サトウキビ畑を抜けた先
夕方になって船の甲板に出れば、南の島独特の生温かい塩風が吹き抜ける。
大きな夕日に照らされてきらきらと光る海面を見つめていると、後ろから大きなくしゃみの音がした。振り返れば、さっきは気が付かなかったけれど、まだ若そうな男の子が壁に凭れ掛かるようにして座っている。私と目が会うと彼は恥ずかしそうに笑って見せた。
「甲板はやっぱ風が強いですねぇ」
「あなた、ずっとそこに座っていたの?」
船内に入れば良いのにと思ったけれど、私だって船の中は居心地が悪くて甲板まで出て来たのだ。お節介を焼く必要はないだろう。
ふと、私は彼が三線を持っていることに気が付いた。
「あなた三線が弾けるの?」
「え、ああ、はい少し」
彼の手に大事そうに抱えられた三線から目を逸らせない。一瞬、南の島では有り得ない、爽やかな夏の風が吹き抜けた気がした。耳の奥に微かに残る三線の音と、懐かしい人の笑い声。そして彼が持っていた三線に張られた蛇革の光沢を、なぜかはっきりと思い出した。
「ねぇ、一曲弾いてくれない?短くても、何でも良いの」
昔聴いたあの曲は、歌詞の意味も名前もわからない。どうしてもっと、あの時間を大切にしなかったのだろう。
三線を掴みなおした男の子は、少し考えてから、調子を確認するように優しく弦を弾いた。
「じゃあ、『島唄』にしましょうか。有名ですよね、あれ」
彼はそう言うと、三線を慣れた様子で弾いていく。それから、「お姉さんには特別」といって歌まで歌ってくれた。
弾き終わったときにはもう太陽が水平線へ沈み、甲板は薄い青紫の空気で包まれていた。
「素敵な演奏をありがとう」
「どういたしまして」
再び波と風の音しか聞こえなくなった甲板で、私はもう一度手すりに肘をついて海面を見つめた。
「あの、船内に戻らないんですか?」
後ろから、さっき三線を演奏してくれた男の子に声を掛けられる。彼も昼間の薄着のままで、随分寒そうだ。
「もうちょっと、此処に居たいの」
「そうですか。でも、風邪引きますよ?上着を持ってきたほうが良いんじゃないですか?」
「ありがとう。でももう少しだけだから大丈夫」
にこりと笑顔でそう言うと、三線の男の子はこちらを気にしながらも船内に入っていった。再び一人の時間になって、私はどうしてここに来てしまったのかを自問した。今から訪れようとしている土地は、私自身とは何の縁もない場所だ。そこは嘗て“彼”が居た場所。そこに行ったって、会えるわけではない。けれど、その土地の分子が幼い頃から私と出会うまでの彼を構成したのだと思ったら、どうしても訪れたくなったのだ。
***
5年前、私は大学2年生、彼は4年生。
彼はよく笑う人で、笑うとき目尻に皺が出来た。探検部の活動で北国には似合わないほど真っ黒に日に焼けた身体は、動く度に綺麗な筋肉の線が浮き出していた。今でも耳に残る彼の豪快な笑い声が、喉の奥をきゅうっと締め付ける。
どうしてあの日、行かないでと言わなかったのか。
少しくらい、我侭を言って出発の日を一日ずらして貰えばよかった。
私の心の日付は、20歳の誕生日から進まない。
彼が外国で登山中に行方不明になったのは、私の20歳の誕生日だった。
出発するときに、彼はあの眩しい笑顔で「誕生日に動画を載せるから見てくれ」と言いながら、SNSの動画のURLを記した紙を私に渡した。そのURLをパソコンに打ち込むと、彼の動画配信画面が現れた。そこには、それまでに訪れた世界中の険しく美しい景色が溢れていて、その動画の中に時折現れる彼はいつも真剣な顔をしていた。
誕生日が来るまで、私は何度も彼が撮った美しい動画を眺めて過ごした。
けれど私の誕生日の前日に、彼と同じ探検部の友人から、彼の消息が途絶えたことを告げられたのだ。
大勢の人が彼を探してくれたけれど、その後彼が戻ってくることはなかった。
