『ヤドカリ警官』⑦
「飽きっぽい人」と言えば貶し言葉になるが、「様ざまなものに興味を持つ人」と言えば褒め言葉になる。
「落ち着きがない人」と言えば貶し言葉になるが、「好奇心旺盛な人」と言えば褒め言葉になる。
そういうわけで、“様ざまなものに興味を持つ、好奇心旺盛な児童”が集まる西桜小学校では、暦が十一月に移ったのを境に、交番の人気に陰りが出始めていた。どうやら、ドッジボールや縄跳びなどの外遊びに興味が向いたらしく、昼休みをグラウンドですごす児童が増えたのである。
交番は静かになり、子供たちは屋外で体力作り。
一年も終わりに差しかかったこの時期になって漸く、真中の望みどおり円滑に歯車が回りだしたというわけだ。
そのような中、読み聞かせという名の“ひとりミュージカル”の開催が週一回ほどに減ってしまった今田巡査部長だけは、少し寂しそうにしていたが、交番の役割としてはまっとうなものに回帰したわけで、彼に同情を寄せる必要は一切ない。粛粛と、警察官としての職務に従事すればそれでよいのである。
無論、地域課の警察官の職務は、交番のお巡りさんだ。それは、地域に根ざした警察活動の徹底に他ならない。道案内はもちろんのこと、困っている人たちの手伝い。職務質問による大小関係なく全ての事件の未然防止。そして、事件が起きてしまった場合の現場保存や犯人の検挙など、その内容は多岐に亘る。警察の花形として取り上げられがちなのは刑事だが、仕事の多面性においては、地域課の右に出る課は存在しないのである。
どんな事件であれ、真っ先に現場に駆けつけるのは地域課の役割だ。それは、まさに警察組織二十九万の先鋒隊。ヤドカリ警官である真中も、その中の一人なのである。
だが、新米である彼には、経験がない。警察官としてではなく、先鋒隊としての経験だ。
例えば、同じお化け屋敷に二度入れば、二度目には恐怖が激減するように、経験の有無がもたらす差は大きい。目を閉じてお化けをやり過ごすような身にならぬそれをしない限り、経験は、当人の知識や行動に多大なる成長を与えるのである。
ヤドカリ警官真中の成長の機会。それは、本人の気づかぬうちに、もう間近に迫っていた。
「バケツをひっくり返した」との形容が適切な昨夜の大雨が嘘のように、今朝は雲ひとつない快晴となった。その後も、季節が夏に逆行したかのような天気は、午後になってからも続いた。
そんな十一月十一日の水曜日。十六時二十三分。西桜小学校北校舎裏庭、ビニルハウスより火の手が上がっているのを、校内巡回中の真中光一巡査が発見した。
真中は、すぐさま無線で今田巡査部長に現状を報告。
今田巡査部長は、職員室や各教室に散らばる教職員に避難放送を流した。
既に放課となっていたため、校内に児童が残っていなかったのは、不幸中の幸いであったと言えるだろう。
消防到着まで、真中は、できる限りの消火に当たることにした。
何よりも、先ずは人命の救助が優先である。ハウス内を覗き込み、火より炎と呼び名が変わるその隙間から大声で呼びかけてみるも、人の気配はなかった。
次は消火だ。校舎から消火器を持ち出すと、彼は、不慣れなその扱いに戸惑いながらも消火剤を噴射した。
ところが、炎は鎮火に向かうどころか、ますますその勢いを増していく。
本来、消火器は火元に向けて使うものなのだが、それさえも分からぬほどに燃え広がっている場合には効果がないのである。
消火器は役に立たない。僅かの間に、火柱は三メートル近くまで上がっている。これは、いよいよ拙い。では、どうすればよいのか。
実は、ここまできてしまったら、できることはひとつだけだ。
“三十六計逃げるに如かず”の言葉があるように、全てを諦め逃げるより他、手はないのである。
空になった消火器を放置し、真中は安全な場所まで退いた。
ビニルハウス全体を、炎が赤く包み込んでいく。
それを見つめる真中の胸に、何もできない自分への苛立ちが押し寄せてきた。
もし、今燃えているのがビニルハウスではなく人だったら。
もし、こうやって第一発見者となるのが、火事ではなく傷害や殺人の現場だったら。
地域課は、警察組織の先鋒隊だ。一番で現場に向かうため、怪我人や遺体を発見する可能性は、他の警察官と比較して圧倒的に高いのである。
事件や事故に真っ先に駆けつけるからこその重責。
真中にとって、それは、警察官にならなければ、いや、警察官になってからも、あまり意識してこなかった事柄であった。
それがどんな職種であれ、他者の人生と関わりを持つのが仕事というものだ。場合によっては、その者の生命さえも左右させる。当然、警察官は言わずもがな。
自らが選んだその職の道程に、これからも数多点在するであろう、他者の人生を、命をも左右するかも知れない決断の数々。
今、炎に包まれるビニルハウスを見つめながら真中は、警察官という職業の重みを痛感していた。
そこに、避難を終えた教職員や今田巡査部長が消火の手伝いに駆けつけた。
だが、燃え盛る炎を前に、誰もが手を拱く以外になすべき手段を失った。
間もなく消防車が到着し、消火活動が行われた。
素人では太刀打ちできなかった炎も、プロの消防士にかかればあっという間だった。
ものの数分で炎は火に戻り、そして、消えた。
結果、ビニルハウス全焼は免れなかったものの、校舎への延焼は防がれたのだった。
人的被害は一切出ず、ビニルハウスの損害だけで済んだ今回の火事。
だが、鎮火後に行われた消防職員による現場検証で、意外な事実が判明する。
ビニルハウス火災が、放火であった可能性が出てきたのである。
物証は、火元付近にあったマッチ箱の燃えかす。
捜査は、警察の手に委ねられることになった。
その後、真中が火災を発見するより十分あまり前の十六時十分ごろ、現場近くでマッチ箱を持っている人物がいたことが判明し、ビニルハウス火災は放火の線で一気に動き出した。
容疑者として浮上したのは、瀬戸隼人であった。
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4月も終わりに近づきました。新年度より環境に変化があった方々も、そろそろ慣れ始めた頃合いかと存じます。
しかしながら、まだ暫くは安定しない天候が続きそうです。お身体、ご自愛ください。
次回更新は、5月1日(月)を予定しております。