監査する男
小銭を自動販売機に入れていつものボタンを押すと、ガキョンと紅茶の缶が落ちてきた。
有折は缶を取り出すと、喫煙所に据えられた椅子に座る。
缶を両手で持って一口含むと、強い甘味とミルクに混ざった茶葉の香りが口いっぱいに広がる。
「ん~、美味い」
有折は喫煙者ではないし、彼女の所属する転生課はこの階ではない。
だが好みの紅茶を売っている自動販売機がここにしかないので、わざわざ違う階の喫煙所にまで足を運んでいるのだ。
幸い今は誰も喫煙所にはいないので、煙草の煙でせっかくの紅茶の味が台無しになる事はない。有折は小さな幸運を噛み締めながら、ささやかなティータイムを満喫していた。
普段は凛々しい顔を、今は甘味にほころばせながら、ちびちびと紅茶を飲んでいると、阿多羅がふらふらとやってきた。
相変わらず笑っているような顔だが、今日はどことなく影がある。いや、よくよく見れば若干眉が下がって、困っているようにも疲れているようにも見える。いつもの笑顔とはまた違う顔――いわゆるレア顔である。
初めてこんな彼を見る有折は、不謹慎とは思いつつ少し新鮮な気分になった。
阿多羅は有折にも気づかず、覚束ない足取りで自販機の前に立つ。有折と同じ紅茶を買うと、小さなため息をついた。
「珍しいな、君がため息なんて。何か困った事でもあったのか?」
有折が声をかけると、阿多羅は初めてそこに人が居る事に気づいたような顔で振り向いた。
「……ああ、有折さん。居たんですか」
「居たのかって、私は最初からここに居たぞ。ずいぶん滅入っていたようだが、どうしたんだ?」
また現着に遅れて不死川に大目玉でも食らったのだろうか。だとしても、それくらいで凹むような男ではない。始末書を書くのが仕事のような男が憂鬱になるとは、いったいどういう事情なのか。
「はあ……実はですね……」
阿多羅は有折の隣の椅子に座ると、事情を話し始めた。
「監査? 誘導課に監査が入ったのか?」
「いえ、そうではなくて、私に監査官が着いたんですよ」
「はあ?」
有折は思わず素っ頓狂な声を上げる。企業や部署に監査が入るのはよく聞く話だが、個人に対して監査がつくというのは初耳だ。それに有折が転生課に配属されてから、どこかの部署に監査が入った事など一度もない。
「どうして監査なんかが……。君はいったい何をやらかしたんだ?」
「はあ、それを説明するにはちょっと時間がかかりますね……」
プルタブを起こし、阿多羅は紅茶を一口啜る。
「さて、何から話せば良いのやら――」
「残念ながら、そんな時間はない」
冷たい声が阿多羅の話を遮った。
二人が顔を上げると、いつの間に目の前に男が立っていた。
「まったく、ちょっと目を離すとこれだ。貴様は幼児か? それとも、犬みたいに首に縄をかけられないとじっとできんのか?」
「逃げるだなんて人聞きの悪い。ちょっとお茶をしに来ただけですよ」
「だったらわざわざ別の階に行かなくても、自販機なら下の階にもあるだろう」
「いやあ、いつも飲んでる紅茶はこの階にしかないんですよ。それより、流さんもどうですか? 仕事の前のティータイムというのも、なかなか乙なものですよ」
「結構。それにもう現場に向かう時間だ」
男が自分の腕時計を示す。神経質そうな顔に似つかわしい、常に正確な時刻を表していそうな物々しい時計だった。
「あれ? そうでしたっけ? 私の時計では、まだまだ時間がありますけどねえ」
不思議そうに自分の時計を見る阿多羅だが、時計の針は明らかに一時間は遅れている。
「朝時間を合わせたばかりだろ。こんな短時間で狂うなんて、どれだけボロい時計なんだ? 持ち主ができ損ないなら、時計もでき損ないだな」
「貰い物ですが、良い時計なんですけどねえ……。今度修理に出しますか」
阿多羅は寂しそうに、ボロと蔑まれた時計を見る。
