└暗躍する者達
――同時刻。
人気の無い森。鬱蒼と佇むそれらは、夜の闇に加えて影を落とす。
ここに、月の光は届かない。ただひとつ、『彼等』がいる場所を除いては。
彼等が立つそこだけは木々が二人を避けるように連なっており、煌めく星々を見渡せる程に空も開けていた。
等しく月の光が降り注ぐステージに立つのは、二人の男女。
しかし幻想的なステージとは対照的に、男女の間には恋人同士が醸し出すような甘い空気は存在しない。寧ろ殺伐とした、張り詰めた雰囲気が辺りを包み込んでいる。
男の方は先程からずっととある一点を見つめていた。
彼の視線の先には木々、だが彼が見つめているのはさらにその先にあるものだ。
そこには、『ルーン』という都市がある。四大都市のひとつで世界的には魔術師の東ギルドがある事で有名な町だ。
「チッ、おっせーな。相変わらずトロくせぇ奴だぜ」
男は変わらず一点を見つめたまま舌打ちして、忌々しげに言う。静寂を破ったその一言は独り言とは程遠い大きさで、同じ場所を見ていた女も自然と男に目を向けた。
「仕方がないでしょう。あの方だってこんな夜更けに抜け出したのを誰かに見られたら不審がられると思う筈だもの。慎重に事を進めているのよ」
女の声色には男を非難するような響きがあった。その所為だろうか男の歪んだ顔がさらに強く深く歪む。
「ハッ、それはそれは。ご苦労なこった」
しかし男は自分へ向けられたその非難すらも相手にそのまま返し、鼻を鳴らした。
「テメェも毎度毎度ご苦労だな。約束の時間に遅れるような奴をフォローするのは骨が折れるだろ?」
「だからそれは…!」
「いつも何かにつけてアイツを庇うもんなぁ?」
先と同じ言葉を返そうとした女を遮り、いつしか男は薄ら笑いを浮かべていた。
「…貴方はいつもそう、問題や争いの火種を生む。あの方に突っかかって、それだけじゃなく誰に何に対しても容赦がない。
そんな貴方の相手をする方が骨が折れるわ」
「はん、言いやがる」
睨みつけてくる女の視線など気にした様子はなく、今度こそ声を上げてさも愉快だと言いたげに笑った。
その反応に女が顔を顰め、「貴方はっ…!」と声を上げた、その時だった。
張り詰めていた空気が、部外者の登場によってざわめきが生じる。
二人が待っていた人物ではない。男は忌々しげに舌打ちをして、腰から後ろに提げている剣の柄に手を掛けた。
立ち上がった男から女はとうに視線を外し、先程まで見ていた方とは逆を振り返る。
森の闇から、異常なエレメントの高まりを感じた。
男は女を守るように前に出て、女も男から距離を取るように後退る。
剣の柄に手を掛けたままの男は、木々の遥か奥を見据えながら口を開いた。
「さっさと出て来いよザコ魔物。俺に余計な手間掛けさせんな」
刹那。
男の言葉を合図にしたかのように、異形の魔物が木々の間から躍り出た。
形状は一般的な獣型。エレメントで象られた輪郭は薄くぼやけているが、青がかった紫の毛で全身を覆っている。
鋭い鉤爪に抉られれば一溜まりもないだろう。しかし相対する男はそんな魔物の攻撃もたやすく避けて見せた。
「やっぱりザコだな。暇潰しにもなりゃしねぇよ。…くっだらねー」
男は軽口を叩く余裕すら見せる。まるで遊んでいるように、敢えて魔物の鉤爪をギリギリで避けているようだった。しかも剣は未だ抜いていない。
「アッシュ!」
と、離れていた女が叱咤の声を上げた。アッシュと呼ばれた男は不愉快そうに顔を歪める。
「…いちいちうっせぇ女だな!」
言い、遂に男は反撃に出る。
魔物の質量ある攻撃を避け、腕をかいくぐるように懐に入り込む。
そして横薙ぎに一閃。
途端魔物は木々に叩きつけられ、苦悶の唸り声を上げた。
しかして男の動きは止まらない。
すぐさま距離を詰め、手に持つ剣―しかし刃は見せていない、刃は鞘に納まったままだ―を殴るように振り下ろした。
力を失った魔物は霧散し、空気中のエレメントと一体化する。
魔物が消えた事で、辺り一帯は再び静寂に包まれた。
「チッ、剣を抜くまでもねぇ」
舌打ちして、剣を腰に提げ直した。
