最終章
そして、S引っ越しセンタ―のアルバイト代を銀行におろしに行き、小田原駅から鈍行に乗った。18時頃、新大阪駅に着いた。そして、自動販売機で焼きおにぎりを買い、待合室で食べながら
「家に帰るのが、恥ずかしい。もう少したってから帰ろう。」と思い、20時頃、電車に乗り、実家に向かった。駅を降りると、震災の跡が痛々しくどの家にも残っていた。実家に着くと父親が迎え入れてくれ、両足のケアをしてくれた。それから、二階に上がり寝た。しばらく、二階の部屋でわけのわからない作業をしながら、堺屋太一の
「大変な時代」を読んだりしていた。エアコンが、なぜか言葉をしゃべっているように聞こえた。また、幻聴だ。完全に頭が狂っていた。
しばらくして、以前の病院に入院させられた。入院中、なんとか自分に適性のある仕事は、ないかと探し、ホ―ムヘルパ―か中小企業診断士になりたいと二つに絞った。
いつまでも、自分の進歩向上のない状態が嫌だった。
そこで、いとこに助けを求め、T教本部でS科に入った。S科を修了した後、S教会で住み込みをし、最初、警備員の仕事をしたが、幻覚、幻聴がある為、辞めてしまった。次に、K電気商会でエアコンの営業マンをしたが、ここでも、幻覚、幻聴があった為、辞めてしまった。 しばらくして、会長さんから
「姑はよみがえった」という高齢者介護の本をもらい、むさぼるように読み、自分も、この仕事がしたいと切にねがった。
そして、ヘルパ―三級の資格をとり、福祉人材センタ―に就職先を探しに行ったところ、面接の約束をした。そこで、内定し、二級の資格を取れば社員になれると部長さんと約束したので、いとこにお金を出してもらい二級を取った。しかし、教会の用事と仕事の両立は難しかった。ストレスが溜まり、以前と違う病院に入院した。 2ヶ月程して、退院し、援護寮に入り、生活訓練をしながら、仕事をした。
八ヶ月で卒寮して、一人暮らしを7月14日から始めた。
まわりに助けられながら回復していき、仕事を続けた。
二年後、ヘルパ―一級の資格を取った。
仕事が嫌な時も、無理矢理出勤する日が続いた。ある時期、心が軽くなり、だんだん仕事が楽しくなってきた。そして、三年程、四週間に一回の診察が続いた。僕は、自転車で利用者さん宅へと走り回った。ある人は、すでに日本一周した位、走り回っていると言っていた。得意先の利用者さんは、現在、六、七年通い続けている。
2005年と2006年にケアマネの試験を受けたが、二回共不合格だった。
今年、ヘルパ―8年目になる。
今では、幻覚、幻聴の症状もない。
ここまで回復したのは、まわりのおかげと、神仏のお陰と思っている。
今でも信仰心はある。
週20件位のペ―スで仕事をこなしている。しかし、その収入だけでは生活できないので、父親から仕送りしてもらって援助を受けている。しかし、何より統合失調症ではあるが、薬さえ飲んでいれば健康である。有難いことだ。今では、働くのが、好きでしょうがない。体調管理をこまめにしながら、仕事の虫になっている。