だが有折は知っている。彼は死んだ人間に自分の死を受け入れる時間を与えるために、わざと時計を遅らせて現着時間をずらしているのだ。もっとも時計の遅れを言い訳にしても、彼の上司である不死川はとっくにそれを見抜いており、あえて知らぬふりをしているだけなのだが。
「とにかく現場に行くぞ。さっさと立って、きびきび歩け。時間や約束は、守るためにあるんだ」
乱れてもいない髪を手ぐしで直し、男は黒いスーツの襟元を正す。
「阿多羅、これが例の――?」
「ええ、特務部監査課の流左京さんです……」
「特務部監査課? 聞いた事がないな」
「ま、名前の通り特殊な部署ですから」
ひそひそと話しているのが聞こえたのか、男――流はようやく有折に視線を向けた。
目が合った瞬間、社交辞令で「どうも」と会釈をしようとした有折だったが、背筋に走った悪寒がそれを止めた。
流の視線は、冷たいなどというものではない。
何も無いのだ。
有折に対して興味も関心も、警戒も友愛も何も無い。ただそこにある物体、としか認識していない。そんな目だった。
「時間が無い。行くぞ」
一瞥。まさに一瞬目に留めただけで、流は有折から視線を外した。
無視ではない。見て、確認し、認識してなお、彼は有折を一人の人間として捉えなかったのだ。まるで地面に転がる石ころのように、気にしなかった。
ここまで露骨に無関心を決め込まれると、さすがの有折も黙ってはいられなかった。それに、たとえ監査官だろうと人を見下した態度が気に入らない。先ほどまで血の気が引いていた反動か、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
「はいはい今行きますよ。どっこいしょ……」
疲れた老人のように立ち上がろうとした阿多羅を、有折が腕を掴んで止めた。
「待て。まだ時間になっていないのだろう? もう少し私に付き合え」
「有折さん。でも……」
「構わん。監査だか何だか知らんが、君には君のやり方がある。それを曲げてやる義理などないはずだ。違うか?」
「え、いやあ、でも……」
阿多羅が横目で見ると、流は一秒経つごとに機嫌が悪くなっていく。
「何をしている。早く来い」
「放っておけ。挨拶もできない者など犬以下だ。犬以下は縄で柱にでも繋いで待たせておけば良い」
自分の命令は絶対だと言わんばかりの流の声と、抜き身の刃のように鋭い有折の声。
「えっと…………参ったなあ」
流と有折。二人の板挟みに遭い、困惑する阿多羅。だが標的は徐々に彼から逸れ、お互いを攻撃している。特に有折は明らかに流を挑発していた。
「貴様……何のつもりだ?」
「別に? 私はただ、彼とゆっくり茶を飲みたいだけだ。邪魔しないでもらおう」
「邪魔をしているのは貴様だ。我々はこれから現場に向かわねばならん。仕事を妨害するのはやめてもらおう」
「仕事なら彼がきちんとやる。むしろお前が居た方が、彼の仕事の邪魔になると思うのだが?」
「何ぃ……?」
「本来、監査や査定というものは、普段の仕事ぶりから判断するものだろう。それを見ずに外野が横からあれこれと指図し、あろうことか指揮するとは本末転倒ではないか。お前は彼の何を見ようとしているのだ?」
辛辣な指摘に、流は「ぐ……」と唸る。
「まあまあ、有折さんも流さんも落ち着いて」
いたたまれずに阿多羅が仲裁に入るが、二人は目から火花を散らさん勢いで睨み合っている。一触即発の雰囲気に、阿多羅は眩暈がする。
「阿多羅、この生意気な奴は何者だ?」
「え? ああ、転生課の有折さんですよ。私と同期なのですが、すでに管理職に就いている優秀な方です」
阿多羅の言葉に、流は「フン」と鼻で笑う。その行為がまた有折にはカチンと来た。
「何がおかしい。つくづく失礼な奴だな」
「いや、なに……ちょっと面白い事を思いついてな。阿多羅――」
「はい?」
「今回の監査の結果が悪ければ、お前は転生課に移動だ」
「ええっ!?」
「なに!?」
いきなりの人事に、阿多羅だけでなく有折も驚きの声を上げる。流は二人の反応を面白がるように、くつくつと嗤う。
