ああ、店員さんいつもの頼むよ。ちょっと舌が淋しくってね、ついつい通ってしまう。やっぱりここのじゃないと……
最初のおつかいから、次はおろか外出することすらなかった。
そもそもがおっさんの外出自体が限られている――日々の食事に関わるものだったり、たまに出向く必要のある仕事関係くらいのものだ。
食事を必要としない俺には、食材を選定するというのは難しいことだったから、先日のように買い忘れでもない限り、おつかいを言い渡されることはないだろう。というのも、すでに調理で失敗しているからなんだけど。
口を通り過ぎるのは一瞬なんだから、味なんてもの気にしたってしょうがないのになぁ。神経質眼鏡め。
というわけで、俺は数日の間家の中にいた。それに対しての不満はない。
前回の反省点や次回の外出に向けて考えることもあったし、家の中でやることもあった。何より、次の外出日が決まってたことも大きいんだろうけど。
次の外出日――そう、女の子とのやくそくの日だった。
待ち合わせは一番ふたりで過ごした場所、なんて浪漫溢れる言い方をするならそんな感じの、ただの建物と建物の間だ。
もうちょっと待ち合わせにふさわしい場所があったかもしれないけど、あくまで集まるための場所で目的地というわけではないならこだわる必要もないんだろうな。
4日後、3回目の時報の旋律が消える前、ここで落ち合おう――と交わしたものの、女の子を待たせるなんて男のすることじゃあないよな。見た目は女だけど、まあそこは誤差の範囲だ。
って、そう考えて早めに到着したって言うのに。
「こんにちは」
女の子はもういた。
「待たせたかな。まだ早いと認識してたんだけど、俺の記憶違い?」
「いいえ、確かにまだ早いわ」
彼女はにっこり笑う。
「付き合ってもらうのだから、待たせたら悪いじゃない」
「ならよかった」
単に待ちきれなかっただけじゃないかな、という無粋な発言はやめておいた。
そこには俺への気遣いがまったくのなしってわけじゃないだろうし、それを否定なんてしたくなかった。
「あなたのこと、なんて呼べばいい?そういえば名前を聞いていなかったわ」
「アオ」
「アオ……アオね。覚えやすくっていいけれど、あんまり聞かない響きだわ。他の街の子かしら?……まあいいわ、あんまり詮索はするものじゃないもの」
俺は、『みっつ隣の街に住んでいたけど、生まれはそのまた5つ向こうの街』という嘘を掻い摘んで伝えておく。これは俺の設定のひとつだ。それに彼女は納得したように頷いた。
内容の伴わないような、あんまり意味のない情報だけどね。
「それで、あんたの名前は?」
「私はチヅルというの」
「チヅル。わかった、チヅルだな」
彼女の名前を聞いてみても、響きの違いというやつはよくわからない。他に知っている個人名なんて、テンくらいだけど。3つで違いを比べるなんて、共通点を見つけるほうが難しんじゃないかな。
「予定より少し早いけど、そろそろ行きましょうか」
歩き始めてしばらくすると、時報の旋律が街のそこここに設置された拡音装置から流れてきた。
緩やかなそれを聞きながら、俺たちは目的地へと向かうのだった。
***
自分にとってはあまりに無縁すぎて、そこまで意識が回らなかった。むしろ意識の外だった。
いや、知識としてはちゃんと俺の中にもある。だけど、それが自らに結びつかなかったんだ。
つまり想定力が足りてないってこと。
言い訳だよな、知ってる。
俺は何とも言えない気分で、手元の電氣板――メニューの書かれたそれをつんと突く。時間経過で消えることのない文字は、設定を変えてあるせいなのか。
でも突いた拍子に、ぱちりとした電氣の瞬きが宙に跳ねた気がする。
「迷うわね」
べつの理由だが同じく迷っている俺とは対照的に、向かい合わせのチヅルはどこか上の空だ。
大袈裟にならないよう、彼女の目は何度も左右を往復している。視線に質量があるのなら、店内をせわしなく行き交うそれはとうに店内すべてのものを薙ぎ払っているのではないだろうか。
彼女が落ち着きない理由は簡単だ。あの男を探している。
ここは『茶亭・黄烏』。あの男が働いているらしいカフェだった。
「アオは何にするか決めた?」
「まだ。せっかくだし、ゆっくり選んだらいいよ」
