情報屋×死神:7月10日.壱
ぼくが日本に来て三日目、新しく住み始めたマンション(マンションと呼ぶといささか詐欺めいた感覚が浮かぶほど古い)、コーポ御茶ノ水に到着してから二日目の朝がきた。
新しい居場所を見つけ、心機一転。これからの明るくすべき未来と決別すべき過去の区別をなんとなくつけながらぼくはぼんやりと目を覚ました。
この部屋唯一の窓から入ってくる朝日の光がやけに憎たらしい。ぼくはまだカーテンなどの調度を揃えていないので仕方ないのだが、ここまでぼくの瞼を直撃する朝日は生まれてこのかた十九年、お目にかかったことがないほどだ。
「さ、起きるかな……」
呟いて、ぼくはのっそりとゆったりとそしてゆっくりと身体を起こした。
時間を確認しようとして後悔、しかも二度目。調度を買っていないとはいえ時計まで買っていないのは少し失敗だ。
カーテンの買い忘れ程度ならぼくの瞼がダメージを受けるだけで大したことではないのだが、時計が無いというのはさすがに不便だ。ちなみにぼくは現代っ子の必需品である携帯電話を持っていない。もっとも持つ必要がないからなのだが……。
「今日時計買お……壁掛け時計一つと腕時計一つかな」
そう呟いて、ぼくは布団から這い出た。そして寝起きの頭をかき回しながら、軽く背伸びをした。
改めて見るとこの部屋はかなり小さい。この部屋の調度はさっきまで寝ていた布団と、隣の部屋に住む家出女子高生の千夏ちゃんから引っ越し祝いとか何とかで貰ったちゃぶ台。この二つだけ……完璧なまでに空っぽな部屋である。
それでも小さく感じるのだから相当である。
――ドンドン!!
部屋を見回していてちょうどしみの着いた畳に目が止まったところで部屋の扉を叩く音が聞こえた。
ぼくは別に綺麗好きというほどでもないが汚いのは嫌いだ。しみが目立つ畳をわざわざ置いておきたいとはまったくもって思わない。つまり畳を変えたいわけだ。
そんなことに意識を奪われつつも、ひとまず来訪者の出迎えをする。これは人間として当たり前な礼儀の一つだとかなんとか。などと話が飛躍してぼくの頭の中で大きくなりそうだったので無理矢理考えるのを止めておいた。
「さて、誰だろうか」
そう呟きながら、ここに来てまだ二日、ぼくを訪ねてくる人などコーポ御茶ノ水の住人か宗教勧誘の人くらいのものだろうと思う。
そんなことを頭の片隅で考えながら扉を開けると、そこには一人の女性がいた。
ぼくは昨日の内に嫌々ながらもコーポ御茶ノ水の住人に挨拶に行っておいたのだが……今目の前にいる女性には見覚えがなかった。
コーポ御茶ノ水は一フロア三部屋×二階建ての計六部屋だ。
その中の五部屋が埋まっていて、ぼくの部屋は二階の真ん中になっている。
右隣には家出中女子高生の東千夏<<あずま ちか>>ちゃん。彼女の顔は挨拶をした時に見たので覚えている。
左隣の自称天才彫刻家のお姉さんについては……名前は忘れたが顔は見て覚えている。
自称天才彫刻家のお姉さんの下の部屋には自称借金取りに追われる……じゃなくて借金取りを追っているお兄さん。彼も名前は忘れたが顔は覚えている。
あと一人、管理人さんがいるみたいだがこの時は留守だったから顔も知らない。
ここまで思い出して目の前の彼女が管理人かという答えに行き着いた。
それにしても訪ねてきたわりに話し始める気配がみじんも感じられないのが妙に気味が悪い。
ぼくと冷戦でもやりにきたのかよ。と考えてみる。
しかしまぁ、もしかしたら管理人かもしれないのだ、冷戦を起こして新しい居場所を自ら居心地の悪い場所にしたいはずがない。仕方なくぼくは白旗を上げ、話しかけることにした。
「もしかして……管理人さんですか?」
首が縦に振られた。
「そうでしたか、わざわざご苦労さまです」
「…………」
「……ところで何の用です?」
「…………」
「…………」