「結構楽しんでいたように見えたけれど?」
「ハッ、馬鹿言え。殴った重みも切り刻んだ感触もねぇ魔物なんざつまんねえよ」
歩み寄りつつ皮肉めいた声色で言う女に吐き捨てたアッシュは、ふと後ろを振り返る。
そして眉を顰め、「やっとお出ましかよ」と呟いた。
がさがさ、と葉や枝が触れ合う音を立てながら、ようやく二人が待っていた人物が現れた。
まだ若い男のようだ。しかし少年という言葉は程遠く、酷く落ち着いた雰囲気から青年という言葉もあまり似合わない。
「ごめん、待たせたね。アッシュ、カヤナ」
申し訳無さそうに苦笑して二人に詫びる姿はやはり落ち着いた印象を見るものに与える。
しかし僅かに緊張した様子で(しかし嬉しそうに)、「いいえ」と返す女―カヤナと、不満げに「ごめんじゃねぇよクソが」と返すアッシュの反応は明らかに正反対だ。
「さっきこの付近で魔物が出たよね?」
「分かってて聞くんじゃねぇよクソリーブ。誰のせいだと思ってやがる」
お前がさっさと来ていればザコを相手にしなくて済んだのだと悪態を吐くアッシュ。
それは否定せずに男―リーブが苦笑していると、カヤナは「アッシュ!」と睨みつけた。
「貴方はどうしてそういう言い方しか出来ないの!? いくらリーブ様と昔からの友人だって言っても限度がっ…」
「ハッ、誰がコイツとダチなもんかよ。テメェの目ぇ腐ってんじゃねーかクソカヤナ?」
「貴方っ…!」
再び険悪な雰囲気が辺りを包み込み、言い争いに発展しようとしたその時、リーブが二人の間に割って入った。
「二人共落ち着いて。カヤナ、大丈夫だよ。僕は気にしてないから」
そう言って穏やかな笑みを湛えるリーブに、カヤナは釈然としない様子だったが「…はい」と確かに頷いた。
「で? 急に呼び出したからには何かあんだろうなリーブさんよ」
対して全く悪びれた様子のないアッシュは、頭の後ろで手を組んで鼻を鳴らした。静かに睨みつけてくるカヤナなど眼中にないようだ。
リーブはアッシュに頷き、二人の顔を見回しながら告げる。
「ああ。…例の計画、だけどね。実行を早めたいんだ」
「何故ですか? あの計画は来月のギルドマスター達の魔導会議に実行と…」
月一度のギルドマスター会議、魔導会議。
彼等のとある計画はその時に決行されようとしていたのに。
首を傾げるカヤナに、リーブは「東ギルドで予想外の事態が起きたんだ」と伝える。
「ギルドマスター達は緊急会議を開く為に明日、それぞれのギルドを発つ。僕達はその際にあの計画を実行に移したい」
リーブの言葉に、アッシュもカヤナも目を瞬かせた。
「予想外の事態だと?」
アッシュの問いにリーブは穏やかな口調のまま、しかし張り詰めた糸のような緊張感を持って、言った。
「そうだ。……目覚めたんだよ。『彼女』の片割れが」
「!!」
それは思いも掛けない言葉だったらしい。カヤナだけではなく、アッシュですら目を僅かに見開いた。
「この事態がこの先、良い方向へ転ぶかは解らない。報告の内容から鑑みて、ロック君…例の少年の影響で目覚めたのだろうしね。
だけど、予期せぬタイミングとはいえ、舞い込んで来たチャンスは利用すべきだと僕は思うんだ」
リーブの言葉を黙って聞いていたカヤナは、やがてはい、と頷く。
その瞳に宿る光は星に負けない程に強く煌めいており、彼女の強い意思を感じさせた。
「シディ達に伝えてくれ。実行は明日の夜、それぞれギルドマスターへの撹乱と東ギルドへの潜入を担当。潜入班はカヤナとシディに頼む。アッシュ達他のメンバーは撹乱班だ」
リーブの淀みない指示に、カヤナは頷き、アッシュは聞いているのかすら微妙で反応すら寄越さない。
だがリーブは二人を見つめ、よし、と頷いた。
「頼むよ、二人共。
――じゃあ、僕はそろそろギルドに戻るよ。
おやすみ」
その言葉を最後に、闇夜の会合は幕を閉じた。
――翌朝。
閉められていた筈のカーテンが勢い良く開かれる。
窓から入り込んで来た朝日の光。その眩しさに目覚めたロックは、目を擦りながらゆるゆると起き上がった。
「んー…」
「起きたかロック。おはよう」
