└エリィとアリア
アリアは、ひとり湯に浸かっていた。
身に染み渡る熱が、ここにしかない安らぎを感じさせる。
ここに来た理由は勿論、ロック達を避けてのこと。
昨晩のシングの様子から、全員もしくはロックやあの少女を連れて自分に会いに来ると予測していた。
昨日の夕飯時には特に接触しようとしていなかった為、今日接触を図るなら恐らくは朝食後にやって来るだろうと。
だから早朝に朝食を取り、部屋で少し時間を置いてから、アリアは風呂場にやってきたのだ。
ここならば流石にロックやシングは入って来れないし、ひとりで落ち着ける。
ただ、イメリアには申し訳なかったが。
(あの子、隠し事は出来ないタイプだから)
恐らく、すぐに自分の居場所はバレてしまうのだろう。湯に浸かって落ち着いた思考は、たやすくその結論を導き出した。
風呂場から出た時、待ち伏せされていたならその時はその時。
仕方ないから話を聞くだけ聞いてやろうではないかと、今のアリアは考えていた。
何せ今の自分の状態は、ただ彼らを避けて『あの少女に会いたくない』、と駄々をこねているだけなのではないかと思い直したのだ。
勿論、あの少女に対する疑念が解消したわけではないが。
「…!」
扉の開く音が聴こえ、反射的にアリアは息を詰めた。
立ち籠もる湯煙で誰が入って来たのかは見えないが、早朝でもなく夜でもない今頃に風呂に入る人間は多くない。
否応無しに、警戒してしまう。
しかしあの少女には常にロックがついているし、ロックなしであの自意識に欠けた少女が行動するとはとても思えなかった。
そう思い、平常心を取り戻しかけたその時。
「…アリア?」
「!」
アリアはさすがに驚いた。まさかの事態がが起こったのだ。
「アリア、いるよね?」
再び呼びかけ、ロックがエリィと名付けた少女は、徐々にアリアに近付いてくる。
「…来ないで」
なるべく冷たい声を心掛けてアリアは言い放った。少女の足が止まる気配がする。
そのまま出方を窺っていると、少女はアリアの思いも寄らぬ行動に出た。
「…そうだった」
そう呟き、……どこかに腰掛ける物音がして。
「おふろに入る前に、からだをきれいにしなきゃだめだよね」
その発言を最後に、少女の声は途絶える。その代わり、泡立ったタオルで自分の身体を擦る、風呂場でしか聞かないような音がアリアの耳に届いた。
「……」
アリアは呆気に取られるしかない。
何なのか、この状況はどういう事か。
自分の拒絶の言葉がまさかあんな解釈をされるなど思いもしなかった。
拒絶を理解しつつ、わざと気が付かないふりをしているのかとも思ったが、自意識に乏しい少女がそんな思考を持てるだろうかという疑問が残る。
…素、なのだろうか。
(…仕方ないわね)
彼女を無視し、風呂から上がってしまおうか。
そうとも考えたが、恐らく脱衣所かその外ではイメリアやロック達が控えているだろう。
アリアは観念して、この少女が身体を洗い終えるまで待った。
「アリア」
身体を洗い終えたエリィは、無遠慮に感じてしまう程たやすく、湯につかるアリアに近付いて来る。
「…なに」
無言を保っている間に目の前までやってきたエリィに、アリアは眉を顰めながら声を出した。
あからさまに不機嫌そうな雰囲気を醸すアリアにも、エリィは全く気にする様子はない。
(…いいえ)
気にしていないのではない。気が付いていないだけだと思い直した。
「何の用」
この少女には比喩だとか取り繕うとか、そんな事は無駄だろう。こちらの表情や言葉の奥にある感情など気付きもしないのだから。
(…苦手だわ)
先程のストレートな拒絶すら勘違いしてしまう相手。アリアはこの少女に対する、今までとは別の苦手意識が芽生え始める。
「アリアと、はなしたかった。わたし、ともだちになりたい」
「……」
だというのに。
向こうからの言葉はこんなにもストレートだなんて、不公平だとアリアは思った。
「私が貴方と友達になれると思う?」
「なれないの?」
「…最初に言った言葉、忘れたのかしら」
首を傾げる仕草は、本当に何も知らない幼子のそれだ。
