大王ヒヤリ
校門を通り過ぎる人々を眺めながらひとつため息をつく。
待ち人はなかなかここを通らない。いつもよりずいぶんと早く家を出てきたのでもうかれこれ小一時間は校門に持たれている事になる。
「遅いねー、華美ちゃん」
「ああ、そうだなシオ。そろそろ諦めて教室に入っちゃどうだシオ。いい加減この時期でも寒くなって来たシオ」
暦の上ではもう秋から冬へと移ろうかという今日この頃である。早朝からこんなところに突っ立っていりゃ、さすがに身体も冷えてくる。早いところ壁に囲まれた場所に移動したい。
むろん風の吹かないところ、という意味で、刑務所に入りたいという意味ではない。
「もういいシオ。お前はもう十分頑張ったシオ。だから、終わりにしよう。楽になるんだシオ」
「ううん。もう少し待ちたいな」
このやり取りは既に1千回は繰り返されている。いや、嘘だ。
しかし、彼女は自身の吐く息も白いというのに微塵も寒さを感じさせない様子でここに佇んでいる。僕が思っていたよりも意外と辛抱強いようだ。
それに引き換え、僕は寒さに凍え、他の生徒に見られたら、「そのぬいぐるみ、バイブ機能付きか?」と言われそうなくらい震えていた。
一応、当然ではあるが、服は着ている。いくらぬいぐるみのような外見だからといっても、薄い獣毛に覆われているといっても、暦とした人間だもの、羞恥心という観点からも、防寒という観点からも衣服の着用はしておかねばならないだろう。
ただ、薄い。
何が、って衣類の生地がだ。
それにきつい。
照加の部屋にあった熊のぬいぐるみのセーターを着用に及んでいるのであるが、彼とは少し体格が違う為、常に身体は締め付けられているので苦しい。
あと、肌着が無いのでゴワゴワとチクチクとも戦わねばならない。
まあ、文句は尽きないが上はまだいい。下半身はもっと悲惨である。
彼女の家の同じくらいのサイズの人形に下半身に何かを着ている物が無かったので、フェルト生地を安全ピンで巻いただけの物を腰に巻いている。一見するとスカートだ。非常にスースーする。
一陣の風が僕のスカートの裾を捲り上げる。
こんなに恥辱にまみれた気分は始めてだった。
「なあ、お前、寒くないシオか?」
あまりの寒さにギブアップしようと照加に話を振ってみた。
「今朝は少し寒いね。貼るカイロをいっぱい貼ってきて正解だったよー。私はお兄さんみたいに身体に毛、いっぱい生えてないもんね」
なんやて? いや、なんだと。
「おい、お前そんなもの隠し持ってたのかシオ。ズルイシオ。ふざけんなシオ。こちとら見た目ほど暖かくなんてないんだシオ。それを一つさっさと寄越すシオ」
「え、そ、そうなの? てっきりお兄さんは極暖なのかと思ってたよ」
二の腕辺りに貼っていた物をベリリと剥がして僕の背中に貼り付けてくれる。
「僕、めっちゃ震えてたんだけど、気づかなかったのかシオ?」
「それにしても今日は貧乏ゆすりがひどいな、って。でも、寒かったんだったら、鞄の中に入っていたらよかったんだよ」
ああ、僕はバカだ。
そんな事にも気づかなかったなんて。
人前ではかわいいぬいぐるみである事に徹しようと思っていた僕はきっと、ぬいぐるみが鞄の中で暖をとるなどありえない、と無意識に考えていたのだ。
「今度からそうするシオ」
僕が一人ガタガタと震えているうちに登校してくる生徒がいっそう多くなった。もう始業時間が近くなって来ているからだ。
「あっ、華美ちゃーん。おっはよー」
ようやく待ち人来る。照加は一時間も早くここで待っていたことなど感じさせない元気な声で少女に挨拶した。
「なんや、またアンタか。もういい加減にしたらどうや。昨日のんで懲りたんちゃうんかいな」
明らかに迷惑そうな様子である。
彼女の言う昨日の、とはもちろん不良にからまれた、いや、不良にからんだ事を言っている。
普通、あんな危ない目にあえばこの不敵な少女を敬遠したくなるというものだ。
「懲りる、って何を?」
「もう、なんでもええから、ウチの事は放っておいて」
そう言って華美は足早に校舎に向かう。
照加も金魚のフンのようにそれに倣う。