あれから5年経った今も、日課のように彼から渡されたURLをパソコンに打ち込んで、20歳の誕生日に彼が載せるはずだった動画を探してしまう。彼の荷物がいつの間にか片付けられてしまってからも、彼が私と過ごした場所から離れられなくて、私はその場所で就職することを決めた。世界中を旅した彼の影響で、就職先は迷うことなく旅行会社にした。仕事をしていると、ときどき彼から聞いた世界中の思い出話を思い出す。冬に真っ白な雪が降り積もるたびに、北国には似合わない彼の日に焼けた美しい肌が脳裏に浮かぶ。そして南国出身の彼が好んで弾いていた三線の音が耳の奥で鳴るのだ。
彼の生まれ育った場所を訪れようと思った切っ掛けは、テレビで放送されていた旅番組に偶然彼の故郷が映ったから。
群青色の海と抜けるように青い空、真っ白な砂浜と一面に広がるサトウキビ畑。彼が居た場所は、テレビの画面から観ているのに眩しいと感じるくらいきらきらと輝いていて、すぐにでもそこに行きたいという衝動に駆られてしまった。
5年が経って、彼に対する気持ちがあの頃とまったく変化していないとはいえない。彼と過ごした日々は思い出の中にしかないこともわかっているし、写真を見なければ彼の姿を、手足の長さや寝起きのぼさぼさの頭を、はっきりと思い出す事も出来ない。
この数年で彼は確実に過去の人になってきた。けれど、彼に引き寄せられた心がなかなか戻って来ないのだ。あれからどんな素敵だと評判の男の人に出会っても、私の心はずっと彼の面影だけを探している。
***
「お姉さん!」
突然、後ろから強い力で引き寄せられ、そのまま甲板の固い床に倒された。急に視界が変わり動転する気持ちを落ち着けて、私は身体を起こそうと身を捩るが上半身にがっちりと腕が回されていて身動きが取れない。その腕を外そうと四苦八苦していると、下敷きになった人は私を抱えたまま上半身を起こした。後ろから回されている腕にさらに力が加わり、私の後頭部が腕の持ち主の硬い胸に押し当てられる形になり、その人の心臓の音が物凄い速さで鳴っているのを感じる。
「こんなところで死ぬつもりですか!」
頭の上で震える声が響いた。その声は、夕方に出会った三線の男の子のものだった。私は身を捩ることが出来ないので、そのままの体勢で回された腕に手を添える。
「ごめんなさい。でも私、死のうなんて考えていなかったわ」
「え」
「海を見ながら、少し思い出に浸っていたの」
柵の先から静かな波の音が聞こえる。彼がいなくなってからも、私は一度も死のうなんて考えた事はない。彼の遺体が見つかっていないからなのか、彼の死というものを実感していないのだ。ただ、私のもとから彼はいなくなったという事実だけは、確かに感じている。
後ろの彼の腕から力が抜け、私は座ったまま振り向いた。目があった途端に夕方の男の子の顔が真っ赤に染まる。
「お姉さんの身体が海に落ちそうに見えたんです。こっちこそ、いきなり引っ張ってごめんなさい」
「ううん。ありがとう」
起き上がろうとすると、腕を掴まれた。
「あの、俺の名前、優吾っていうんです」
「優吾君か。私は佐々木涼子」
私は優吾君の隣に体操座りで腰を下ろした。私たちの目の前には、真っ黒な海と空が広がっている。
「優吾君はこっちの人なの?」
「はい。地元が明日到着する島で、今回そこで就職が決まったので戻って来たんです」
「地元で就職なんて、えらいねぇ優吾君」
「いえ、俺、好きなんですよ地元が。遠くの大学に通っていたんですけど、いつも地元のこと思い出しちゃって」
「そっか。あの島はいい場所なんだね。私も楽しみになってきた」
優吾君はちらりと私に視線を向けた後、またすぐに真っ暗な海を見つめた。
「もし涼子さんがよければ、俺が島を案内しますよ」
突然の提案に驚いて優吾君の顔を見れば、彼ははにかむ様な笑顔を向けた。
「俺、島の観光局に就職する予定なんですよね。一番最初の観光案内は、涼子さんにしたいんです」
優吾君が笑うとき、彼の目尻に笑い皺が出来ることを知った。私は少し考えてから、優吾君からの親切をありがたく受け取ることにした。
***
「そろそろ着きますよ、涼子さん。あ、ほらっ、イルカが泳いでますよ。この辺は漁場が近いですからね」
「あっ、本当!気持ちよさそうに泳いでるねっ」
