彼女は言う。それはコイだ、って――えぇ!こんなところで!?
今日も今日とて待ち合わせ。俺はいつもの建物の影の中にいてチヅルを待っていた。
そう、毎回彼女が先に来て待っているというわけじゃなく、こうしてたまに俺の方が先に着いていることだってあるんだ。
コツ、と踵で壁を叩く。鈍い音がかすかにした。
待っている間は特に何もすることがない。でも決していやな時間ってわけでもなかった。ひたすら路地の方へ意識を集中させて足音を拾ったり、ぼうっとしてみたり。
そうやって俺は適当に、何か生産的な思考をするまでもなく待っている。
「アオ!遅れてしまってごめんなさいね」
視界の端――路地の方の明るさが翳ると同時にチヅルの声が飛び込んできた。
「ん?あぁ、ちょっとだけだから大丈夫だよ。むしろ過ぎてたのに気付かないくらいだったし。……っと、髪型がいつもと違う」
「そうなのよ、目新しい私を演出しようとしたら上手くいかなかったわ。元に戻そうとしたのだけれど、変な癖が付いてて散々だったの」
だからリボンで誤魔化したのだと、チヅルは垂らした毛先を指に纏わせた。くるくる、くるり。三回まわしきる前に、髪はするりと解けて滑っていく。
その指遣いは様にはなっていないけど、愛嬌のある仕草に見えた。
「似合うよ。いつもと違う感じだけど、雰囲気が違って見えて新鮮だ」
女の子は褒めるもの。紳士を自称するところの俺としては、当然のことだ。
自然に、大袈裟になり過ぎないように。褒めることに注力するあまり、普段をないがしろに言ってしまわないよう気を付けなきゃな。
「ありがと――ねぇ。さっそくなのだけど場所、変えましょうよ」
チヅルはあっさりそう返すと、話題を進めた。
ま、これがあの男相手だったなら違うんだろうけどさ。
でも肩透かしな気がして詰まらない。世辞で言ったつもりはない。照れろとまでは言わないけど、もうちょっと嬉しそうにしてほしいものだよな。
べつに喜んでもらうために口にしたわけじゃないけど。
「わかった、ってチヅル!?どこ行くんだよ。カフェに行くんじゃないのか?」
路地から出ると、チヅルは茶亭・黄烏の方向に背を向けて一歩足を踏み出しかけたところだった。彼女は足を止めて振り向く。俺を待ってくれているんだろう。気付いていたけど、俺も止まってみた。
だって方向違うんじゃないか?それとも先に寄る場所でもあるんだろうか。
今までそんなことはなかった。俺たちが行くのは、いつだってあのカフェなのだ。
「いいえ。こんな失敗作なところ、見せられないわ。いくらアオが良く言ってくれたって、私がいやなんだもの」
うーん、この反応はもしかして安易に褒めたのは間違いだったか?
いくら偽りないものだって、受け手の心持ちに因るんだからこういうこともあるだろう。
でもそれは残念なことだった。俺の感性が変だと言われているわけじゃないんだろうけどさ。何ていうか、届いてない感じがして。
「気になるんなら、整える間くらい待つけど」
「いやよ。待たせてるなんて気になって集中できなくなってしまうもの。それに今日はもう上手くできない気がするわ」
相変わらずの小心っぷりだな。まあそこまで言うなら無理強いはしない。強いて待ちたいってわけでもないしね。
「なら、今日はやめにするのか?せっかく出てきたんだけど」
「やめになんてしないわ。だって私たち、いつもカフェにしか行っていないでしょう?たまには違うところに行ったっていいじゃない。その、いつも付き合わせてばかりで悪いなあって、そう思っているし――結果論だと言われるかもしれないけれど、たまにはこうやってふつうに出歩くのだっていいかなって思うのよ」
それならまあいいかと彼女の傍へと寄っていった。待たせちゃいけないとばかりに小走りで。
今度は並んで歩く。
「ふぅん。で?どこか当てでもあるのか?ただの散歩だってかまわないんだけどさ」
「散歩も悪くないけれど、それもね……ってことで、行きたいところがあるの。急ごしらえにしては悪くないわ。いいえ、むしろ今の私たちにぴったりの場所じゃないかしらって思うのよ!」
――と、勢いよくチヅルに連れてこられたのは、手芸用品の類を扱う店だった。
様々な生地にボタン、既製品の詰まらない柄のレースがひしめきあっている。手縫いは高いから、こんな小さな店では扱いがないか、奥に仕舞ってあるんだろう。