が、慌てて足を動かしたので、鈍な彼女は転んでしまった。
「ああー、痛いよー」
「大丈夫かシオ?」
「うん、カイロ、いっぱい貼ってたから、あんまり痛くなかった。」
俺を差し置いてどれだけぬくもってやがったんだ。ちくしょう。
「入り口で無様に横滑りされていらしては、私の通行の邪魔になるじゃありませんか。少し道を空けて下さらないかしら」
背後から落ち着いた女性の声がする。
内容からどうも、照加に対してかけられた言葉のようだ。
「おい、あれって……」
「そうだよ。大王さんだ」
校門付近が俄かにざわつきだしたので、照加はもう見えなくなった華美を追のを止め、騒ぎの原因を探った。
「貴女に言っています。出来ることなら速やかにそこを通して下さいな」
振り返ってようやく照加は自分の後ろから声をかけられている事に気づいたようだ。
「ええと。はい。どうぞどうぞー」
えへへ、と取り繕うような笑顔で脇に避けた照加は相手に道を譲る。
やや顎を上げ、豊かな胸を張り歩く少女。
彼女は非常に長く美しい髪の持ち主だった。いや、それ以上に端整な顔を持っていた。
切れ長の目は自信に満ちていたし、高い鼻の下の口は意思が固そうに引き結ばれていた。
周囲の生徒達は皆彼女に注目していたが、そんな物はものともしないような威厳を漂わせている。威風堂々としている。
彼女の事は僕も知っている。
といっても別に知り合いという訳じゃない。ただ、一方的に知っている。
知っているのは僕だけではなくて、この学校に通う生徒のほとんどは彼女の顔と名前を知っていた。
大王ヒヤリ。
校門の向こうには黒くて高級そうな車が停まっている。あれから降りてきたのだろう。その傍らにはボディガードなのか運転手なのか、大柄な男が手を振るでもなくただ立って見送っていた。
財閥令嬢であり、雑誌の有名モデルであり、競泳の特待生であり、学校一の秀才である。
これでもかという程に雲上人の要素が盛り込まれた人間。僕らとは住む世界の違う人間。
なぜこの平凡な公立校に通っているのか学園の七不思議に上げられる程である。
といっても忙しい彼女にはそうそう学校でお目にかかれる機会は多くない。
学年も違うし、僕はこれまでに三度目にした程度だ。
僕らの横を通り抜けようとした彼女は、ふと何かに気づいた様子で足を止めた。そして、ニヘラと笑う照加に寄って来るとその前に立つ。
その様子に彼女を眺めていた学生たちもザワザワとどよめく。
ヒヤリは照加の前で屈むと、彼女の手にした鞄をまじまじと見つめだした。いや、正確には、鞄に付いていたぬいぐるみを見ているのだ。
それも相当に長い間だ。
背中に貼られたカイロがそろそろ熱くなってきていた僕は眉一つ動かないようにする事に神経を集中させないといけなかった。
「貴女。このぬいぐるみ……。いえ、これはぬいぐるみかしら。違いますわよね?」
ただ、違う事を確認するだけの問いだった。
バレたか。
さすがに我慢強い僕も流れる汗を止めることまではできない。
「うん。違うよ。妖精だよ」
って、何正直に言っとんじゃ。
照加はアッサリと僕の正体を暴露してみせた。別にヒヤリの圧力に負けたから吐いたという感じではなく、実に自然にだ。今日の天気を話すかのように、ただそうだから言った、という風だった。
確かにその事を口止めしたことはない。ていうか、普通、言っちゃまずいんじゃないか、って思わないか。思わないんだな。そういうことだ。
「ふ、ふーん。そうですか。貴女、お名前はなんとおっしゃるの?」
さすがのヒヤリも照加のあまりのあっさり加減にやや面食らった様子だった。
「ええと、高巻照加。1-1だよ。で、あなたはなんて言う名前なのかな?」
うわ、知らなかったのか。さすがだな。
「う、わ、私は大王、大王ヒヤリですわ。お見知りおき下さいな」
あまり自分の事を知らない人間と会ったことがないのだろうか、自己紹介がややぎこちない。
「うん。よろしくね」
「はい。よろしくお願いしますわね」
そう言って頭を下げた彼女が見ていたのは、照加なんかじゃあなく僕の方だった。