重い溜め息を吐いて、アリアはエリィを鋭い眼光で見据える。
「私は昨日、ロックに対して言ったわ。
…貴方は危険だと」
「きけん? わたしが…?」
「そう。貴方はどうしようもない程不可解な、危険な存在」
淡々と吐き捨てるアリア。だがどうにもエリィにとってはそれこそ不可解らしく、困ったように眉を顰める。
「アリアの言ってること、よくわからない」
「本当にそう思っているの? …じゃあ貴方、自分の力についても自覚が無いというわけ?」
「わたしの、ちから…?」
未だ合点がいかないのか首を傾げるエリィに、苛立ちすら覚える。
アリアはかねてよりの疑問を、弾丸のようにぶつけ始めた。
「貴方はあの時、紡ぎ歌無しでウンディーネを喚ぶ事が出来た。そんな貴方は、自分がどれだけの力を持っているのかを理解しているかと聞いているの」
いくら自ら認めた者にしか力を貸さない精霊とはいえ、紡ぎ歌無しで喚ぶなど至難の業だ。
アリアのある種当たり前の問いに、エリィは。
「…なんて言ったらいいのかわからない」
エリィの眉が、先程より下がる。その態度が、アリアにとっては不可解で。
苛立ちが募って来た。
「何て言ったらいいのか解らない、ですって…?」
興奮してきたのか、アリアは自らの体温が上がっていくのを感じた。
…記憶の奥底から、声がする。
『凄いわ、アリア』
『アリア、キミには類い希な才能がある』
…魔術師の家系ではない、ごくごく平凡な家庭に、アリアは生まれた。
『アリア、気をつけて行ってくるんだよ』
…響界の公認魔術師となり、ギルドに入ったのは本当に幼い頃で。
いつしか、自分は『天才』だなどと持て囃されるようになった。
「貴方は何故、あんな場所にいたの」
エリィにぶつける言葉は、いつしか恨み言のような響きに変わっていた。
「貴方は何故、ロックと同じものを持っているの」
もはやエリィの反応など見ていない。目に入ってもいない。
いつしかアリアは立ち上がり。
ただただ、言霊を殴りつけるように放っていた。
…――天才だと呼ばれる事に、喜びや驕りがあった訳ではない。
けれど、自らが幼い頃から学んできた『魔術』。
それによる、『魔術師』である自分としての矜持は確かにあった。
だから、魔術師としての常識を根底から覆すこの少女が。
存在から不可解なこの少女が。
アリアは、そう。恐ろしかったのだ。
「――…貴方は、人間なの」
その問いに、エリィは何と答えたか。
アリアには全く解らなかった。
突然、ぐらり、と視界が揺れる。
「…? アリア…?」
少女の呟きが、どこか遠くに聞こえた。
「…? 何か様子がおかしくないか?」
「……」
糾弾するようなアリアの声が唐突に消えた。シングは呟き、傍らのロックに問いかける。
しかしロックは何処かぼうっとして、シングの声が耳に入っていないようだった。
「おい、おい! ロック!」
「! え、あ、ごめんシング…何?」
揺さぶられてようやく我に返ったロックは、努めて明るくシングに問う。
シングは暫しロックを見つめ、はあっと息を吐き出してから本題に移った。
「何、じゃない。…向こうが急に静かになったんだ。一体なにが…」
「…イメリア、きて!」
その時。
壁越しに聴こえたエリィの声に、ロック達は弾かれたように立ち上がった。
「行くぞ、ロック!」
「う、うん!」
慌てて風呂を出、ふたりは急ぎ女性浴場まで行く、と。
「……」
――最初に目に入ったのは、光だった。
白い糸のような光が、浴場の床に横たわるアリアとエリィを繋ぐように軌跡を描く。
よく目を凝らして見れば、エリィの掌がアリアの胸元に添えられており、そこから光が発現しているようだった。
「なに、を…」
「へいき」
短く答えたエリィは、イメリアから受け取ったペンダントを、虹色のエレメントロックを強く握り締める。
指の隙間から、同じ白の光が閃光のように洩れだした。
ロック達は勿論、意識朦朧としているアリアを含め、その光景をただ見守る事しか出来ない。
「…創世の力、我が意思に従え。
焔は我に還り、命を燃やせ。
