住所?個人情報は教えられないよ。え?手紙だけ?なら仕方ないな、俺宛の恋文送り先はこちらまで!
公園の出入り口のひとつ――いくつあるかは知らないが、入ってきたのとは別のところだ――から、街中へとこの身を移す。
ほんの数歩だけで雰囲気はがらりと変わった。ゆったりとした気配が雑多なそれに塗り潰される。
夕暮れ時、出歩く人間がやけに多い。影が増えて、明るい部分が減ってるせいでそう見えるんだろうか。
――さて。
チヅルはもうとっくに去ってしまってここにはいない。俺ひとりだ。……どうしようか。
彼女の残像につられてここまで歩いてきたものの、俺はこの道を知らなかった。そもそもこの公園に足を踏み入れるどころか存在すら把握していなかったというのに、ここからの道筋を知る筈もない。
道程は覚えているから、元来た道を辿れば迷うこともないだろう。しかし手間だな。今回はともかくとして今後のために、早い内にこの街の地図を覚えた方がいいかもしれない。
これからもこのようなことがあるのだろうから。
俺は今、軽い興奮状態にあったんだろう。この浮きたつような気分は新たな学びへの欲求だけじゃないはずだ。
これは期待というものなのだと、何となく悟っていた。
「そこのキミ!待ちなさい」
目の前に立ち塞がる影。おっさんよりおっさんな声。……誰だ?
俺は影の繋がる先へと目を向けた。数歩先に佇む誰か。
ずんぐりとした丸みの影は、独特な角帽を被っていた。これが逆日でなければ、そこに添え付けられたバッジがきっと鈍く光っているはずだ。
恐らくこいつは、自警団員――街の風紀を守り、おおよそ相応しくない者たちを取り締まる役目を帯びた組織の構成員だろう。
「若い娘が……いや、子どもがこんな時間にひとりきりで出歩いていちゃあ、危ないだろう!?」
それはもっともだ。でも叱責するくらいなら止めないでほしい。こうしている間にも日はどんどん翳っていく。
それに、そこまで居丈高に言い募らなくともいいんじゃないか?うっとうしさと不快感しか生まれない。
これが元の身体だったなら、呼び止められることもなかったんだろうか。
「はい、では急ぎ帰宅しますので」
だからついぶっきらぼうな言い方になってしまう。
自警団員らしきおっさんはそんな俺の応答を咎めることなく、電氣板を取り出した。回答なんざ聞いてないんじゃないのか?
「住所と氏名をこちらに記入しなさい。もしや勤務先からの移動か?もしもそうだったなら、そちらのものも書くように。書き終われば住まいまで送り届けよう」
うわあ、なんという面倒な。
俺個人の手間を除いたって書きたくはない代物だ。これは確実におっさんになんか言われるやつだってわかる。
住所を書かせるって言うのはあれだ、記録のためか後日訪問か通知だかが来るかっていう――取り締まりってやつ。これは不味いことになったぞ。
うちのおっさんには後ろ暗いところが山ほどあるに違いないだろうし。拘束でもされてみろ、俺にだって大変な目が待っているはずだ。
暗い想像に俺が手を伸ばしあぐねていると、暗くなった。嫌な想像が進行したんじゃない、視界だ。新たな影が差したってこと。
それは自警団員のおっさんがさらに接近したからでも、陽が落ちたからでもない。新たな人物が接近したってことに他ならなかった。
「すみませんでした。ちょっとそこで知人と話し込んでいて、目を離したらつい――拗ねて先に歩いてしまったかな?いやあ、ひとりで歩かせるつもりはなかったんですが」
「あっ」
俺は反射的に声を上げた。闖入者は見知らぬ親切な誰かじゃない、知人――本日行き先を変更したことで会うことのなかった、チヅルの想い人たる男だった。
やつは平然とさっきまで一緒にいたと嘘を吐く。いっそ清々しいほどに、さらりと。
その様子に、推定自警団であるおっさんは安心したように頷いた。
「だったらいい。だがほんの少し目を離しただけで人攫いは起こるからね、気を付けるように」
人攫い、と聞いてはっとする。そういえばチヅルは無事に帰れたんだろうか。気になった。でも確かめる方法なんて俺は持っていない。それが酷く落ち着かなくさせる。
ここで焦っても仕方のないことだ。ぐらぐらする思考を見ない振りして、ぎゅっと奥へと押し込めた。
「よし行った、行った。なんとかやり過ごせたみたいだ。でも君、今日はひとりなんだね。駄目だよ、若い女性がこんな時間まで一人歩きしてるのは」
「そう、ですね。今後は太陽の動きに気を付けていきたいです」
「お説教はさっきの指導員からたっぷり聞いたからもういいかな?」
引き続きぶっきらぼうに応じた俺を、男は気にも留めない。馴れ馴れしく冗談など言ってみたりしている。
この男には上滑りするような言葉の軽さがある。きっと俺はそこが好かないんだろうな。
友人と定めるなら気の良い男だが、チヅルの相手と考えるなら軽薄にすぎないだろうか。対象を変えれば評価がぐるりと裏返しになるのはおかしな気がするけど、それぞれで付き合い方が異なるんだからおかしくはない、よな?