いろんなものがぎゅうぎゅうに押し込まれていて、狭くはないはずの空間に圧迫感が生まれていた。
「なんだよ、やっぱり髪をいじるんじゃないか。新しいリボンでも買うのか?」
筒に巻き付けられたリボンをちらりと見て、俺は先んじておおよそ正解のようなものを口にする。したつもりだった。
けれどどうやらそれは『間違い』であったらしい。吐息を漏らすようにチヅルは笑う、忍びやかに。
「違うわ。ロゼットを作って、友人同士で交換するのが流行しているのよ。ね、私たちもやってみましょうよ」
ロゼット――リボン勲章か。『勲章』とはいっても、兵隊が胸に掲げるには緊張感のないものだ。実の伴わない、おもちゃのようなもの。
安っぽい装飾だけど、今はそういうのが巷の流行なのか。知らなかった。
俺はまたひとつ賢くなったようだ。とはいっても、少女向けの知識でしかないんだけど。
「いいけどさあ……そういう類のもの、作ったことないんだよね。はじめてでも上手くできるもんかな」
「私もよ」
チヅルはそう言ってリボンの検分に入る。なんだ、やっぱりあんまり友達いないんだな。
やけに小さな声とその反応から、俺は予想がそう大きく外れていないことを悟った。
「小さいから大丈夫でしょう。それに裁縫部分はあんまりなくって簡単らしいもの。ね、真ん中は缶バッジにする?それとも瓶の蓋?刺繍した布を当てるのもいいんじゃないかしら?」
彼女の中で作成することは決定事項らしい。まったく、わがままだなぁ。
チヅルといるときにしか金銭を遣わない俺の懐事情は、大した問題はない。けど、上手く作れる自信はなかった。
俺の優れている点は記憶だったり、知識といった頭脳方面であって、それは身体とは密接に関係しているわけじゃない。そもそもが肉体に引っ張られる上、指先の器用さだとかは操作性や慣れの問題になる。
「初心者がいきなり一から全部に挑戦っていうのも大変そうだ。まずはできあがってる部品を多めにして簡単なところから徐々に試して――」
「でも、そんなにいっぱい作ったりはしないわ!これは特別なものよ?」
「そうなんだ……、交換できるのはひとりだけとかそういう制限でもあるのか?」
「ないわ。だけど、浮ついたようにあちこちで配るようなものじゃあないの。特別な数人と、それもおんなじ相手とは1回ずつだけよ」
へんなの。
でも、なんだか気分が良かった。チヅルにとって、俺は特別らしい。
たとえチヅル自身に元々の友達がいなかったとしても、間接的にでもそう言ってもらえるのは初めてだったんだ。――もちろん姉であるテンはそこから除くけどね。
「じゃあ、じっくり考えたほうがいいな。それに、ふたりで交換し合うってなると図柄や形状を揃えるものだろ?となると一緒に作ることになるだろうし、相談も必要になるんじゃないか」
「お揃いっていうのも捨てがたいけど、あえて外すのもありだわ」
「まったく違う風にするってことか?それなら交換の意味が薄れる、共通性が見えなくなるんじゃないか」
一見して、まったく他の誰かと交換し合ったものになる。それはちょっと詰まらない。
……俺はどうやらチヅルと揃いの小物をほしがっているみたいだった。気付けば乗り気になっている。
そして、揃いじゃないなら残念だと考えている。
「あら、お揃いってだけなら他のだっていいじゃない。それこそ既製品で」
「なんだよ、交換できたらなんだっていいってわけ?」
肩透かしだ。とくべつなんじゃなかったのか?
「まさか!ちがうわよ。私、考えたのだけどね――部品はおんなじ形状にするの、できるだけ簡単なものにしましょう。でも他は変える。たとえば、互いの印象をロゼットに乗せるの」
「うーん?乗せる、って?」
言葉を選ぶように、チヅルは唸った。
「えっとね、色の違いとか、ちょっとした付属品を足して、私はアオらしいロゼットを作るわ。アオを想起するような、アオの印象にぴったりなそんなロゼットを。……だからアオは私のを作って頂戴」
「へえ、つまりチヅルから見た印象がそのまま反映されるってことか」
背景を羽根と果物とで彩ったチヅルが俺の方を向く。のっぺりとした平面の、それでも派手な色味を背負っているせいか彼女が異様に眩しく見えた。俺はあからさまに目逸らす。
……ま、率直に言えば目がちかちかするってこと!
