黒猫と彼女
これは昨日のことなんだけど。
「ただいま」
そう、室内に向かって声をかけたんだけど、いつもならすぐに返ってくる言葉が、その時はなくて。
あれ、どうしたのかな? なんて思いながら玄関で靴を脱いで、鍵をかけて、リビングに向かったんだ。
「帰ったよー」
声をかけながら、きょろきょろリビングを見回すんだけど、あるはずの姿が見えない。
おかしい、居ないはずなんてないのに。
一応リビング中に視線を向けてから、寝室のドアを開けた。
で、それから寝室の中を見たら。
「ああ、いた」
探していたその姿は、寝室のベッドの上に、実に幸せそうに横たわっていたわけだ。
まったく、幸せそうな顔をしやがって。
思わず顔が緩んで、寝ているそいつのほっぺの辺りをつついてやった。
「可愛いやつめ」
ニヤニヤしながらほっぺをつついて、満足してから晩ごはんの用意をしたんだけど。
そうしたらそいつ、たぶんうまそうな匂いがしたからなんだろうな、のそのそ起きてきて、すり寄ってきた。
ああもう、可愛いったら。
「もう少し待って」
頭を撫でてやったら、大人しく待ってくれた。
何から何まで可愛すぎて本当、もう骨抜きっていうか、あいつがいないともう生きていけない。
本当、大好き。
***
「それってさぁ」
「んー?」
「猫の話だよね?」
「そうだよ?」
目の前の友人は、スマホいっぱいに映る黒猫の写真を見ながら、ほけほけと笑っている。
そんな友人の惚気を聞かされ、思わず、深く深くため息をついてしまった。
「聞いてほしい話があるなんて言うから来てみれば、まさか猫との惚気を聞かされるとは」
「だって本当可愛いんだって! 猫いいよ、飼ってみるといいよ!」
「や、うちのマンションはペット禁止なんで」
丁重にお断りをしたら、彼女は再び幸せそうな顔で猫の写真を見始めた。
うん、スマホの画面さえ見なければ、恋人の写真を見ているというふうに見えなくもない。
「ああそう、それで本題なんだけどね」
「何、どうしたの」
スマホから目を離さないまま、彼女はぽつり、呟いた。
「こういう猫好きが原因で彼氏にフラれました」
「あ、そっち?」
「あいつ、『俺も猫好きなんだ!』とか言ったくせに!」
「いや、君の猫好きは常軌を逸してるからね。猫好きって言葉じゃ収まらないからね」
「じゃあ私、自己紹介の時なんて言えばいいの! いつも『猫好きです!』って言ってるけど!」
「『猫に対して並々ならぬ愛情を注いでいます』とか?」
「長い! でも納得! 私、今度からそう言うわ!」
まさか採用されるとは思わなかった。
思わず呆然としていたら、彼女はまたスマホに目を落とし、にへら、と幸せそうに笑う。
「そういう状態じゃ、君は当分結婚できそうにないなぁ」
「結婚なんかしなくていい~。こいつがいればそれだけでいい~」
「いっそ猫と結婚しちまえよ」
「できるものならしたい……はっ! 結婚首輪を贈ればいいかなっ?」
「結婚首輪て」
「そして私は首輪みたいな形の結婚指輪をすればいいのかな!」
「うん、そこまで本気にすると思ってなかった。戻ってこーい、こっちだよー」
今日の本題は『猫好きが原因で彼氏にフラれた話』のはずだったんだけど。
そのあとはずっと、『猫の可愛さについて』『猫の愛らしさについて』『猫の尊さについて』を延々と語られた。
すごく猫が好きだというわけじゃない自分にとっては、苦痛にも感じる時間だったのだけれど。
「やっぱり君に聞いてもらってよかったぁ」
「何で?」
「だって、君の顔見てるだけで元気になれるもの! ありがとう、親友!」
こいつ、素でこういう可愛いこと言うくせに、何でモテないんだろう。
……あ、猫に対して並々ならぬ愛情を注いでいるからでした。
「そりゃどうも」
正直、自分も彼女の笑顔に元気をもらっている口なので、文句は言わない。
だがしかし、わがままを言えるなら。
そろそろ俺のこと、男として見てくれないかなぁ。