしながら一緒に過ごせる相手って特別なものではないかしら」
知った風な口を聞いても、そんなバツの悪そうな顔なら何の説得力もないんだけど。
「でもそうね、ちょっと度が過ぎていたかもしれないわ。いつも通りに過ごしましょうか」
でも改めてくれるのならわざわざ口にすることもないな。責め立てようってわけじゃないんだ。
別に……チヅルの言葉に気をよくしたとかそういうのじゃないからな。
「『いつも通り』他愛ない話しながら、あらぬ方向を見てみたり?」
俺の揶揄いにチヅルはむ、と口をすぼめた。
「もう、アオっってば――」
「着信連絡がございました!お呼び出しです」
不意に店内に漂うゆったりとした空気を切り裂く声が響いた。
いつもは会計台で何やら帳面を繰ってばかりの初老の女――多忙時には給仕係もする――のものだ。控えめに、それでもはっきりとした口調で音声着信が入ったことを告げる。
音声着信――離れた場所にいる者同士の音声を繋ぐ電氣の回路だ。
俺の住まいにもその機器は備え付けられている。だからそれがどんなものかは知っているし、使用法すら把握していた。だが、実際に使ったことはない未知のものだった。
自宅以外の公共施設や飲食店でも、こうした呼び出しはあるようだったが、俺が遭遇したのは初めてだった。火急でなければ、外まで電氣で追いかけてきたりはしないものだ。場合によっては走った方が都合のいいこともある。
「お呼び出しです、チヅル様……こちらにチヅル様はいらっしゃいますか?」
「私っ!?えっ、え?」
だから呼ばれたチヅルは声音を裏返して、目を見開いた。すぐに真剣な顔になると、急いで女の方へと走っていく。一体何があったんだろう。大事でなければいいけれど。
それにしてもすぐに邪魔が入るなんて!今日はあまり歩調が噛み合わない日なのかもしれないな。
こつんと靴先でチヅルが先程まで座っていた椅子の脚を突いた。鈍い音が机の下から響く。
俺がそうやって落ち着きなく座っていると、男が寄ってきた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
間が悪い。どうせならチヅルのいる時に来てくれた方が良いのに。
「甘いお菓子は苦手かな?いっつも食べないであげてしまうだろう?」
俺の思考など露知らず、未だに名も知らぬ男は馴れ馴れしく絡む。うっとうしいことだ。
ちらりと男は机の上の焼き菓子を見たようだった。
店員としては、注文しておきながら商品を口にしない客に気分の良くないものがあるんだろう。けれど、俺たちは残したりはしていない。チヅルに食べてもらってるんだからな。
もちろん電氣水は俺自身でちゃんと干す。
「だから今日のお菓子はね、香辛料の入った焼き菓子なんだよ」
俺の相槌すら待たず、男は続ける。――甘い電氣水にぴったりなんだ。もちろんお茶にだって合うんだけどね、と。
一瞬、眼球の上を電氣が走ったような気がした。
言われた音の羅列を、意味のある言葉として理解できたのは耳に入ってからしばらくしてのことだ。
え?甘い、なんだって……?
何も感じないはずの内部器官がうごめいた気がした。付随するように脳内に湧くのは腐り落ちていく一歩前のような、そんな幻。
つまり俺がただの水――電氣の通っただけの、ただの水を飲んでいたつもりが、実際は電氣の通った砂糖水だったってわけか。
なんてことだ!そんなものを飲み続けて、俺の内部が無事なわけはなかった。
今からならまだ間に合うか?おっさんにどやされるのは仕方がない。それより身体を守らなきゃいけない。だってこれは、テンの――。
「あの。水、ほしい……水」
水で薄めてしまえば、とりあえずの応急処置にはなるよな?たとえ手遅れであっても、しないよりはいい気がする。
衝撃のせいか、頭の内が痺れている。あくまでぼんやりしてるっていうだけで、それ自体が砂糖を取り込んだ弊害じゃないはずだ。
俺の様子を訝しく思った男の手によって、すぐさま冷たい水が届けられることとなった。
いつもよりぎこちなくしか動かせない手指で硝子の器を持ち上げる。不思議とてのひらは硝子に吸い付くようで、取り落とすことはなかった。
ゆっくりと口に含む。入った傍から冷たい液体が内側の臓器を伝って落ちていった。
でもそれが真実ただの水かなんて、味なんてものの分からない俺には判別なんてつかないんだけれど。
「大丈夫?横になるかい?」
「…………大丈夫です」
男はまだそこにいた。手に持っていた何かを俺の顔の前へと差し出した。何か――手巾だ。恐らくは冷たい水に晒していたんだろうそれは、固く絞った跡がついてる。
おざなりな礼を口にして、手巾で口許を覆った。そんなことをしたって、体内に入れてしまった不純物がせりあがってくるわけではないのはわかっている。
もうとっくに身について、染み付いている瞬きをしていないことに気付き、瞼をそっと伏せた。
視界が遮断される。何も見えなくなった。
彼女が戻ってくるまでに、この不安定な思考をなんとか落ち着かせることはできるのだろうか。