透き通るコバルトブルーの海面を2頭のイルカが船に並んで泳いでいる。目的地の島も大きく見えてきた。
「涼子さんはどこに泊まる予定ですか?」
「えっと、確かマリンノートホテルっていうところ。知ってる?」
「……マリンノートホテル。たしかそこって、先週の台風で建物に支障が出たから、今週から営業中止中だったと思うけど」
私は急いで鞄からスマートフォンを取り出して、メールボックスを開いた。
「……あっ、迷惑メールのほうにホテルからの通知が来てる…」
せっかく頼もしいガイドさんが同行してくれることになったのに、泊まる場所を探さなければいけないなんてっ。
がっくりと項垂れる私を見て、優吾君は私の両肩をがっしと掴む。
「大丈夫です、涼子さん!俺の実家に来てください」
「えぇ!?そんな迷惑な事出来ないよ」
「大丈夫。俺の実家は民宿やってるんで」
「そうなの?じゃあ、もし部屋がまだ空いていたら当日予約しても良いかしら?」
「もちろんです!」
優吾君はよく笑う男の子だった。彼が笑う度に、私の目は彼の目尻の笑い皺に釘付けになる。
「涼子さん、あんまりじっと俺の顔を見ないでくださいよ。恥ずかしいっす」
優吾君は大きな手で口元を隠すと、ぷいっと横を向く。彼の髪が短いから、彼の形良い耳が真っ赤に染まっているのがわかった。
「優吾君ってほんと可愛いね。弟にしたいわぁ」
冗談で言ったつもりだったのに、優吾君は一瞬とても傷ついたような顔をした。
「え…そんなに嫌だった?冗談言ってごめんね」
「……まぁ、涼子さんが俺の姉貴だったら友達みんなに自慢してますよ。きっと」
居心地の悪い沈黙が続いたので、私はコバルトブルーの海面に目を向けた。気づけばイルカは1頭だけになっていた。
***
南国の生温かい風は、私の記憶の中の彼とは結びつかないけれど、彼は確かにこの空気を吸って成長したのだ。
「着いた~!」
「うーん、まだ身体が船で揺られている感じ」
朝7時に島に到着したので、私は優吾君の案内で島をぐるっと観光してから、優吾君のご実家の民宿に行くことにした。
「ちょっと待っててください、涼子さん。たぶん家の車をここに預けてもらってるはずなんです」
「うん、ここに居るね」
しばらくして優吾君は軽トラを運転して戻ってきた。運転席から降りて助手席側のドアを開けると、まるで執事のように恭しくお辞儀をした。
「どうぞ、お入りください」
「ふふっ、ありがとう」
私たちは優吾君いわく2日もあれば全部回れる島の中を、ゆっくりと軽トラに乗って移動した。優吾君は観光局に内定が決まっているだけあって、島の良い場所をたくさん紹介してくれた。
そして、いつの間にか楽しい時間は過ぎて夕方になっていた。
「海に行きましょうか」
「うん、良いね」
私たちは優吾君お勧めの綺麗なサンセットが見れる海岸の脇に軽トラを停める。地元の人しか知らないそこは、人影がなく、静かな波の音が何度も繰り返していた。
「涼子さんと見る2回目の夕日ですね」
オレンジ色の光の中で白い歯を覗かせて笑う優吾君の顔が、何度も何度もパソコンで見た動画の中の“彼”の笑顔に重なる。
私たちは太陽が一日の終わりに地平線に沈むように、見つめあい、自然と唇を重ねた。
そして彼の熱い手に導かれるまま、辺りが真っ黒な闇に包まれ、また白くなり始めるまで何度も身体を重ねた。
***
「すみません。お腹、空きましたよね?」
目を覚ましてからぼんやりと隣に座る彼を見ていると、私の視線に気が付いた彼が困ったように笑った。海に入ったのだろうか、彼の短い髪がしっとりと濡れている。
「俺の実家、近くなんで今日は一旦このまま帰りますね」
「……うん。ありがとう」
「いえ、俺の方こそ。……なんか、涼子さんにそんな風に見つめられると、緊張しちゃうんですけど」
寝起きの少し掠れた彼の声は、“彼”の声にすごくよく似ていて、私はじっと彼の顔を食い入るように見つめてしまっていた。
「ごめんね、その、優吾君の声が知ってる人にとてもよく似ているから」
「……その人って、」
少しの沈黙の時間の後、優吾君が俯いたままぼそりと呟いた。