この人は口がきけないのだろうか。そんな事を本気で考えながら、どうしたものか候補を上げてみた。
まず本当に口がきけないか確認する。まぁ普通はこうするだろう。でもぼくはこれをしない。人間なら誰しも触れられたくない心の傷というものがある……これはぼく自身が一番わかっていることだ。だから聞かない。
となると二つ目の案を採用することになる……つまりは文字による会話ということだ。
まぁ三つ目の案もあるにはあるが、常識人ならやらないと思う。普通扉の前にいる人を無視して扉を閉めるなんてしないだろう?つまりはそういうことだ。
というか、そもそもぼくには常識人と言われる人の定義がわからない。
常識とは何だろう。何事においても秀でないことか、周りの人々に合わせることか……ぼくにはいまいちわからないが、天才というものは嫌われる。異質、異常、異才、異端、異形、異業は嫌われる。これは間違っちゃいないと思う。
っと、また思考がとんでいたみたいだ。
ひとまずぼくがやるべきは……そうだな、零距離文通とでも言うべきか。自分で言うのもなんだけど言いえて妙だ、うん。
とにかく、さいわいにも彼女は耳が使えないわけではないみたいだ。
「ちょっと待っててくれますか?」
と言ってぼくは部屋の中へ戻り、のろのろと部屋の隅に置いてあったかばんのもとへ行った。
引っ越しの際の荷物はこのかばんだけだ。ちなみに重量は十キロにも及ばないだろう。
そのかばんの中から大学で使うために買っておいた新品の鉛筆2B一本とノートを一冊を取り出し彼女のところへ戻る。
簡単な零距離文通をした結果、彼女(音無響さんというらしい)が言いたいのは家賃を払えとのことらしい。
そういえば家賃はいくらだったか……覚えがない以前に聞いたことも見たこともないことに気付いた。
「家賃っていくらですか?」
とぼくは聞き、会話をはかってみた。『二万』
うん、すごく簡潔で好感がもてる。ただ、最後には『です』か何かをつけてほしかったかな。
どうでもいいことを考えながら財布を取りに部屋の中へ戻る。
ぼくが過去に稼いだ金額を考えれば家賃の月二万程度はした金にすぎないのだ。それどころかぼく一人の人生くらいなら遊んで過ごせるだけの貯蓄はあるるはずだ……たぶん。
それに今の仕事もうまい具合に役立つしね。
そんなわけで財布から二万円を払うと、音無さんは逃げていくかのように颯爽と姿を消してしまった。
「ふう、人付き合いは苦手なのにな……ましてやあんなに変な人が相手だとどうしようもないね」
音無さんが去った方向を見ながらぼくは呟いた。
「しまった……時間を聞いておけばよかった」
後悔したが過ぎたことはどうしようもない。当たり前のことだ。なんというか世界の真理を無理矢理再確認させられている感覚になってしまった。
「まぁくよくよしてもしょうがない」
別にくよくよしているわけではないが他に言葉が見つからなかったから仕方なくこう呟いた。
さて、小さな嵐が去るとこれからどうしようか迷ってしまった。何をするか候補は何通りもあるが不器用なぼくには何か一つをこなすだけで手一杯、二つの動作を同時に行うなど言語道断だ。
もう一度寝る。
さっきの嵐で目が覚めて眠れそうにないので却下。
朝食を食べる。
朝食は食べない体質というか習慣なので却下。
大学へ行く。
ぼくが通い始めたのは『私立桶狭間国際大学』という大学。ぼくとしてはどこでもよかったのだが住む場所に合わせ、更に帰国子女だということを考えた結果愛知県の一宮市という土地に落ち着いたわけだが……なんとなく行く気がしないので却下。
本を読む。
最近夏目漱石の『坊っちゃん』を読んでいるのだが、もうすぐ読み終えてしまう。なんとなくだが今読み終えてしまうのが勿体無いので却下。
ぼーとして過ごす。