「喜べ。新しい部署に行っても、知り合いが居れば安心だろう。それに同期の人間が上司になるのは、お前はすでに一度経験しているしな」
嘲笑するような声に、有折は拳を握り締める。突っかかっていったのは自分なのに、その報復を阿多羅に向けるとは、何と卑劣な男だろう。今すぐにでも殴ってやりたいが、そうすればまた怒りの矛先が阿多羅に向かう事は容易に想像できた。
有折はただ、指の色が紫色になるまで強く拳を握り耐えるしかできない。その歯がゆさがまた悔しかった。
「さて、ずいぶんと時間を浪費してしまった。行くぞ、阿多羅」
「あ、はい……」
最後にせせら笑うような視線を投げかけると、流は颯爽と喫煙室を去っていく。まだ笑っているのか、背中が震えている。思わず持っている缶を投げつけそうになったが、流の背中を追いかけている阿多羅に当たりそうだったのでやめた。
代わりに大声をかける。
「阿多羅、今晩飲みに行こう! いつもの所で待ってるぞ!」
阿多羅は振り向かなかった。だが腕を軽快に振り上げ、ひらひらと有折に向けて振る。 わかりました。ではちょっと行ってきます――そう言っているような気がした。あれだけボロクソに言われてもへこたれない性格は、素直に感心する。だがいくら阿多羅が楽観的とはいえ、相手はあの男だ。阿多羅が何をどうしても、自分の言った事をやり通すだろう。
有折は流の言葉に奇妙なひっかかりと胸騒ぎを感じながら、阿多羅の振った手を見えなくなるまで見送った。
「それで……監査はどうなった?」
いつもの店。バー〝鎮魂歌〟のいつものカウンター席で、有折は阿多羅に今日の監査結果を尋ねた。
「はあ……まあ私としては、いつも通りやろうとしたんですけどね。けどまあ、流さんはあの通りきっちりかっちりした人ですから」
「……そうか」
阿多羅は今日一日で、えらくやつれて見えた。恐らくこれまでにないハードワークだったに違いない。
「初めて一日に二桁の現場に行きましたよ。いつもなら二つか三つくらいなんですけど……やっぱり、ああいうのって慣れませんね」
あの男の事だ。効率やらノルマやらを重視して、死者の魂を右から左に流していったに違いない。有折が――無論阿多羅も最も嫌うやり方だ。主義に反する事を強要され、体だけでなく心まで疲弊しているようでいたたまれない。
「それで、監査の結果はいつだ?」
「流さんは仕事が早いですからね。明日には出るでしょう。そうすれば、私は……」
誘導課から転生課に移動になる。つまり、阿多羅紫紋は死告人ではなくなるという事だ。
これまで数え切れないくらい死者の魂をこの世の未練から断ち切ってきた彼だが、流がちょっと紙切れ一枚、辞令というものを出せばそれも終わる。
「それでいいのか、君は?」
阿多羅は答えない。どのような結果になっても、彼はそれを受け入れるだろう。
「ま、移動になっても上司が有折さんというのが、せめてもの救いですね。何かと面倒をかけると思いますが、同期のよしみって事でご勘弁を」
そう言って阿多羅は、笑いながらグラスの酒を飲み干す。しかしその笑顔はどこか寂しそうだった。
「同期といえば、あの男、何か妙な事を言っていたな。すでに一度経験しているとかどうとか」
「ああ、それですか。有折さん、うちの課長知ってます?」
有折は頷く。誘導課課長の不死川と言えば、ちょっとした有名人だ。
通常、労役として幽世で勤めたとしても、長くて百年ほどで業を清める事ができる。それを不死川は、かれこれ二百年は勤務しているのだ。よほど前世で業を積んだのだろう、どんな事をしでかしたのだろうと、密かに噂になっていた。
「まさか……」
「はい。私、不死川さんとも同期なんです」
有折は息を飲む。
初耳だった。まさか自分と同期の男が、二百年前から勤務している人物と同期だったとは。
「ちょ、ちょっと待て……。辻褄が合わんぞ」
「すいません、ちょっと説明が足りませんでしたね」
目を丸くする有折に苦笑しながら、阿多羅はこれまでの事を説明した。