「え?」
「いえ、何でもないです」
朝の澄んだ空気はとても気持ちが良い。けれど優吾君はそれから彼の家に着くまで、終始浮かない顔をしていた。
***
しばらく軽トラで舗装されていない道を走り、まだ空気がひんやりとしている時間に彼の実家に到着した。広いサトウキビ畑の中にぽつんと一軒の白い民宿が建っている。
「素敵。なんだか映画の中の風景みたい」
「見ての通り古い民宿だけど、お袋の料理は最高ですよ」
優吾君が駐車場に軽トラを駐車していると、民宿の裏側から農作業姿の女性が現れた。優吾君はその人のところへ駆けていって、しばらく言葉を交わすとまた再び私のところに戻ってきた。
「あの人が俺のお袋です。今から朝食の支度をしてくれるそうなので、涼子さんの部屋に案内しますね」
「えっ、挨拶しないと!」
「また後で紹介しますよ。今は風呂に入って休んでください」
優吾君に案内されて入った部屋の窓からは広大なサトウキビ畑を望むことができた。そして少し遠くのほうにコバルトブルーの海面が、朝日に照らされてきらきらと輝いていた。
“彼”もこんな風に島の風景を見ていたのかと思うと、じんわりと胸が熱くなる。
それから私は優吾君に呼ばれて美味しい朝食を頂いた後、優吾君のご両親に挨拶をした。優吾君のご両親はとても優しく穏やかな人たちで、慣れない標準語を使っていろんな話をしてくれた。
朝食の時間が終わり、ひとり部屋で寛いでいると、コンコンと控えめなノックが聞こえて優吾君が入ってくる。
「すみません、お邪魔しましたか?」
「ううん、のんびり景色を見ていたの。どうしたの?」
「あー…、その今日の観光は夕方からでも良いですか?実は今日、俺の両親が街まで行く予定があるらしくて。夕方までには帰ってくるそうなんですけど」
「そういうことなら、今日は私ひとりでも大丈夫よ」
「いえ、ダメですっ。涼子さんみたいに綺麗な女の人がひとりで出歩いて、もしも暴漢なんかに出会ったらどうするんですか!あぁそれに……」
結局私は、心配性な優吾君に説得されて夕方まで民宿のお手伝いをさせていただくことになった。
***
「そういえば、優吾君って兄弟がいるの?」
突然振った話題に、優吾君は一瞬困ったような顔をした。
「はい、兄が、いましたけど、随分前に死んでしまいました」
「ごめんなさい。辛い事思い出させちゃって」
「いえ、大丈夫です」
優吾君はそう言うと外出した宿泊客の部屋の掃除を続けた。今日は天気が良いので、民宿に泊まっているお客さんはみんなで払っている。民宿には、優吾君と私だけが残っていた。
客室の掃除が終わり、民宿の裏にある菜園に夕食で使う野菜を取りに行く。建物の外に出ると、昼前だというのに肌が痛くなるほど強い日差しが照りつけていた。
「この帽子を使ってください」といって優吾君が私の頭にツバの広い農作業用の防止を被せてくれた。優吾君は帽子を被った私の顔をじっと見る。
「涼子さんには似合いませんね」
真夏の太陽の下で優吾君が目尻に皺をつくって笑う。
白いタンクトップから覗く彼の腕は思った以上に太く、“彼”のように逞しい腕だった。真っ黒に日に焼けた“彼”よりも少し白い優吾君の肌に汗が浮かんでいる。
昨日、彼の腕に抱かれるのは好きだと思った。
「あ」
“彼”のことを考えていたはずなのに、いつの間にか優吾君の腕に抱きしめられる自分を想像していたことに気づき、恥ずかしくなって急に優吾君の顔が見れなくなってしまった。
「どうしたんですか?体調が悪ければ、先に部屋に戻っていてください」
心配そうに私の顔を覗き込む優吾君に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「なんでもないの。ちょっとぼーっとしちゃって」
「……また、誰かの事を考えていたんですか?」
「え?」
突然、優吾君が私の腰に手を回し、ぐいっと彼の胸に引き寄せた。
「俺の入れる余地は無いんですか?」
「優吾、君?」
彼の肌が焼けるように熱く、心臓がすごい速さで鳴っている。
