バレンタインエピソード(特別編)
分かっているのだけれど、やっぱり期待してしまう…。たかがバレンタイン。されどバレンタイン。
良介は人見知りが激しくて、学校でも人と話をするのが苦手。まして女の子となんてまともに顔を見ることさえできない。
そんな良介が密かに心を寄せているのがクラスでもとびっきりの美人、神村律子。
彼女には学校中で公認の彼氏がいる。学級委員でサッカー部のエース、井川浩二だ。バレンタインには律子が浩二にチョコをあげる。誰もがそう思っている。
「今年は誰がいちばんになるかな?」
毎年、男子の中で話題になるのはバレンタインに誰がいちばんたくさんチョコを貰うのか…。ということだ。
「どうせ井川だろう」
「あいつには神村が居るから、他の女子は敬遠するんじゃないのか?」
「だけど、毎年トップじゃないか」
「そうだよなぁ…。あーあ、うちのクラスの女どもはミーハーばかりだな」
全くその通りで、井川以外の男子が誰かにチョコを貰ったところを見ることなどほとんどない。それなのに毎年話題になるのは、誰もが密かに期待をしているからなのだろう。
「律子はいいよね」
親友の沢木香穂里が言う。
「なんのこと?」
「井川君みたいな素敵な彼が居て」
「素敵って、浩二が?」
「あら?クラスの女の子はみんな井川君のファンだよ」
「そうなの?あんなチャラチャラしたヤツのどこがいいのかしら」
「えっ?どういうこと?だって毎年チョコあげてるじゃない」
「あんなの義理よ。幼馴染の腐れ縁だからお情けであげてるの。そんなこともわからずにあいつったら人を彼女みたいに振れ回って、いい迷惑だわ」
「それ、初耳!じゃあ、わたしアタックしてもいいかな?」
「どうぞご自由に」
律子と浩二は二人が生まれる前から父親同士が親友で家も隣だった。いつも一緒に居たから必然的に仲良くなったのだけれど、異性として意識したことは一度もない。少なくとも律子の方は。
「お前さあ、神村が居るんだから、他の女子は俺たちに回してくれよ」
部活の帰りにそう言ったのはサッカー部で同じクラスの名取雅博。
「何言ってるんだよ。そんなの俺に頼むことじゃないだろう?第一、物じゃないんだから、女の子たちに失礼だろう」
そう言われたら、元も子もないけれど、他にどうしろというのだ。
「やっぱり、待ってるだけじゃだめだよね。自分の気持ちはちゃんと伝えなくちゃ…」
井川と名取は一瞬立ち止まった。滅多に口を利かない良介がいきなり喋ったからだ。二人の様子に気が付いた良介は口をつぐんだ。
「日下部、お前、誰か好きな人が居るのか?」
名取は好奇な目を向けた。
「誰だよ?協力するぜ」
井川も興味をそそられたようで良介に言い寄ってきた。
「…さん」
良介はボソッと呟く。
「えっ?誰だって?」
良介の声が小さくて聞き取れなかったので、井川と名取は聞き返した。
「神村さん…」
言い終えて良介は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「お前、バカか?神村は井川の彼女だぞ!井川に喧嘩でも売る気かよ」
名取にそう言われて良介は益々萎縮した。ところが井川は良介に手を差し伸べた。どうやら握手を求めているようだ。
「日下部、俺たちはライバルだな。正々堂々と勝負しようじゃないか」
「おい、井川、お前本気で言ってるのか?勝負になるわけないだろう」
「まあ、それもそうか。とりあえず適当に頑張ってくれよ」
井川はそう言うと、名取と二人で笑いながら良介を置いて行った。
「じゃあ、律子は好きな人とか居ないの?」
香穂里が聞くと律子は意外な名前を口にした。
「えっ?マジ?どこがいいの?」
「浩二なんかより、よっぽど男らしいと思うけど」
「そうかしら…。じゃあ、今年は彼にチョコをあげるの?」
「どうしようかな…」
「でも、そういう事なら、井川君にはもうあげないんだよね?」
「そうね…」
「うわっ!今年のバレンタインは荒れそうね」
「香穂里ったら、何を言ってるの」
「気にしない。気にしない」