評価が狂ってもやもやするのはチヅルの気持ちを知ってるせいなんだろう。そう結論付けた。
「いえ、助けて頂きありがとうございます」
でも俺は真っ当な感性の持ち主だからな。礼くらいはきちんと言える。
それに助かったというのが正直なところだった。あのまま逃走できるわけないしな。今後の課題として、おっさんに聞いておくか。ここは素直に指示を仰ぐところだろう。
この件に関してはおっさん都合の割合が高くなる。俺だけの判断で対策を立てるのは好ましくない。――なんて、俺はうっかり思考に沈んでしまってたようだ。近くにいる男の存在を意識の外に置いて。
「じゃあ、送っていくよ」
「いらない……いりません」
だから思考の隙間に差し込まれた言葉への、咄嗟の切り返しは素そのものだった。優秀な俺はすぐに気付いて言い直す。
「そういうわけにはいかないな。今度こそ悪いことを考えてるやつが相手だったなら逃げられるとも限らないだろう?」
「む、……」
言葉もない、俺。対して男は笑顔を崩さない。自分の提案が通ると確信してる顔だ。くそ。
そういえば最初のときもこうやって言い包められたっけ。いやあれは、良い提案だったけど。
「それに次おんなじ目に遭ったらどうするんだい?罰則の清掃は結構面倒だよ」
「罰はいや、です」
遠回しな受け入れ表明。じゃあお願いしますなんて言えやしない。
「なら決まりだね。あれって結構重労働なんだよね、君なら丸一日かかるんじゃないかな」
「そんなに重いんですね」
ただの奉仕作業だけで済むとは限らない。あくまで表向きのもので、裏では何かしら記録が付けられるだろうから。
それで俺の存在の不審さが露見しては困る。……テンはここの人間だったわけじゃないらしいし。誘拐とか人買いとかそういった事情があるんなら尚更困ったことになる。
さ、行こうと促され夕暮れの街を歩く。
「そういえば、君の家までの道がわからないな。教えてくれる?」
「では黄烏にしてください。そこからはひとりで帰ります」
一般的で分かりやすい場所を挙げられなかったから、カフェをそうと定める。そこなら家までの距離も悟られにくいだろう。後を付けられるとは考え難いが、少しだって知られたくはないからな。
それにきっとこの男の行く先も黄烏だ。丁度いいんじゃないだろうか。
「うん、わかった。そこから先は気を付けて帰るんだよ」
男は俺の方を見た。視界の端で動く気配がした。でも俺は合わせて見上げる気にはなれなかった。ただ、わかりましたとだけ返す。
それからしばらくは沈黙が下りた。
ふたりの間の言葉が少ないのは、偏に俺があんまりしゃべらないからだ。充分操れると自負しているが、遣い慣れない言い回しは口を重くする。それに特に話したいこともなかった。
終着点へはすぐに辿り着いた。こんなに近かったのか。下手に戻らないでよかったな。
でもひとりなら知らない道でしかないから、それは意味のない仮定なんだけど。
「ありがとうございました」
「いいよ、気にしないで。たまたまだし、遠回りしたわけでもないからね」
黄烏の前、俺は簡単に礼を言う。あとは帰るだけだ。だけとは言っても、面倒事が起こらない内に急いで帰らなきゃな。
「今度遅くなりそうなら声を掛けてよ」
振り返ると、背後から声が追い掛けてくる。
なんだ?清掃ってことになったら手を貸してくれるとでも言うのか?それはありがたい、けど。
「手伝ってくれるのはありがたいですが、罰前提で出歩くつもりはないですから」
おんなじことを繰り返すつもりはないから、それは無用の申し出だった。
「違うよ。あらかじめ声を掛けてくれたら一緒に歩くよってこと。そうしたら荷物持ちにもなるしね」
違うのかよ。
でもそんなこと言い出すなんて分かるわけがなかった。それくらいに奇特だ。
とりあえず頷いておいて、家に向かって走り出す。
これを上手く利用して、今度チヅルにどう提案しようかなんて考えながら。
***
針を操って、ちくちく縫い上げる。地味な作業だった。
こんな細かくなけりゃ、電氣家具――ミシンだとか糸留め機でも使ったというのに。……いや、どうだろう。チヅルへの贈り物なんだ、どうせなら手づからやり遂げたくはあったが。
俺は慎重にロゼットを作成していた。
真ん中の平たい円盤に余裕を持ってふっくらと紗で覆う。俺は今、そこを縫っていた。それらの隙間にはチヅルの瞳の色――孔雀緑の硝子ビーズを閉じ込めてある。色石だと重みに負けるだろうからな。
このあと、彼女の髪色と同じ、茶味がかった黒いリボンを垂らす予定だ。
「帰って来てから何やってんだかと思ってたが……ついでにシャツの釦、付けといてくれ」
おっさんだ。
まあ、居間でやっていたら目に付くか。俺は適当に応じた。
「あんたは何のために俺を造ったんだよ。生活環境を整えるためか?」
「……はぁ、だったら手先の器用そうな細い指を持った、力仕事のできそうな大女を雇ってるだろうさ。何より、味覚の目茶苦茶な自動人形を家事手伝いにする気もない」
へいへい、そーですか。
「そんなら、俺は別になんもしなくっていいってことか」
「バカか。養われてんだから最低限のことはしなきゃなんねえんだよ、掃除とかな」
なんて横暴な。でも仕方ない、俺の調整はこのおっさんが一手に担っている。それは俺自身でできないことだった。
「わーかったよ、繕っておくって。……出来は知らないかんな」
ま、後回しだけどな。とは言わないでおく。
そうは言ってもじきにできるだろう。次会う時にはもう渡せるはずなのだから。