「どんなに小さくても良いんです。もし、涼子さんの心に隙間があるのなら、俺をそこに受け入れてください」
彼の腕にぐっと力が加わる。
「涼子さんのことが、好きなんです。昨日、俺を受け入れてくれたってことは、少しは俺にも可能性があるってことですよね?」
「ちがっ」
それは違う。昨日私は優吾君にある“彼”の面影しか見ていなかった。どう言えばいいのかわからずに、困惑する私を見て優吾君は深くゆっくり息を吐き出した。
「わかりました。ついて来て下さい」
ぐいっと腕を引かれて、私はユーゴ君と家の中に入っていった。
「俺の部屋です」といわれて入った部屋は、ベッドと本棚と机しか置いていない簡素な部屋だった。大学で一人暮らしをする前に整理したままの状態なのだろう。優吾君は本棚から1冊のアルバムを取り出すと、後ろから数ページ捲った後、あるページを開いて私に見てくださいと言った。
「これ、この男の人、知っていますよね?涼子さん」
そこには、白い歯を見せて笑う懐かしい“彼”の写真があった。私は突然のことに言葉を失くしてしまう。
「この人、俺の兄貴なんです。今朝言いましたよね。死んじゃった兄貴がいるって」
「優介……」
突然姿を消した、私の大好きだった人。
「ゆーすけっ」
涙がぽろぽろと頬を伝って流れ落ちていく。
優介と出会い、一緒に過ごした時間。
目尻に皺をつくって笑う優介の笑顔が大好きだった。
澄んだ綺麗な瞳を輝かせて、世界中の話をしてくれた。
真っ黒に日焼けした太くて逞しい腕に抱きしめられる度に幸せだと思った。
最期に会ったときも優介は白い歯を見せて笑っていた。
写真を食い入るように見つめていると、ふっと目の前に影が落ち、唇に柔らかい感触が触れる。
「涼子さん」
少し震えて掠れたような優吾君の声が耳の奥に響く。
「俺を見てください。涼子さんっ」
急に視界が変わり、目の前の優吾君の後ろに白い天井が見えて、自分が押し倒されたことに気づいた。
優吾君の顔が苦しそうに歪んでいる。
優介と似ているところはたくさんあるけれど、優吾君は優介とは違う。
優介は少女だった私を広い世界に羽ばたかせてくれた。
優吾君は傷ついた私の羽を優しく癒やしてくれた。
優介への気持ちを消す事は出来ない。けれど、優吾君からの気持ちを踏みにじることも出来ない。
どうすればいいのかわからないまま、なすがままの状態で優吾君の手で服を一枚一枚脱がされていく。
気が付けば、私は何も身に着けずに一人で優吾君の部屋のベッドに寝かされていた。
準備もせず優吾君の感情を受け入れた身体に、擦り切れたような痛みを感じ顔を顰める。
ぽたりと、止んでいた涙が再び流れた。
悲しいのではない。ただ、気持ちの整理が追いつかなかった。
***
side優吾
兄貴の写真を愛おしそうに見つめながら涙を流す涼子さんを見て、衝動的に彼女を抱いてしまったことを後悔する。
昨日も今日も、俺に抱かれながら涼子さんの綺麗な瞳はどこか遠くを見ていた。
わかっていたはずなのに。
寂しげな涼子さんを船の甲板で見た瞬間から、彼女に俺の気持ちを知ってほしいと思うようになってしまった。
昨日涼子さんを腕に抱いてから、彼女に対する気持ちが制御できなくなってしまった。
気を失うように眠ってしまった涼子さんを部屋に残し、俺は残っていた仕事を終わらせた。夕方になって宿泊客や両親が外から帰ってくる。これからどんな顔して涼子さんに会おうか悩みながら歩いているとお袋に呼び止められた。
「優吾、涼子さんまーかいが?」
「え」
お袋の話では涼子さんとさっき外で会ったらしい。もうすぐ暗くなるからマムシが出て危険だと伝えようとしたが、上手く伝わらなかったかもしれないとも言っていた。
俺は外へ飛び出した。
***
なんだか急に海が見たくなって、両脇にサトウキビ畑が続く道を歩く。さっき優吾君のお母さんに会ったとき、少し海まで行ってきますと伝えたから大丈夫だろう。
大きな夕日がサトウキビ畑をオレンジ色に染める。
ここから星を見たら綺麗だろうな。
南国の生温かい風が背中を押すように吹き付ける。
夕方は昼間ほど暑くなく、足取りも軽い。