うん、悪くない。何もしないで過ごす時間を持つのはいいことだ。しかしぼーとして過ごした結果、また時計を買い忘れ後悔するはめになりそうなので却下。
時計を買いに行く。
まあ、これが妥当だ。これに決まることは考え始めた時にはすでに決まりきっていたのだろうと思う。
とにかく、そうと決まれば行動に移すべきだとぼくは知っているのだ。
今までのぼくは失敗に恐れ、畏れ、怖れ、恐怖し、畏怖し、怖がってきた。そしてそれらがさらに新しい失敗を呼び寄せ、引き寄せ、生んできた。そう、まさに最悪で最低で最恐な悪循環だ。
また失敗を繰り返せば、ぼくはどうしようもない人間なのだと思いしらされるだろう。
いや、すでに思いしったあとなのだが……それでも、もう失敗はしたくない………。
「よし、自己嫌悪終了」
ぼくは呟き、買い物に行く準備を始める。
「引っ越してきたばかりで何があるか知らないんだよな……どこ行こうか。っていうか……」
準備を終え、玄関を出たところで気付いた。
「……歩きか」
まあ、ぼくは歩くのが嫌いなわけではないのだが、目的地もなく――いや、目的地はあるか。場所がわからないだけだ。とにかく徒歩は正直辛いものがあると思う。
とは言ったものの、他に交通の手段がないのだから仕方ない。
今さら徒歩だからどうしたというのだ。気にしないことにしてぼくは街へ歩き出す。
「こんな近くにコンビニがあったのか」
アパートを出てすぐにあるコンビニが目についた。
それにしてもコンビニの二十四時間営業というのは改めて考えたらすごいと、どうでもいいことに関心しながら今度来ることにしてまた歩き始める。
次にぼくの目を引いたのは百円ショップ。正直コンビニよりは財布に優しいと思う。
ふと、百円ショップにも時計くらい売ってるんじゃないかと思ったが、やっぱりやめる。百円ショップの時計なんていつ壊れるかわかったものじゃない。使えない使うものほど酷く、醜く、憎く感じる物はないだろう。
ちょっと大袈裟すぎだったかもしれないと思いながらも、やっぱり百円ショップの時計は買う気にならないのだ。
時計か……正直なんでもいいんだけどな。まあ、壊れにくいというのが前提の話だけどね。
アパートを出発してからずっと直線に歩いてきたぼくだが、なかなかに大きな道に出たとき何かしら勘のような、左右どちらか――それ以外に選択肢はないのだが――に曲がるべきだという使命感のようなものを感じた。
「まっすぐ行くと危険ってことかな?」
立ち止まり誰に言うでもなく呟く。
都会とは言い難いが人がいないわけではないこの土地でいきなり斬りかかられるなんてことはないと思うが、何があるかなんてわかったものじゃない。
「ふむ、どっちへ行ったものか」
たしか、分かれ道は左に行くべきだとか聞いたことがあるよな。
となると、右に行くしかないだろう。幽霊とか迷信とか、ぼくは信じない主義だし。
そんなわけで右に曲がって歩き始めたぼくは、しばらくして右手に改装したのか改築したのか新築にしたのか増築したのか、ぼくには区別がつかないがとても綺麗な総合病院を見つけた。
「でか……っていうかかなり綺麗な病院だな。ぼくも入院するならこのくらい綺麗な病院に入院したいもんだ」
まあ、入院しないにこしたことはないのだけど……。
そう考えながらもどうでもいいことを呟いた。
――と、そのとき。
ぼくの背中を――絶対零度の、冷たさが。
突き抜けた。
頭部を杭で打ち付けられたような、冷たさ。
冷たいとゆうより、熱い。
そして、痛い。
脳内で危険信号が休みなく鳴り響いている。
「…………」
ぼくは振り向けなかった。
振り向いたとたんに死が訪れる。そんな確実な予感がしたからだ。
ぼくの正面や横ではナース服の女性やいかにも顔色の悪そうな老人などが歩いている。当たり前だけどもナース服はコスプレではあるまい。もしコスプレだというならなんて素晴らしい街だ。一宮市。まあそんなわけないよなぁ、などといい加減に街を理解しつつ、ぼくは病院の前を離れ、再び歩き出した。