寝ぼけていたロックは、カーテンを開けた人物の声を聞いた途端驚きに目を見開いた。
「と、養父さんっ!?」
普段は現れない人物の登場に、先程までの眠気など吹き飛んだロックは思わず声を上げる。
親子とはいえ、寝室も違う二人がこうして朝を迎える事はほとんど無い。それなのに今日はどうしたのだろうか。
問えば、エリィの事などの緊急会議の為に間もなくギルドを発つらしく、その連絡に来たとヴァルトルは言った。
「朝早く起こすのも悪いと思ったけどな」
たまには息子に見送りをして欲しいじゃねぇか。
そう茶目っ気のある笑顔で述べたその時、僅かな身動ぎの後エリィが目を覚ました。
「…ん…ロック……?」
「あぁ、ごめんエリィ…起こしちゃったね」
おはよう、と親子がエリィに告げれば、エリィも同じ言葉を返す。と、エリィはヴァルトルの姿に首を傾げた。
ロックが父のいる理由を説明すれば、今度は訝しげに眉を顰める。
「…『これ』、そんなにおかしなものなの?」
これ、と言って示したのは、彼女が首に提げている虹色のエレメントロック。
…ロックは彼女に説明する際、彼女自身が不可解な存在とされてしまっている事は言わなかった。
なので彼女の持つエレメントロックに関してだとかいつまんで説明したのだが、どうもエリィには理解し難いらしい。
「お前達以外にそれを持ってる人間はいねえんだよ。だから珍しいんだな」
補足するようにヴァルトルが言っても、エリィの表情は変わらず。
「失礼します。…ヴァルトル様」
「ああ解ってる。んじゃあロック、エリィも来てくれるか?」
入って来た魔術師の言葉に頷き、ヴァルトルはそう二人に声を掛けた。
「うん。エリィ、一緒に養父さんを見送ろう?」
「うん」
エリィはこくりと頷き、差し出されたロックの手を取る。
揃って部屋を出た四人は目的地――結界の間に向けて歩き出した。
「おはよう。ロック君、エリィさん」
先導している魔術師は歩きながら振り返り親しげに挨拶してきた。
「おはようございます、リーブさん」
ロックはそう言って、エリィにも挨拶を返すよう促す。
間もなくエリィも同じく返すと、魔術師は穏やかな笑みを浮かべた。
――魔術師の名は、リーブ・レカントという。
ロックにとっては、小さい頃から自分を特別扱いしない数少ない人間の一人だ。しかも大人となっては更に希少なのである。
彼はギルドマスターであるヴァルトルの補佐の為、チームには未所属。
その立場上勿論の事、魔術師響界が定めているランクも上から二番目の実力者だ。
「そうだ。ロック君、エリィさんにギルドの外は案内したのかい?
集魔導祭が近付いているとはいえ、せっかくの休暇中なのだからね。彼女に色々な物を見せてあげるといい」
「あ…そうですね」
そういえば、まだギルドの中の世界しかエリィに見せていない。
(…養父さんを見送ってから朝食まで、少し時間があるよね)
その時に、エリィと街に出てみようとロックは頭の中で決めた。
「お気遣い、ありがとうございます」
他の大人と相対した時のような遠慮など無く、ロックは素直に感謝の気持ちを伝えた。
そんな彼に、リーブは振り返らないまま「いや」と笑い。
「お礼を言われるような事じゃないよ。…ただ僕が勝手に気にしただけさ」
そう続け、ちょうど辿り着いた結界の間の扉を開けた。
――結界の間。
ロックは普段、ここにはあまり訪れる機会はない。
エレメントクリスタルで造られた、つるつるとした床。そこには文字列のような紋様が彫られており、これは名の通り『結界』を張る為のもの。
石造りの柱が四隅に立っているが、この部屋には天井は無く。早朝独特の涼やかな空気が、ゆっくりと歩み寄るように天から降りてくる。
この部屋から発生している結界の範囲は、このギルドから外のルーンの街まで。人里に下りてきた魔物が現れた際に、それを感知する力を持っているのだ。
「リーブ、俺が出ている間はこのギルドを頼むな」
「はい」
二人の会話に、周囲を見回していたロックはヴァルトル達を見やる。
いくらギルドマスターとはいえ、安全の為に護衛として三人の魔術師を連れている。