そして汐はこの者に宿り、侵されざる泉を与えよ。
――ラマ-ディーネ」
目を閉じたエリィが口にしたのは、紡ぎ歌、なのだろうか。
ロックは耳にした事はない。しかし、どこか初対面で彼女が歌った詩と響きが似ているように感じていた。
「あ!」
同じように茫然としていたイメリアが声を上げる。その意図は問わずとも誰もが理解していた。
エリィとアリアを繋ぐ白の光。それを道にするように、幾つもの光の粒が通る。
アリアからは赤の光が、エリィからは青の光が、それぞれ相手の身体へと向かう。
それはまさにエリィが口にした詩と同じ。一方は焔が還るように。一方は汐が宿るように。
そして、終わりは唐突に訪れた。
ペンダントからの光が消え、エリィの掌から放たれる眩い光が軌跡を描くように消え。
静寂が辺りを支配した。
「アリア、もうへいき」
目を開けたエリィの言葉に、皆がアリアに注目する。
横たわっていたアリアは、目を見開きながらもゆっくりと起き上がる。
…エリィの言った通り、『もう平気』だった。
のぼせていた身体は何ともなく、それどころか溜まっていた疲労まで回復している。
「アリアは『水』がパーソナルエレメント。どのエレメントよりも、水に守られてる。だから、平均以上まで上昇してた火のエレメントをわたしがもらって、かわりに水のエレメントをあげたの」
「あな…たは」
饒舌に喋るエリィの話は、非常に信じがたい内容だった。
他人に自分の体内エレメントを分け与え、体調を回復させるだなんて。
そんな人間、聞いた事がない。
「アリア、もうへいき…でしょ?」
答えを促し、エリィはアリアを見つめる。
その表情はやはり、純粋で無知な子供と同じで。
やはり不可解なものだった。
…けれど。
「そうね。…ありがとう。助かったわ」
礼を言わないのは、アリアのプライドに反する。
「でも、やりすぎね。私はただのぼせただけなんだから、暫く休めば自然と回復したのに」
「そうなの?」
ぱちぱち、とエリィは目を瞬かせたが。やがて納得したように「そうなんだ」と頷いた。
その様子を見ていたアリアは思う。
(この子は、助けようとした…私を)
ただ無知だったからかもしれない。でも、あの時のエリィは、間違いなく自らの意思でアリアを助けようとしていた。
(自分を拒絶する人間に、しかもただのぼせていただけの人間に、訳の分からない術を行使するなんて…)
本当に、この少女は何も知らないのだ、と思う。
「…貴方には色々と教える事があるわね」
「え?」
アリアの発言に、エリィやロックは疑問符を浮かべた。
「自分の力の使い方を教えないと。誰彼構わず今みたいな術を使ったら困るわ」
そう言い、エリィを見つめ返すアリアの表情は穏やかで。
事が収束したのを、誰もが理解した。
ただひとり、エリィは首を傾げたまま。
「アリア、ともだちになってくれるの?」
「……貴方が、もっとしっかりしてくれたら、ね」
「しっかり? …むずかしい」
…その会話を遠くに聞きながら、ああ、良かったとロックは思った。
アリアはきっと、少しずつエリィを認めてくれる。
そんな確信のような信頼が、心に芽生えたから。
「良かったな、ロック」
「うん」
シングに笑顔で頷く。先程まで沈んでいた自分の気持ちも穏やかになっていた。
――…と。
「ひゃあっ!? ろっ、ロック様にシングくん…っ!!」
「え? ……あっ!!」
今になって扉前にいる二人に気付いたのだろうか、イメリアが叫び声を上げる。
ロックは顔を真っ赤にしている彼女に首を傾げ、視線をエリィとアリアに向け…て、気付いた。
エリィとアリアは、風呂に入っていたのだ。
なので勿論の事、服を着ておらず。
裸だった。
「…ち、ちが、違うよ!? ねえシング…って、いないっ!」
イメリアに負けず劣らず耳まで赤くなったロックは、そんな変な意図でここまで来た訳ではないと慌てて否定する。
そして仲間に同意を得ようと横を見たが、たった今さっきまで傍らにいた筈のシングがいない。
酷いよと嘆きの声を上げるロックに、氷のように冷たい言霊が飛んでくる。