視線。
視線。
視線。
今まで表面に出していなかったのが不思議に思えるほどの視線。
意識しなくとも意識してしまう視線。
正直、つらい。
もはやこれは、視線などではない。
これは――殺意。
絶対的なまでの殺意。
ぼくを殺す。と、言わずともわかってしまうほどの殺意。
予言のよう。
完璧に完膚なきまでに完全にぼくを殺す、と。
まるでそう告げられているみたいだ。
「…………」
何も言わずにぼくは歩く。
殺意は着いてくる。
止まる。
殺意も止まる。
歩く。
殺意は着いてくる。
「……まいったなあ」
露骨なまでに殺気を放ってやがる。
おそらくだが、向こうのやつはぼくが気付いたことに気付いているだろうそれで殺気を隠す必要がなくなったのか、それとも最初から隠してなくてぼくが鈍くて気付かなかっただけか……いや、そんなことはどっちでもいい。
とりあえずこいつの狙いはぼくのようだし、人通りが多い道は巻き込む可能性があるから遠慮しておいたほうが……ちょっと待てよ?
「なんでぼくが狙われてるんだ?」
ぼくがあれだって知っているのだろうか?いや、そんなはずはない。
ぼくがそんな雪の中に足跡を残すような馬鹿なまねするはずがない。しかし、万が一ということもありえるか?
――わからない。
――わからない。
――わからない。
――怖い。
今までたくさんの仕事をこなしてきたけど、ほとんど……いや、全ての依頼人はぼくを快く思っていないだろう。
それほどにぼくの立ち位置は不安定なのだ。
ぼくの正体がバレることはなんとしても防ぎたい。必ず殺し屋などの裏の人間がぼくに送られるはずだから。
ぼくの能力は偏ってはいけない。中立の立場でないとダメなのだ。この世の物語に関与してはだめだ。
そうしないと、この世のバランスが崩れてしまう。
バレないと思っていたのに、バレたかもしれない。ただそれだけなのに。怖い。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。わかっているはずだ。
ひとまず打開策を練らなければならない。
こいつはあきらかに殺し屋レベルの殺気だ。有名な殺し屋といったら……明血<<あけち>>か?戦美<<いくさび>>か?打首<<うちくび>>か?柄刺<<えざし>>か?落斬<<おとぎり>>か?
五死屋と呼ばれる殺し屋一族。正直一番関わりあいになりたくない集団だ。
そんなのを相手に打開策もあったものじゃないのだが何もしないよりはマシだ。
とりあえず密集地帯は避けたいところだ。別に他人なんかどうでもいいのだが人が多い場所というのはいざというときに不便というものだ。
「いざってことなく終らせたいとこだよなあ」
ため息と一緒に愚痴をこぼしてしまう。
しばらくつけられながら歩くと右側に廃れた公園を見つけた。しかも運がいいことに人はいないみたいだ。
まったく、こんな公園を作ったりしてるから財政難に陥るというのに……まぁ、都合がいいことには変わりないんだけどね。
公園に向かいながら一宮市の財政について少し考えてみた。
「さて、いよいよご対面かな?」
そう呟いてぼくは公園の真ん中へ歩みを進めながら後ろにヤツがいることを止むことのない殺気で感知する。今は入口あたりみたいだ。
だいたい真ん中へ着いた途端にぼくは入口の方へ勢いよく振り向いた。
――その瞬間に。
消えた。
――その刹那に。
消えた。
――その一瞬に。
消えた。
「…………」
瞬きする間もなく、消えたことを感知するよりも速く、銃弾なんかよりも遥かに速く、ヤツは動いたのだろう。
ヤツは振り向いたぼくの真後ろでぼくに対して大鎌を構えていた。
「よぉ、俺は一全死季<<いちぜん しき>>ってんだけど……あんた何者だい?」