有折は初めて知った。
阿多羅紫紋が輪廻の輪から外れている事。
そして数え切れないくらいの時間、幽世にいる事。
さらに百年に一度監査を受け、そのたびに部署を転々とさせられていた事を。
すべてを聞いても、にわかに信じられなかった。酒で酔った男の語る与太話だと思いたかったが、彼がそういう事を冗談でも言う男ではないのは、長いつきあいで知っている。
沈黙が流れる。聞こえるのはわずかなBGMと、マスターがグラスを磨く音。そして、氷が解けてグラスに当たる音だけだった。
「隠すつもりはなかったんですけどね……」
申し訳なさそうに阿多羅は言うが、あえて言おうとも思わないのは十分理解できた。言ったところで一笑されるか、相手を混乱させるだけだ。何より自分が今、混乱しているのだから。
「明日で誘導課ともお別れですか……。残念です」
阿多羅はもう決まった事のように言う。有折もきっとそうなるだろうと思った。けれど、流左京が人の魂を右から左に流すように、阿多羅の人事まで流作業にするのは腹が立つ。
有折は、阿多羅ほど死告人として相応しい人物はいないと思っている。それを移動させるなんて、正気の沙汰ではない。
だったら――。
「けど、こればっかりはもうどうしようもありませんよ」
諦めの言葉。
彼は何度、この言葉を吐いてきたのだろう。悔しくはないのか。怒りはないのか。それとも、それすらも湧かないほど繰り返してきたのか。
だが自分は諦めたくない。まだ何かできるはず。いや、まだ自分は何もしていないではないか。やれる事をやり尽くすまでは、決して諦めたくない。
「君は誘導課の、死告人でいたいか?」
有折の問いに阿多羅は「ええ、もちろん」と即答した。
「……そうか」
有折はふっと笑うと、勢い良く椅子から立ち上がった。
「有折さん?」
「私は諦めない」
マスターにここの勘定は自分につけておくように言うと、有折は上着を羽織るのももどかしく歩き出した。
向かうは屍會、転生課のオフィス。
有折は行く。
やれる事をやり尽くすために。
翌朝、誘導課内にて予定調和の判決が下る。
「結論だけ言おう。貴様は今日で誘導課をクビだ」
前置きも挨拶もなく、開口一番に流は阿多羅に移動命令を下した。
「はあ……そりゃどうも」
阿多羅の返事は予想通りというか、すでに決まっている事を改めて言われたような、うんざりした感じだった。すでに机の上は綺麗に片付いており、私物は椅子の下の段ボール箱に入れてある。
「どうした、喜べ。これで明日から晴れて、あの生意気な奴の部下としてコキ使われるんだ。嬉しいだろ?」
嫌味をたっぷり利かせた流の言葉だが、阿多羅は黙々と机の中の私物をダンボールに詰めている。
無視された事にわずかに機嫌を損ねた流だったが、それも阿多羅の防衛手段だと取ればあながち無意味ではない。常に笑ったような顔のこの男が、押し黙ったまま何かをするというのはよほど堪えているのだろう。
「フン、まあいい。さっさと荷物をまとめて、総務に行って手続きをして来い」
「その必要はない!」
「誰だ?」
流が振り向くと、そこには例の生意気な奴が立っていた。
「有折さん?」
有折は小脇に厚い書類を抱え、足音を鳴らしながらやって来る。徹夜でもしたのだろうか、目の下には濃いくまができていた。
「何のつもりかは知らんが、貴様が出てくる幕はない。部外者はお引取り願おうか」
余裕の笑みを投げつける流に、有折は鋭く指を突きつける。
「お引取り願うのはお前の方だ。お前は屍會の何たるかが、まったく解かっていない」
「屍會の何たるか、だと?」
「そうだ。屍會の存在する理由とは何だ?」
「フン、決まっているだろう。屍會とは、死者の魂を円滑に循環させるために存在する。そのために我々が居るのだ」
「ならどうして、有能な死告人を移動させる? それは屍會の真意に反し、魂の循環を滞らせる事になると、どうして気づかない。有能な人材を適所から外すなど、無能のする事だ」