良介はその日、家に帰ると机に向かった。ノートを広げてペンを取った。律子宛てのラブレターを書き始めた。実際にはラブレターなんて洒落たものではないのかもしれない。ただ、自分の気持ちを書き綴った。いまどきラブレターなんて書く人間はいない。たいていはケータイかメールで伝えるのだから。けれど、良介は律子の携帯番号も知らなければメールアドレスも知らない。まして、人見知りの激しい良介が直接口で伝えることなどできるはずもない。良介にしてみれば、これが最善の方法だったのだ。
バレンタイン当日。
朝から井川の周りには、チョコを渡そうとする女子が群がっていた。授業を終えて部活が始まると、おりを見てチョコを渡そうとする女子がグランドの周りに溢れている。
「PKの練習でもやろうか」
井川が言い出した。ファンサービスのつもりらしい。そして、ゴールに立たせたのはキーパーの良介だった。
1本目。ゴール右隅に弾丸シュートが決まった。練習を見に来ていた女子から歓声が上がる。良介も反応していたのだけれど、わずかに届かなかった。井川は手を振って女子たちの声援に応えている。
2本目。良介は井川のクセを見極めて左に飛んだ。井川のシュートは良介の予想通り飛んできた。今度は良介がセーブした。そして女子たちの悲鳴が上がる。井川は「愛嬌、愛敬」と余裕を見せている。
3本目、4本目。共に良介が井川のシュートをはじき返す。井川の表情が変わった。
5本目。井川のシュートは大きくゴールを外した。井川は良介を睨みつけたが、すぐに女子の方に笑顔を振りまいた。
「たまにはこんなこともあるさ」
部活が終わると、井川の周りには見学に来ていた女子たちが集まってきた。それを見ながら名取が良介の肩に手を置いて言った。
「ナイスセーブ。でも、どうあがいても勝負にはならないな。ほら、見ろ」
名取がそう言って指した方を見ると、律子が井川の方に歩いてくるところだった。だけど、そんなことは良介も予想していたことだ。良介は気にせず、自分のバックが置いてある部室に行こうとした。ラブレターを取りに行こうと。その瞬間、井川の脇を通り過ぎて歩いてくる律子の姿が目に入った。律子はまっすぐに良介の方に向かってきているように見えた。
まさか、そんなはずはない。良介はそのまま部室の方へ歩き出した。すると、律子も方向を変えて良介に近づいてくる。そして、良介の前で立ち止まった。
「さっきのセーブ、かっこよかったよ」
律子はそう言って手に持っていた紙袋を差し出した。それがなんなのか良介にもすぐに察しがついた。
「僕に?」
律子はにっこり笑って頷いた。
「ありがとう…。実は僕も渡したいものがあるんだ。ちょっと待ってて」
そう言って良介が立ち去ろうとすると、律子は良介の腕を掴んだ。
「私を置いて行かないで」
「分かった」
良介は律子の手を取って一緒に歩き出した。
その様子を見ていた周りの連中は一瞬、何が起こったのか理解できないといった様子だった。中でも、井川は茫然とその場に立ちすくんでいた。そして、すぐに騒がしくなった。
「ねえ、どういうこと?律子が日下部君にチョコをあげたよ」
「マジかよ!信じられねえ」
そんな会話があちこちで囁かれている。
「なんだか、超感動したよ。ねっ!井川君」
香穂里はそう言うと、どさくさに紛れて井川の腕にしがみついた。放心状態で言葉も発することが出来ない井川に香穂里は満面の笑みを浮かべてチョコを渡した。そして、更にこう言った。
「律子のことは残念だったわね。でも、これからは私が彼女になってあげるね」
良介はバッグからラブレターを取り出し、律子に渡した。
「なにかな?」
律子は渡されたノートの切れ端に書かれた文字を読み始めた。読み終えると爆笑した。
「これって、ラブレターのつもり?超ウケる!ノートの切れ端だし」
良介は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「でも、素敵。飾り気はないけれど、日下部君の気持ちはよくわかったよ。今までで一番うれしいかも」
律子はそう言うと、その切れ端を制服のポケットにしまった。
「ねえ、一緒に帰りましょう」
良介と律子はまだざわついているグランドを横切って校門の方へ歩いて行った。背後から二人への声援が降りかかる。
「この幸せ者」
「いいぞ!日下部」
「素敵!神村さん最高」
そんな声を耳にしながら、二人はどちらからともなく手を繋いだ。
二人を照らす夕日は一足早い春の温もりを運んで来た。