この部屋で待機していた彼らはいずれも、ヴァルトルやリーブだけではなくロックにも丁寧過ぎる程の挨拶をして彼を辟易させた。
堂々と迷い無く歩くヴァルトルは、幾重にも円状に掘られた紋様の真ん中に立つ。
わざわざ早朝に、しかも結界の間から出発するのには訳がある。
ギルドマスター不在が民間人に知られると、万一の確率だが良からぬ者達に狙われる危険性があるのだ。
四大都市と称される、東西南北に位置する四つのギルド。
響界とともにこの世界の中枢機関とされているこれらを危険に曝す訳にはいかないのだ。
ヴァルトルは広げた右手を翳す。すると、その掌から光の粒子が飛び散った。
その一瞬の後。彼の手には一振りの杖が握られていた。
彼の背丈程の長さであるそれを見たエリィは、「あれは…」と茫然と呟く。
「あれは遠い昔からこのギルドに伝わる魔杖と言われてるものだよ」
「技術者の造る魔道具とは違うね。あれは『神の与えし叡智の欠片』とも言われているんだ」
魔道具とは――エレメントクリスタルを用いて造られた武器や装置のこと。
『響界』に所属しており、この結界発生装置を造ったのも彼等技術者だ。
これは装置に取り付けられたエレメントオーブ(クリスタルを加工したもの)に宿るエレメントを利用し結界を放っている。
「……?」
ロックの説明にリーブが補足したが、エリィは二人の説明が解っているのかいないのか、僅かに首を傾げていた。
そんな彼女にロックが言葉を連ねようとしたその時、ヴァルトルの声がこの一室に轟く。
決して大きな声ではないのに、自然と口を閉じて耳を澄ましてしまうそれは粛然とした儀式のよう。
「…汝、天に仕えし風の御子。定められた契約に従い、我が呼び声に応え賜え。万物に宿る息吹よ、今此処に」
携えた杖に手を当て、ヴァルトルは紡ぎ歌を唄う。
彼の歌に呼応するように杖は緑の光を放ち、眼前に印が浮かび上がる。
印に刻まれた紋様は、かつてロックが見たウンディーネのものより随分と簡単に見えた。
そしてこの印は、以前にも見た事がある。
「――ヴァイス-フィアー二」
光が弾け、霧散していく。
ヴァルトルの呼び声に応えたのは、鳥とも獣ともいえる、翼を持った人ならざるものだった。
ヴァルトルが喚び出したのは、風を司る使い魔と呼ばれるもの。精霊の子とも呼ばれ、精霊よりは魔術師にも喚ぶ事の出来る人間が多い。
それは、精霊がエレメントの意思の総意なのに対し、使い魔は人間の意思に同調したひとつの個体だからだろうか。
風の使い魔フィアーニは、人ひとりなど簡単に覆い隠せる程の羽毛を持つ。その翡翠のような毛色はとても美しく、思わず溜め息が出る程だ。
きゅう、と小動物のような声で鳴き、ヴァルトルに擦りよる。
「おう、おう。いい子だ」
首元を撫でて、「力を貸してくれ」とヴァルトルが言えば嬉しそうに一鳴きした。
「よし、行くぞ」
三人の護衛と共にフィアーニに乗り込み「行ってくるな」とロック達に告げる。
「行ってらっしゃい、養父さん。気を付けてね」
各々が反応を返せば、ヴァルトルは頷きフィアーニに指示。フィアーニは見る見るうちに上昇して行き、あっという間に空高く飛び去って行った。
飛び立つ前にフィアーニを対象に簡易的な隠蔽魔術を施した為、彼等の姿が民間人に目撃される事はない。
ヴァルトル達を見送ったロックは、空を見上げていたリーブに声を掛ける。
「リーブさんは、これから…?」
「僕はヴァルトル様の分まで仕事だよ」
本来ヴァルトルが捌く筈だった書類にも、彼がいなくなった今自分が目を通さなければいけないとリーブ。
「…っと。この言い方は物臭かな? まあ僕の事は気にせずに、ロック君達は好きに過ごすといいよ」
柔和に微笑むリーブに頷き、ロックは元気に返事をする。
「はい。これから朝食までまだ時間があるので、さっきリーブさんに言われた通りエリィを外に連れて行きたいと思います」
言い、エリィを呼ぶ。
未だ空をぼうっと見上げていたエリィは話を聞いていなかったよう。
「…なに?」と首を傾げた。
「まだ朝ご飯まで時間があるから、僕と一緒に街に出よう?」
「…うん。そうする」