そもそも俺は食べ物なんて食べられない。それは物理的な問題で、俺の身体内部はすっかり弄られてしまっている。無理して体内に取り込むのは後が怖い。ぜったいに不具合を起こすことは考えるまでもなかった。
それに味も分からないのに感想を求められても困るしね。食べないっていうのが一番なんだろうけど、そうもいかないんじゃないかな。だってここは飲食店なんだ、雰囲気を見ても何もなしなんて不審過ぎる。
小遣いはもらってきたから、そこは問題ないんだけどなあ。っていうかおっさんもそのときに何か言えよな。
さて、どうしようか。
「私、決めたわ。このお茶にする。飲み物単品には焼き菓子が付くんですって」
あぁ、とうとうチヅルは決めてしまったようだった。
これ、と指された場所に目を遣ると、視界の端に気になる単語が目に入った。
「ん?『電氣水』……チヅルはこれが何か知ってる?」
「なにかしら?聞いたことないわ」
なんだか俺にお誂え向きな字面の飲み物じゃないか?電氣と水でできたものなら大丈夫そうな気がする。
結局それを頼むことにした。
待っている間も落ち着きなく周囲を伺っていたチヅルだったが、やがてぽつりと呟いた。
「あのお兄さん、いないわ。今日はおやすみなのかしら?それとも厨房担当?だったら会えないわね」
残念そうにしているが、入店しないでの事前調査なんてたかが知れている。
それにここに来るのはチヅルも初めてなのだそう。こいつビビリだからな。ひとりでなんてとても来れなかったんだろう。というか、他に友達いないのかよ。
「日をおいて何回か来ようよ。3回駄目だったら、考えよう」
「そうね」
チヅルは落胆している様子だったが、飲み物が来る頃には持ち直したようだった。
そこで当たり障りのない話をした。あの男がいなかったからって急いで出る必要もない。ここじゃあ次の作戦を立てようもなかったけど、今焦ったってどうしようもない。雑談くらいいいだろう?
チヅルは家で飼っている犬の話、それから雑貨屋でかわいい小物入れを見ただとか、彼女が最近気に入った可愛らしいものについて語っていた。ふうん、そういうのがいいのか。
その良さの半分以上は分からないものだったから、適度に相槌を打っておいた。いつかは役に立つかもしれないし、一応覚えておくかな。
俺たちの設定――ここまでの道中で決めた――は仲の良い友人同士だったから、それくらいのくだらなさが丁度いい。俺からは適当に作り話をしておいた。生まれ故郷では箒で手紙のやり取りをするのが流行しているらしい、とかそういうのを。
電氣水の正体は、やはりと言うべきかぱちぱちとした電氣の入った水だった。一口目は驚いたが、数口で慣れて平気になる程度の刺激が口内を刺す。
味覚や嗅覚のない俺には分からないことだったが、電氣はどんな味がするんだろう。そもそも味ってどんなモノなんだろう。それが分からないのは、ちょっと残念だった。
次回からもこれを注文するつもりだ。
付いてきた焼き菓子は、チヅルに食べてもらった。
***
会計を済ませて扉を潜る。
初めてのカフェだったが、何とか下手を打つことはなかったことに俺は心底安心した。次からはもっと上手く振舞えるだろう。
「それじゃあ次はどこに……あ、」
扉の先、3歩も行かない内に俺は立ち止まることになった。背にチヅルがぶつかってくる。
「あれ――?きみたちは、確か」
目の前に居たのは、あの液体ぶっかけ男改め、チヅルの想い人だった。
紙袋を手にしてるってことは、買い出しにでも行ってたんだろうか。
「先日ぶりですわね、こんなところで会うなんて奇遇と言うべきでしょうか。なんにせよ、双方が忘れ去る前にお会いできて喜ばしいことですっ」
僅かに声が上擦るものの、チヅルは何とか平静を保っているようだった。
それが心の準備によるものか、単に肝が据わってるのかは知れない。
この男に会うのが目的だったけど不在で、でも予想外に鉢合わせて……となると、後者かな。
それにしてもよく言うよな、こいつが目当てで来たっていうのに。
「あ、あの!これで私たち、しっ知り合いですわね!」
……うーん、訂正、やっぱり今のはなしだな。
大事なところでどもってしまっている。力の入った言葉なのが丸わかりだった。