そういうわけなんだ。そういうわけで、俺はしばらくチヅルの方を向けなかった。
「いやだ。なんだか恥ずかしい言い方ね」
笑う声が聞こえても、そちらを向けはしない。彼女の笑顔を見逃したんだけど。どんな笑い方だったんだろう。少しだけ後悔した。
***
「じゅんばんこに買ったせいで、ずいぶんと時間がかかっちゃったみたい。父さんが帰ってくる前に帰らなきゃ、怒られちゃうわ」
「何を買ったか見えないように、ってそう決めたのはチヅルじゃないか」
「そうよ。でも、いつの間にか夕暮れになってるなんて思わなかったんだもの」
あのあとロゼットの材料を買い求め、俺たちは帰路へと付いた。
揃って白い紙袋胸元に抱えているのは、ぶつかって落としてしまうなんてことがあってはいけないからだ。
次はさせないと決めてはいるけれど、避けきれないよう狙ってぶつかってくるやつもいるから油断ならない。会話しながらの歩行なんて、注意力が散漫になりがちだしな。
それに場所も悪い。背の低い――とは言っても、俺の顔くらいまでの高さの樹木が規則的に並んでいるここは、入り口らしい柵の途切れたところに第弐自然公園だと書いてあった。
そんな中では他の人間の音が判別できたとして、急に飛び出てきたら対応できるかは怪しい。
「それくらい、楽しかったわ。アオも私のこと考えながら選んでくれた?」
「それはそうだろ。チヅルのこと、うん……恥ずかしいとか言ったのあんたなのに言わせたいのかよ」
第一に俺の耳は、チヅルの音を優先的に拾う。会話してるんだから当たり前のことだった。
吐息交じりの忍び笑いが耳に心地いい。笑う時の癖なのかな。
「お返しかしらね。たまにはこうやって過ごすのも悪くないわ」
おかしいな。俺はチヅルの想いの先を見届けたかったはずなのに、それとは関わりのないこの時間もいいものだって考えてる。
「そうだな。定期的に、とは言わないからまたどこか行きたい」
「消極的ね、行きたくないって聞こえるわ」
「そんなことな……っわ!?」
「きゃあ!」
勢いよく、脚の傍を何かがすり抜けていった。俺は弾かれたように飛びのいて、声を上げる。釣られたチヅルも悲鳴を上げた。
残像すらまともに掴めない。かろうじて、尾のような平たい何かが樹木の下に潜り込んでいくのが見えた。
「いやだ、驚かせないでちょうだい。ただの魚じゃないの」
あれがそうか、なんて口にはしない。もちろん陸魚を見るのは初めてだ、とも――俺が知っているのは、教本の挿絵だけだったものだから。
「わるい。急だったから驚いたんだ。そういえばここにはどんなやつが棲んでるんだ?飛び魚とか?」
「それならもっと跳ねるわよ。――鯉ね、ここにいるのは」
「……鯉だって?こんな街中で?」
確か鯉は臆病な性質で、あまり他の種が立ち入らないようなところを好んだはず。飼い馴らしたんだろうか。
「アオってば、ほんとうにここには来たことないようね。どこかに説明書きの看板があったわ。ここの公園の陸魚は人工物よ、電氣で孵化をさせているの。だからあんまり長くは生きられないみたい、いくら景観のためだって言っても可哀想だわ」
普段なら適さない環境に、強制的に身を置かされる命。そのために造れた命。
俺にとっては他人事ではないはずなのに、割と感慨もなく聞き流せる話だった。俺の生活環境が俺に適してないってわけでもないからだろうな。
「一度撫でてみたいものだけど、早くってできた試しがないのよね。硬いのかしら?それとも柔らかいのかしら」
「毛で覆われてたから想像し難いよなあ。触るのは無理でも、もうちょっとちゃんと見たいな」
手触りの予想を口にしながら、俺たちはまた歩き出そうとした。
「ごめんなさい!」
でも空の端の方が本格的に夜へと向かい出したようだった。まもなく時間切れなんだろう、チヅルは焦った声を上げる。
「もう時間が来ちゃいそうなの。走って帰らせてもらうから、ここで失礼するわ。次は3日後、いつもの時間にいつもの場所で!」
挨拶も早々に彼女は足音高らかに駆けていく。急いでいるらしいし、追いかけることはしなかった。
「チヅル―!転げないよう、気を付けて帰れよ!」
俺は変わらない速度で公園の中を歩いていく。時たま滑るように出てくる鯉避けて歩いた。
多分、手を伸ばせば触れるんじゃないか?あまり触りたくないからしないけど。だって潰しそうだ。
それに、どうせ触るなら彼女とがいい。