こくんと頷いたのを確認したロックは、「それじゃあリーブさん、失礼します」と言い残し、エリィの手を引いて部屋から立ち去ったのだった。
「……」
リーブはロック達の立ち去った方向を、暫くの間、神妙な眼差しで見つめていた。
――早朝の為に、街にはまだ人の気配は多く無い。
ロックはエリィと二人並んで、閑散とした街中を歩く。
「昼間は凄く賑わっているんだよ。いっぱい市場が並んでいてね、他の都市や村から来てる果物とかもいっぱいあって」
「おいしいの?」
「うん、皆おいしいよ。それぞれ村によって味付けが違ったりするものもあるんだけど、それもまた味わい方に別の深みが出るっていうか」
…他愛の無い会話だけれど、エリィが自分の話に質問をしてくるのが嬉しかった。
話に興味を持っていなければ、質問なんて出ない。そしてそれは、彼女自身の心から出た問いなのだから。
――と。唐突にロックは周囲の空気に異物が加わったのを感じた。
何かと思えば、それは匂い。強い酒の匂いを、微かに感じる。
「……おさけ?」
ギルドの食堂で似た匂いを嗅いでいたせいか、エリィも同じ考えに至っていた。
「ギルドの方ですかっ!」
その時、匂いのする方向から人が掛けて来る。
息急き切った様子でやって来たのは小太りの女性。
(確か、酒場のご主人の奥さん…だったかな)
ロックがそう思い出していると、女性は「大変なんです!」と切迫した声を上げた。
その声色に、ロックは否応なしに緊張感が高まる。
――ロックはエリィの手を引き、女性の後について酒場へと急いだ。
女性曰く、昨晩から店で飲んでいた男がずっと居座り、無理矢理追い出しても店の外で酔っ払ったまま寝ていたらしい。
それだけならよくある事なのだが、まだ酔いの冷めない男は店中で暴れ回っているらしい。
「断罪者<ジャッジメント>に突き出すと言っても効かなくて…」
女性は困り果てた様子でそう言っていた。
「いい加減にしてくれ!!」
ロック達がようやく駆けつけた時、酒場は見るも無惨に荒らされていた。
棚に並んでいただろう酒瓶は幾つも割れて、足の踏み場の無い程。
件の酔っ払いの男はカウンターにもたれ掛かり、まだ無事な酒をひとり呷っていた。
「!」
「…あぁ…!」
男を見たロックは、現状に目を見開く。女性は悲痛な声を上げ、口を手で覆った。
――酒場の店主は、男に近付けないでいた。
それは男が、女児を人質に取っていたからだ。
男は女児の小さな身体を抱くように密着させ、
女性の反応から見るに、大粒の涙を瞳に溜めて震えているのは彼女らの娘だろう。
娘を守れずにすまないと零す夫に首を振り、しかし今にも崩れ落ちそうになっている女性の姿は痛々しい。
(…どうすれば…)
ロックは考える。どうにかして女児を救出して、男を確保しなければならない。
今は静かに酒を飲んでいるが、いつまた暴れ出すか分からない。
恰幅のいい男だ。女児の指どころか手を折るくらい造作もないだろう。
しかもこの男。女児と密着している事からも、魔術などで攻撃されないよう対策している。
酔っ払っているというのに、冷静な事だ。
…だとすれば。
ロックは自分の腰に提げたレイピアに視線を送る。
(…でも)
まずは男に近付かなければこれも使えない。距離を詰める前に女児が傷付けられたら元も子もない。
響界の断罪者へ連絡しようにも、連結魔道具は男がもたれ掛かるカウンターの上にある。取りに行くのは無理だ。
思い付く事といえば、ギルドまで戻って助けを呼ぶ事…だが。
そこまで考えた時、持っていた酒瓶を飲み干した様子の男が口を開いた。
「…ってらんねェよ…なあ、嬢ちゃんもそう思うよなぁ……?」
「ひッ、う、うぅ……っ」
女児に肩に回された手に力が込められる。だらしなく伸びきった爪が女児の肩に食い込み、小さな悲鳴が上がった。
「やめて…やめてっ!!」
女性が遂に涙を流して懇願するも、男はその態度にこそ腹が立ったように顔を歪め。
「いいじゃねぇかよ…なぁ…っ!!」
「ぃ…た…!!」
「やめてくれっ、娘にはッ!」
状況が瞬く間に悪化していく。ロックはもう見ていられなかった。