でもいいんじゃないかな。やっぱり仲良くなるためには互いの認識を知り合い以上に持っていかなきゃだろ。
邪魔しないよう、俺は身体を横にそっとずらしてふたりの間を遮らないようにした。
「さすがにしばらくは忘れないよ、俺の方はね。でも黄烏に通ってくれるなら、これからもその奇遇は続くでしょう……なんて営業をしてみたりして。実は俺、ここで働いてるんだ」
おどけたような営業トーク。彼女はそれに澄ましたように上品な、それでもうれしそうに笑い声を立てた。
「こちらはあなたのお店だったのね。内装がとっても素敵――もちろんお茶にお菓子も美味しくって、また絶対来ましょうねとお話しておりましたのよ」
そうかな。チヅルの言葉に、俺はそっと唇を突き出した。
あからさまに褒めたくっているところが透けて見えるせいか。どうみても最近の電氣製品や真新しい柱を塗料で塗りたくって古めかしく見せている様は滑稽だった。
古いものには古いものの良さ、新しいものだって新しいものの良さがある。それを歪めてるような店内は、俺には気持ちの悪いものに見えたんだ。
「あぁ、単なる店員だから俺の店ってわけじゃあないよ。でも気に入ってくれたならうれしいな」
男は言葉通り嬉しそうに笑んでみせた。次いで、俺へと視線を向ける。
なんだよ、こっち見んなよ。チヅルの方だけ向いてればいいのに。
「君は喋らないね、もしかして俺のこと怖かったりする?」
「そんなことありません」
もうぶつかったりしないよ、なんて言われたけど、そんなの向き合ってる状況でできるもんじゃないだろ?俺だって次からは外で隙を見せるつもりはない。
それに聞くなら怒ってないかどうかじゃないのか?変な質問だ。
それとも俺の見た目が女だから下に見られてるんだろうか……わあ、今すこし嫌な気分になった。
「そう、ならよかったよ。でも今のは冗談だったりするんだよね。この間は威勢がよかったのに、今日はだんまりだったから気になって」
「……あのときは動転していました」
もういいよ、いちいち俺に話し掛けてこなくってもいいんだってば。端的に、話が広がらないように返してる俺の様子を察してほしいところなんだけど。
チヅルを引っ張って行きたかったけど、そうもいかない。
「ごめんなさいね、この子は実のところ人見知りなのだわ。ついついぶっきらぼうになってしまいますの」
「あー……そうだったんだ?第一印象って当てにならないものなんだね」
別に人見知りってわけでもない。俺は初めてあった人間ともちゃんと会話できるし、恥ずかしいなんて感情は知らない。ましてや怖い、なんて感想を持ったりはしない。
でも不服ながらその方が都合がいいと、俺は乗っておくことにする。気付けばいつの間にか、俺の立ち位置はチヅルの後ろにいたことだし。そう、これは視界に入らないようにっていうささやかな配慮なんだ。
俺はチヅルの影で首をかくっと下げて、頷いてみせた。まあ全身がすっかり隠れてるわけじゃあないんだ、見えるだろ。
チヅルが男と話してるところを見る分には普通でいられる。
でも、俺がそこに混ざれってのはどうにも避けたい。あんまりいい気分はしない。――これってなんでだろうな。
この男が心底悪いやつじゃないってわかっているし、俺も男のままなら仲良くなれただろうってこの間は確かにそう考えた記憶があるのに。
考えられるとするならば、それは俺が自分の振る舞いに気を遣わなければいけないから……だろうな、たぶん。だから流れで素のままで話しているチヅルに対しては平気なんだろう。
これは他にも誰か知人を作ってみたらわかることかな。なんにせよ、慣れるしかないんだけど。
男がそろそろ、と仕事に戻らなくてはいけないことを口にして、俺たちはその場を去ることにした。
男の仕事の邪魔をするのはチヅルの本意じゃない。俺の本意は割愛。導かれる結果はおんなじだしな。だから引き延ばそうとすることもしなかった。
でもチヅルの足運びはやけにゆっくりとしている。でも、それもカフェの扉の閉じる音が聞こえれば元通りになったのだった。
「……そういえば。チヅルはあの男の名前知ってんの?」
「知らないわ」
意地の悪い質問に、返ってきたのは溜息交じりの拗ねたような声。
「仮に知っていても、教えてもらわなきゃ呼べないじゃない」
確かにそうだ。