「有能だと……?」
流はちらりと阿多羅を見る。阿多羅は流に盾突く有折の姿に、終始はらはらしどおしだった。
「こいつのどこが有能だ? ノルマはこなせない。現着には遅刻する。一つの魂の説得に無駄な時間をかける。どこをどう見ても、こいつは無能のクズだ」
「フン、だからお前は無能だと言ったんだ」
鼻で笑うと、有折は小脇にしていた厚い紙束を流に投げつけた。
「見ろ」
それは、これまで阿多羅が導いてきた魂の膨大な資料だった。
「……これがどうかしたのか?」
「魂の循環とは、現世から幽世へと導いた死者の魂が、再び現世へと転生するまでを言う。それを見れば、彼が最も効率の良い仕事をしているのは一目瞭然」
「何だと?」
慌てて流は書類をめくる。そしてその膨大なデータを見ていくうちに、信じられない事に気がついた。
「み、未練がほとんど残っていない、だと……?」
「そうだ。彼の担当した魂は、ほとんど現世への未練を絶って幽世へと導かれている。未練とはつまり来世への転生の妨げ。未練が多く残っているほど、その魂は転生への時間が長くかかるのはお前も知っているだろう」
そして――と有折はさらに一枚の紙切れを流へと投げた。
「これが昨日貴様の指導の許で、阿多羅が担当した魂のデータだ。未練がまったく断ち切れていないのがありありと出ている。こんな状態の魂では、転生するのにどれくらいの時間とコストがかかるのやら……。これが貴様の言う効率の良さというのなら、見当違いも甚だしい」
「くっ……!」
「大局を見ずに目先の効率を重視する者など、無能以外の何者でもない。これでもなお、お前が阿多羅を移動させると言うのなら、それ相応の理由とやらがあるのだろう。さあ、今ここでその理由を話し、我々を納得させてみるがいい!」
完全に論破され、流の顔にはもはや余裕など一かけらもなかった。
気がつけば、周囲の他の死告人たちのみならず、誘導課の人間全員がこちらを見ている。もちろん、抗議の視線を投げつけながらだ。
「わ、私は特務部監査課の流だ! 貴様らとは地位も権限も違う。その私が移動だと言ったら、これはもう決まった事だ! 貴様らのような――」
数え切れない非難の視線に耐え切れず、流が醜く喚き散らそうとしたその時、背後から彼の肩を掴んで言葉を止める者がいた。
不死川だ。
「流さん、もういい加減にしましょうや。あんたの負けだ。これ以上ゴタゴタ言うと、恥の上塗りになるだけですぜ」
「なっ……ぐあっ……!」
なおも喚こうとする流だったが、肩が万力のような力で締め上げられる痛みに、それ以上何も言えなくなる。
「ガタガタ喚くなっつってんだろ。これ以上難癖つけて俺の可愛い部下を引っぱってくってんなら、今この場で解体してやってもいいんだぜ?」
耳元で囁かれるドスの利いた声に、苦痛に歪んでいた流の顔が、急速に青ざめる。
不死川は本気だ。この男は本気で自分を解体する。しかもそれを喜んで。そんな声だった。
「で、出た……。地獄の鬼すら泣いて逃げる、鬼泣かせの不死川だ……」
誰かが呻くように呟く。その声に、流の顔がさらに青くなる。
流とて耳にした事があるだろう。
誘導課には鬼が住む――いや、鬼すら泣かせる鬼神が存在する事を。
「解かったかい? 解かったら、もう今日は帰んな。そうすりゃ誰も傷つかないし、誰も悲しまない。すべて丸く収まってハッピーエンドだ。あんたもそれがいいと思うだろ?」
小刻みに震えながら何度も流が頷くと、不死川はそっと肩から手を離した。
「じゃ、話は終わりだ。阿多羅は今後も誘導課で預かる。文句があるなら、それ相応の理由と覚悟を用意してから出直すんだな」
不死川が背中を押すと、流は「ひぃっ……」と情けない声を上げてたたらを踏んだ。
「き、今日のところは見逃してやる。だが次の監査ではこうはいかないからな。この私を侮辱した事を後悔させてやる。覚悟しておけ!」
負け惜しみ以外の何者でもないセリフを吐くと、流は逃げるように誘導課を出て行った。