***
あのあと戻って来たチヅルに様子がおかしいと看破された俺は、彼女に引きずられるようにして黄烏を出てきた。まるで、忌まわしき電氣水から逃げるように。
逃げた先は、前に通りすがっただけの公園だった。
誘ったつもりなんてなかったけれど、早く帰りたい気持ちと帰るのが怖い気持ちを持て余す俺に気付いたのかもしれない。あるいは、彼女こそが。
着信が何であったか、チヅルは口にしない。ただ道すがら、眠い、疲れたというような短い言葉だけを音にした。
「新鮮な空気が吸いたかったの」
公園に入ってしばらくすると、ようやっとチヅルは二単語以上の発言を解禁した。いや、意図的に封じようとしていたわけではないのだろうけど。
それにしても、たったそれだけのことでずいぶんと移動したものだ。
「確かに。街中にはあんまり緑がないな。空気が薄くなっているとまではいかないんだろうけど」
「でも、植物の近くの方が空気中の電氣濃度が低いって言うじゃない」
そんなものかな。
きっと俺には感知のできない類のものだ。
どうやら人間には空気を走る電氣の存在を、捉える器官があるらしい。
「最初泣いているのかと思ったわ、さっきのことよ」
「さっき、って黄烏で?……そんなわけないだろ、ただ気分が優れなかっただけだって。空気が悪かったのかもしれない」
チヅルの言葉を流用してみた。そうやって軽い風に言ってみる。
まだ本調子ではなかった――会話に集中していないと、体内のことがちらついて仕方がない状態だ――けど、徐々に落ち着いていっている気がするし、そのうち何とかいつも通りに振る舞えるんじゃないだろうか。そんな予測を立ててみる。
いや平気なのは、話相手であるチヅルこそが、あんまり大丈夫そうに見えないからなのかもしれないな。彼女と別れたら、また元通りになってしまいそうな嫌な予測も同時に立った。
「そう。おんなじね」
深くは追及しない。俺にかまけていられないくらい、彼女自身も何かを抱えてしまったのだろう。何とはなしに、そう気付いてしまったものの無遠慮に踏み込めるものじゃあない。女の子っていうのは繊細なんだ。俺は外見はこんなだが、中身はれっきとした男で――その上人間じゃない。躊躇いがあるのも道理だった。
「あのね、」
――と、一連はあくまで慣らしの話題だったのだろう。
口の中で言葉を転がすような不明瞭さで、チヅルは何かを言いかけた。言いかけて、止めた。
「うん?」
これはもしかして、くるか?
「えぇと、ね」
いや、こないのか?
チヅルの方へと耳を寄せた。焦れたわけじゃない。俺にしてみれば聞こえないものではなかったが、距離を置いて話すには心許ないかもしれないという配慮だった。
「しばらくの間、会えなくなるわ」
「え……」
齎されたつぶやきは、俺のすべての動きを止めてしまうほどに大きな破壊力があった。
たとえば、ずっと頭の真ん中に陣取っていた電氣水のことなんて払拭するほどに。
「もちろん、ずっとじゃないわよ。でも月が一巡りするくらいはかかると思うの。もちろん具体的な日時なんて分からないのだけれどね」
「どういうこと?外出禁止令でも出た?それなら屋内で、こちらから会いに行くのだって駄目なのか?その口振りだとチヅルの希望ってわけじゃないんだろ」
「落ち着いてちょうだいよ」
自然、早口でまくし立てるようになってしまった俺を宥めるよう、チヅルは俺の腕をぽんぽんと叩いた。衝撃すら知覚できないような、そんな軽さで。柔らかさで。
「隣街――とはいっても郊外になるわ、ここからだと馬車で半日はかかるのだけれど、しばらくそこに滞在しなきゃいけないの」
なんでも、ここから離れたその地にはチヅルの祖母が独りで暮らしているらしい。
周囲に友人もいるし、元気なことから今まで親族が引き取るだなんて話はなかったそうだ。
だが、数日前足に怪我を負ったことで一人での生活がままならなくなったらしい。その介添えにチヅルの母親が祖母の家へと向かったそうだが、そこで体調を崩してしまったそうだ。
家や父親の職場に連絡しようにも繋がらず、チヅルの通っていた黄烏に通信を飛ばしたとのこと。
幸い、そのあと父親と連絡は取れたようで――だから席に戻ってくるのが遅かったのか――、相談の末、チヅルがかの地へと向かうこととなったのだった。
「すぐにってわけじゃないの。準備があるから3日後の朝に発つわ」
その顔に悲壮感はなかった。だから少し突っ込んだことを聞いてもいいだろうか。
「チヅルのお母さんの病気って、すぐ治るような風邪とは違うの?」
「一旦は診療所に駆け込んだみたいなのだけれど、大きな病院に移らなくってはいけないみたい。母は滅多に病には罹らないのだけれど、罹ったときが重いの」
「そうなんだ。ということは、いろいろ大変なんだね。お母さんもお祖母さんもお大事に、チヅルも身体には気を付けてよ」
口が重かった理由に、俺がどれほどの量を占めている?チヅルは、俺に会えないことも残念に思ってくれているのだろうか――。
ふと、そんなことが気になった。馬鹿馬鹿しい。そんなの、自分の肉親が心配だからに決まっているじゃないか。その他の理由なんて、あるはずもないのに。