「ロック…貴方もさっさと出て行きなさい」
「は、はいぃっ!!」
アリアに強い眼光で睨みつけられ、ロックは自分を置き去りにさっさと退散したシングへの恨み言を心中で叫ぶのであった――…。
「うぅ…酷いよシング…」
「ははは! …あーいや悪かったって!」
風呂から逃げ、案の定外にいたシング。
恨めしげに見てくるロックに対して、シングは悪びれた様子もない。
それどころかまるで面白いとばかりに笑っていて、ロックの不満を上昇させた。
「ロック」
「な…なに? エリィ」
当然服を着ているエリィが歩み寄って来る。するとロックはどうしても先程のアレが頭にちらついてしまう。
(だ、だって、仕方ないじゃないかっ)
誰に弁解しているのか、心中で声を上げるロック。知らず知らず顔が朱に染まっていて、アリアに冷たい目で見られている事にも気付かない。
とにかく、先程見たものについてなるべく意識しない事に全神経を使いつつ、ロックはエリィに笑いかけた。
そんな絶賛努力中のロックに、エリィは僅かに眉を顰めて。
「リピートが言ってた。女湯に入る男はへんたいだって」
「ぅぐっ」
今このタイミングでは絶対に言われたく無かった単語を吐かれ、ロックは精神的なダメージを負う。
笑顔は歪み、何か潰れたような声が出た。
「しかも、ふたりとも…はじめてじゃないんだよね?」
「っておいおい、オレまで変態扱いしないでくれよ」
「何言ってるの」
同罪でしょ、とアリアは冷たく言い放つ。
そんなシングとアリアのやり取りに意識を向ける余裕のないロックは、エリィの発言に「違うよ!」と大きな声を上げた。
「盗み聞きは何度かしたことあるけど、女湯に入ったのは今回が初めてだよっ!
それに盗み聞きだってシングが無理やり……って、あれ…?」
ロックは自分の発言を聞いたアリアの眼光がさらに鋭くなり、さらにイメリアは顔を真っ赤にした事に疑問を覚えた。
ロックとしては、女湯に何度も忍び込む変態のように思われたくなくて正直に話しただけなのだが…。
心なしか、周囲に偶然いた人間も一瞬静まったような気がする。
「…ロック、お前ってホント正直な奴だよな。うん…そういうとこ、オレは嫌いじゃないぜ! …ははは…」
すると先程までこちらを笑っていたシングの顔が微妙に青くなっていく。その視線は発した台詞に反して、褒められているような気はしない。
「……そう。…盗み聞きは、『何度か』したのね」
何度か、を強調するのはアリアだ。
彼女の眼光は相も変わらず鋭いまま。その為ロックは強い威圧をひしひしと感じながら、しかし弁解の為に言葉を重ねる。
「え、あ、うん。シングってば酷いんだよ…僕やセイルを無理やり巻き込んで」
「あらそう…つまり、貴方やセイルはただ巻き込まれただけで無罪。女湯に入ったのは今回は初めてという訳」
「う、うん。そう!」
「………」
ロックの肯定を最後に、再び沈黙が辺りを支配する。
周囲の人間がこちらから視線を逸らしながら、そろそろと散開していくのは何故だろうか。しかも揃いも揃って、何とも微妙な表情を浮かべている。
ロックは何だか、非常に居心地が悪くなっていくのを感じていた。しかもそれは、時間を追う毎にどんどん大きくなっていく。
「ロック」
「な、なに?」
まるでついさっきの焼き直しのようなエリィの呼び声。前回と違うのは、心に纏う嫌な予感が、先程見た光景を覆い隠してくれた事か。
けれどそれは果たしていい事なのか。ロックには判断がつかない。
淀む空気の中、エリィは口を開く。
やはり僅かに、眉を顰めて。
「リピート、『のぞきとぬすみ聞きもへんたいのやること』って言ってた。
…だからやっぱり、ロックはへんたいなんだね」
――嗚呼。その結論は必然か、運命なのか。
自分が招いた結果だという自覚に乏しいロックは、しかしエリィにそう言われた瞬間目眩がした。
そして、その発言がきっかけとなり。
ロックとシングはアリアにお説教を受け、時が過ぎ昼食の場になっても変態扱いをされる事となってしまったのである――…。