辺りが薄暗くなってきたころ、道が二手に分かれた場所に来た。どちらの道も背の高いサトウキビ畑を抜けているため先が見えない。私は急に不安になってしまった。優吾君が暴漢がいると言っていたことも思い出す。
来た道を引き返そうとしたとき、後ろから見慣れた軽トラが走ってきた。軽トラは私の近くまで来るとエンジンを吹かしたままドアを開く。
「涼子さん!」
「優吾君…」
軽トラの中から優吾君が飛び降りてきた。
「こんな時間にどうして一人で外出したんですか!」
手を引かれて軽トラに乗ると、優吾君はハンドルに額を乗せて深くため息を吐いた。
「この辺は夜、毒蛇が出るんです」
「ごめんなさい…、海が、見たくなって」
「海?涼子さん、行き方わかるんですか?」
私は俯きながら頭を横に振った。優吾君は何も言わずにアクセルを踏むと、二手に分かれた道の右側の道に進む。それからしばらくしてサトウキビ畑を抜けると、目の前に真っ黒な空間が広がった。空も海も海岸も真っ黒で、軽トラの開いた窓から静かな波の音だけが聞こえる。
「夕方から曇ってきたから今は星が見えませんが、晴れた日は綺麗ですよ」
「あの、ありがとう」
「……いえ。俺こそ、ごめんなさい」
昼間のことを思い出す。苦しげに歪んだ優吾君の顔。
「私ね、歩きながら考えてたの。……優介のことを心の中から追い出して新しい恋を始める事は、きっともう一生出来ないと思う。でも、優吾君が言ってくれたみたいに、優介への気持ちを残したままでもいいのなら…」
「俺のことを、受け入れてくれるんですか?」
生温かい風と、規則的な波の音が開けっ放しの窓から入り込む。
「……私、たぶん、もう優吾君のことを優介と同じくらい愛してる」
沈黙が続いて目の前の暗闇に飲み込まれるかのような錯覚に、ぎゅっと握った手に力を込める。隣の優吾君の顔を見ようとしても、暗くて優吾君の表情が見えず、私はそっと彼の頬に触れた。
「泣いてるの?」
「そんなこと、聞かないでくださいよ」
優吾君はごしごしと目元を拭った後、私の手を震える大きな手で掴んだ。
「昔、兄貴が涼子さんの写真を見せてくれたんです。『可愛い彼女、うらやましいだろ』って。兄貴とは時々喧嘩もしたけど昔から仲が良くって、…自慢の兄貴だったんです。
兄貴が行方不明になった後、俺も同じ大学に入りました。学部も違うし3学年下だから涼子さんは知らないと思うけど、俺も探検部に入っていたんです。大学に入ってから、兄貴の居た部屋も見に行きました。そしたら部屋の中、なんにもなくて。……兄貴のものは両親が全部手放しちゃったんです。『兄貴の物を見るたびに辛くなる』って…。ほら、昨日も全然兄貴の話しなかったでしょう?
それで、俺の周りも兄貴のことを知っている先輩たちが卒業して遠くに就職しちゃった後、急に兄貴の存在が世界から消えてしまったみたいに感じて。
そんなとき、涼子さんに出会ったんです。昔兄貴から見せてもらった写真よりも、ずっと綺麗になっていました。個人で行く海外旅行を涼子さんの会社で予約したときに、俺の担当が貴女だったんです。
そのとき、俺の行き先を見て、懐かしそうにその場所の話をしてくれました。その話は、俺も兄貴から聞いていたから、すぐに貴女が兄貴から聞いた話だと気づきました。初めは涼子さんの中に兄貴が居ることが嬉しくて、貴女の傍に友人の一人としてでもいれたら良いなと思っていましたが、結局話しかける勇気がなくて、そのまま大学を卒業してしまいました。もう会えないだろうと思っていたら、昨日船で偶然貴女を見つけたんです」
「甲板にいたのは偶然じゃなかったの?」
「すみません、涼子さんの後をつけて行きました。俺、涼子さんの傍にいると、どんどん貪欲になってしまって。俺の気持ちに気づいて欲しい。涼子さんにもっと触れたいって」
雲が晴れてきて、大きな満月が姿を現す。白い月の光に照らされて、嬉しそうに目を細める優吾君が見えた。
「ねぇ、涼子さん。キスしても良いですか?」
沖縄の方を舞台としましたが、すべて想像です。すみません。方言は難しい。。。