流の姿が消えると同時に歓声と拍手が沸き起こり、課内は騒然となる。そして怒涛の不死川コールが巻き起こった。
「課長、ありがとうございます」
阿多羅が深々と頭を下げると、不死川は普段の顔に戻って「よせやい」と言った。
「俺は何もしちゃいないよ。むしろ上司だってのに、部下にこれくらいしかしてやれなくて情けねえ限りだ。それより礼を言うなら、あのお嬢ちゃんだろ」
そう言って不死川が顎で示した方向には、今回の一番の功労者――有折はべりが立っていた。
「いい同僚を持ったな」
「ええ、もちろん貴方もですよ。こんな素晴らしい同僚を持って、私は幸せ者です」
緊張が解けて疲労と睡魔が襲ってきたのか、有折は少しふらついている。それを見た不死川は、阿多羅に「行ってやんな」と肩を軽く叩いた。
「はい!」
慌てて阿多羅が駆け寄って椅子を差し出すと、有折は崩れるように腰かけた。
「すまない。気が抜けたら疲れが一気に出てしまった」
「とんでもない。それより、ありがとうございました。有折さんのおかげで、この仕事を続ける事ができます。本当に、何とお礼を言えば良いのやら」
「気にするな。私はただ間違った人事を正しただけだ。それに――」
「それに?」
「君のような部下を持つと、苦労が絶えなさそうだからな」
くすくすと有折が笑うと、「そりゃ違いねえ」と不死川も笑いながらやってきた。
「だが安心するなよ? 今度の監査が百年後だとすると、俺もこの嬢ちゃんもお勤めを終えて居なくなってるかもしれねえからな。今度は独りであの坊やとやり合う事にならねえように、気をつけろ」
「不死川課長。さすがに百年も経てば、流も居なくなるのでは?」
有折の言葉に、不死川は渋い顔で「いや、そうとも言えん」と答える。
「小耳に挟んだんだが、屍會の上層部――幹部クラスの人間は創設以来、一度も代替わりしていないって噂だ。特務課の連中も、権限で言えば幹部クラスだ。もしかしたらそうかもしれねえぞ」
「一度もって……何千年どころの話じゃないでしょ。そんな事が――」
いや、思い当たるフシがある。現に今自分の隣にいる男が、輪廻の輪から外れて何百年も転生せずに幽世に残っているではないか。
「ま、あくまで噂だがな」
せっかくの戦勝ムードが萎んでしまわないように勤めて明るく言うが、有折は不死川の話が気になって仕方なかった。
何より、百年も経てば自分がどうなっているかわからない。もう次は阿多羅を助ける事ができないかもしれない。だがこればかりは、有折にはどうしようもできなかった。
「大丈夫ですよ、有折さん」
深刻な顔をしていた有折に、阿多羅が軽い調子で声をかける。
「今回何とかなったんですから、きっと次も何とかなりますよ」
根拠も何もない、ただただ楽観的な声。
だがこの男が言うと、本当に何とかなりそうな、何とかしそうな気になるから不思議だ。
「……そうだな。百年も先の事を今考えても仕方ない。それより今は、他に考える事があったな」
「おや、何ですかそれは?」
「もちろん、今回の謝礼だ。今度は君にどんな酒を奢ってもらうか考えないと。楽しみだなあ、この貸しはかなり大きいぞ」
満面の笑みを浮かべる有折とは反対に、阿多羅の顔が見る見る雲っていく。
「お、そいつはいいな。当然俺にも謝礼の一つくらいあるんだろ?」
タダ酒の匂いを敏感に嗅ぎつけ、不死川が阿多羅の肩に腕を回す。まるで、逃がさないぞという無言のアピールのようだ。
「あの~、誘導課残留記念ってコトで、割り勘になりません?」
「ならんな」
「ならねーよ」
恐る恐る阿多羅が切り出すが、二人は打ち合わせしたかのようにハモる。
「やれやれ……素敵な同僚を二人も持って、私は本当に幸せ者ですよ……」
困ったような笑顔の端で、阿多羅の目の端から涙がほろりと零れる。
その滴が財布の痛みによるものなのか、それとも厚い友情によるものなのかは、当の本人にしか判らなかった。