――いちかばちか、やるしかない。
そう思い、一歩を踏み出そうとした時だった。
――目にも止まらぬ早さだった。
騒然としていた場が一転、静まり返る。
酒場の夫妻やロックは勿論、エリィも驚いたように目を見開いていた。
「な…な…っ」
声もまともに出せない男。彼の右頬、女児に触れていない右頬から、一筋の血が流れていた。
男の頬すれすれに放たれたのは、一本のナイフだった。
黒々とした刃が、まっすぐに刺さっている。よほど正確に狙わなければこうはならない。
反射的に、ナイフを放った人間がいるだろう方向を振り返る。
「ダメだぜおっさん。子供に手ぇ出しちゃあ」
――そこにいたのは、一人の青年だった。
首下からふくらはぎまでを隠してしまう程の長い外套に身を包む、若い青年。
隣に女性を連れているその青年は、恐らく年齢ならリーブとほとんど変わらないだろう。
その若さと、何より浮かべている人懐っこい笑顔は、精巧な技術を持ってナイフを投げた行為とは容易には繋がらない。
しかし青年の言葉は間違いなく、ナイフを投げたのが彼である事を示していた。
「は…な…なんだってんだ…てめぇ」
酷く青ざめた男は渇ききった声で呻く。ごくごく普通に歩み寄って来る青年に、恐れを成しているように。
「はい、じゃーあその子離してね」
刺さっていたナイフを抜く、茫然としている男の手から女児を解放しようとする。
「――…く、クソッ、なめてんじゃ…ッ!!」
しかし無謀と言うべきか。自ら感じた恐れを自らが否定したかったのか。
男は青年に一矢報いようと手を伸ばす。ナイフを持っている青年の手を弾いて、殴りかかろうと――。
…結果は、やはり青年の方が早かった。
男が左手のナイフを弾くより先に、男をカウンターに張りつけるように再び頬を裂く。血が跳ねた。
そしてそれと同時に、いつの間にか右手にもナイフを手にしていた青年は、今度は男の頭すれすれにナイフを突き刺した。
切られた男の髪が何束か床に散らばる。
「ひ…あ…あ…」
茫然としている男に、青年は顔を近付け、何事かを告げた。
その言葉を聞いた途端、男は力を失い、沈む。
白目を剥いて…気を、失ったようだった。
再び静寂が訪れる。
それを破ったのは、酒場の主人だった。
「え…エミリアっ!」
それを皮切りに、女性も娘の名を叫び、駆け寄る。
「お…おとうさん! おかあさぁああん…ッ!!」
娘はよろよろと覚束ない足取りで、しかし青年を避けるように両親の元へ向かった。
「……」
青年はナイフを抜き、僅かに血の付いた方を軽く振ってから外套の中へ仕舞った。
「ありがとうございます。貴方のお陰で娘が助かりました」
「本当にありがとうございます…! ほら、エミリア」
夫妻は青年に涙ながらに礼を告げ、娘にも言葉を促す。
…が、娘は嫌だとばかりに首を勢い良くぶんぶんと振り、決して青年の方を見ようとはしなかった。
「すみません。娘も混乱していて…」
「いーえ、いいですよ。オレ、子供には嫌われる方ですから」
にこにこと笑う青年は、夫妻にお礼をしたいと言われても表情ひとつ変えずにやんわりと断った。
「それより、このおっさんどーします?」
すっかり伸びている男の服を、ひょいと摘み上げる青年。
その言葉に、すっかり茫然自失していたロックは息を吹き返し、言った。
「そっ、その人は、こちらのギルドへ連行しますっ!」
「本当に、何から何までありがとうございます…」
ロックは青年とともに先の酔っ払いを担いで運ぶ。ロック一人では成人男性を運ぶのは心許なく、エリィや酒場の主人に助けを借りるのはもっての他。
結局青年が快く申し出てくれた事もあり、その好意に甘えさせて貰ったという訳だ。
「いーっていーって。それより、このおっさんギルドに連れてったらどうすんの?」
「響界に連絡を取って、住民名簿から前科があるかどうか調べて貰います。それで前科が無ければ厳重注意、あったら断罪者<ジャッジメント>に引き渡しです」
罪人の裁きはその名の通り断罪者が行う。彼等がどうやって人を裁くのか、それはロックも全く知らない。
響界の、特に断罪者や魔道具技術者には秘密が多いのだ。
(そういえば…)
青年に説明をしながら、ロックはふと思い出す。
――…二年前、響界で大きな事件があった。
それは今以上に響界全体が秘密主義だった頃、代表が失脚する程の事件。
…秘密裏で人体実験を受けていた少女を、一人の魔道具技術者と断罪者が響界から連れ出し、そのまま脱走したのだ。
その少女は元々捨て子で響界に保護された身だったと聞くが、ならば何故、何の為に人体実験など行ったのか。
民間人には隠されたこの事件は、しかしギルドの人間には伝わった。
結果、人体実験に関して黙認していた当時の響界代表がその地位を剥奪される事となり。
そうして事件は一応の収束となったが、響界を脱走し、行方不明になった三名は未だに見つかっていない――…。
「住民名簿の確認は時間が掛かるので…多分、今日一日はこちらに収容になるかと」
ロックが説明を終えると、青年はふうんと納得したように頷き。
「じゃあ、断罪者がここに直接来るわけじゃないんだな」
「はい、そうです」
青年の問いに答えたロックは、今度は問いかける側に立つ。
「あの…えっと」
「ああ、そういえば名前言ってなかったっけ。オレはシディアン・イリィ。こっちはカヤナ・ミナカ。
オレの事はシディとでも何でも、好きに呼んでくれ」
「ちょっと、シディ…!」
勝手に紹介されたからか、カヤナと呼ばれた女性はシディアンを咎めるような声を上げる。
そんな彼女をまあまあ〜と軽い調子で諫めるシディアンは、やはり親しみやすい雰囲気の好青年に見えた。
「僕はロックといいます。この子はエリィ」
自らも名乗り、隣のエリィに視線を送る。
エリィがその意味に気付き、たどたどしく「…よろしく、おねがい…します」と言った所で、ロックは先程から感じていた問いを思い切ってぶつけてみる事にした。
普段引っ込み思案で、初対面の大人にはとてもじゃないが話しかけようとは思わない。
が、青年の話しやすい人当たりの良さのお陰で少しだけ勇気が湧いてきた。
「シディさん達は、この街の人では…無いですよね?」
毎日街に出る訳ではないが、彼等のような人間など見た事が無かった。
そんなロックの問いに、シディアンはああ、と頷き。
「うん。オレ達はあてもない旅をしてる旅人ってところかな」
ロックはその答えに目を見張る。旅人など滅多に見た事が無かったからだ。
「でも、それなら納得です。シディさんのさっきの動き、僕は全然目が追いつきませんでしたから。
戦い慣れているんですね」
世界中を渡り歩くとなると、結界の外で魔物に出くわす可能性も勿論あるだろう。それを考えれば、旅人には戦闘能力が必須。
先程の男を相手にした際のシディアンの動きはとても常人ではなかった。
感心したロックの言葉に、シディアンは何でもない事のように「ああ、うん」と答え。
「昔っから戦う機会は多かったからねー。慣れてるのは確かだなぁ」
「そうなんですか…」
漠然と、すごいなあと思うロック。
戦い慣れており、また相応の実力を持っている彼の言葉は裏打ちされた自信に満ちているようだったから。
そんな会話をしている内に、ギルドが見えて来た。
「ロックー!」
「あ、シング!」
ギルドの入口から出て来たシングがこちらに手を振る。もう現在地からそこまでは目と鼻の先だった。
ロックは足を止める。自然と他の三人も足を止め、ロックに注目した。
「ありがとうございます。シディさん、カヤナさん。もうここまで来れば大丈夫です」
「そうか、それじゃあオレ達は行こうか、カヤナ」
「…ええ」
カヤナが頷いたのを確認してから、シディはロックに男を任せる。途端に来た重みに、ロックはうっと頼り無い声を出した。
エリィがやんわり手を伸ばすが、そこは流石にプライドが許さず「大丈夫だよ」と言って見せる。
「その調子なら大丈夫そうだな」
シディアンはやせ我慢するロックにそう笑いかけてから。
「んじゃあ、これで失礼するよ。またどこかで会おうな」
「はい…っ、ありがとう、ございます…ぅっ!」
「…ありがとう、ございます」
歯を食いしばって耐える苦しげなロックと、彼に倣って礼を言うエリィに軽く手を振って、シディはカヤナと共にその場を去って行った。
「…シディ」
「ん? なーに、カヤナ」
ロック達の姿が完全に見えなくなると、カヤナはずっと閉じていた口をようやく開いた。
「貴方、いくらなんでも過剰に接触し過ぎよ…! 子供を助けるのは賛成だったけれど、その後も関わるのは止めておいた方が良かったと思うわ」
「別にいーじゃん。オレ、お人形ちゃんどころかロックくんの顔も一回も見た事無かったし」
「確かにそうだけれど…わざわざ断罪者の事を聞いたりするのには意味が無いし、それに名前は…」
カヤナの叱咤など全く意に介していない様子のシディアンは、真剣さのない笑顔のまま。
「断罪者については一応、オレがいた頃と変わってないか確かめただけだよ。名前はまぁ、少しは変えたじゃん?」
「――…オブシディアン」
カヤナは静かに、普段は呼ぶ事のない彼の本名を呼ぶ。
…オブシディアン・イリィアース。
それが彼の、本当の名前だ。
「何だよいきなり、ベリさんみたいに」
からからと声を上げて笑う。
その雰囲気から察するに、わざわざ本名を呼んだ意味は言わずともオブシディアンは理解したようだ。
「…ほとんど偽名になってないって?」
が、そう言う彼の表情はやはり曇りひとつない笑顔で。カヤナは小さく溜め息を吐く。
「んな心配しなくてもいーよ。オレの事が向こうさんにバレたらそん時はそん時ってコトで。
それに、あの二人にはいずれまた会うだろうしさ」
「それだけじゃないわ。…貴方、さっきあの男に何て言ったの」
「んー?『死にたくなかったら、大人しくしといた方がいーよ』って言っただけー。
まぁエミリアだっけ? あの子も怖がらせちゃったけど仕方ないよなー」
カヤナの問いにも、なんだそんな事かと言いたげに、ごくごく普通の調子で返すオブシディアン。
「……」
カヤナはそんな彼を、まだ何か言い足りない様子で暫く見つめていたが、やがて「…そう」と言葉を紡ぐ。
その会話は、それっきり幕を閉じた。
先程の騒動など無かったように静まり返る街中を歩く二人。
住宅街を抜けひとつ角を曲がった所で、ふと立ち止まる。
…どうやら、商店が建ち並ぶ区画に出たらしい。
まだ店は準備中である為に閑散としているが、その数から昼間は賑わいを見せるのだろう。
現に、カヤナは昼間は老若男女関係なく人が沢山いるとオブシディアンに教えた。
オブシディアンはふうんと相槌を打ち、暫し何か考える素振りを見せる。
そんな彼に疑問を持ったカヤナが「どうしたの」と問えば。
「いやあ、ロウラやベリさんにお土産でも買っていこうかと思って」
「は?」
「あの二人はあんま外に出れないじゃん? だからさ」
突然のオブシディアンの言葉にカヤナは間の抜けた声を出す。当たり前だ。
たった今さっき、人との過剰接触を注意したばかりなのだから。
そりゃあさっき指摘したのは相手が彼女等だったからというのが大きいが、ある種の有名人である彼がそんなに露出していいものなのか。
…けれど。
カヤナは置いて来た弟や友人を思う。
確かにオブシディアンの言う通り、あの二人はそうそう外に出れない立場だ。
弟は単純に、自分達が行っている事は危険だから。それに巻き込まないように安全を考えて。
友人はオブシディアン以上に外に露出するのは危険だからと、やはり安全の為。
二人はこのかた数年間、外界から隔離されたような生活を送っている。
今のように自分達が出払っている時なんて完全に二人きりだ。まだ年端のいかない弟は特に寂しい思いをしているだろう。
友人だって、自分達の身をかなり心配してくれているのはよく知っている。帰りを待っている間は毎回祈るような気持ちだとも聞いた事があるのだ。
――…それを思えば…。
「…そうね。お土産…いいかもしれないわね」
「だろー?」
ロウラの姉として、ベリルの友人として。
良い提案をしてくれたオブシディアンにカヤナは感謝した。
彼女に笑いかけるオブシディアンの笑顔は、やはり今までと全く変わらない。曇りの無い、笑顔だった。