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運のいい子供

「だからよう、俺はこんなボロ車買うの厭だって言ったんだ」

「だってあんたの前の車、後部座席が無かったじゃない。あの車売ったお金で買えて、家族で乗れるような車があれしかなかったんだから、しょうがないでしょ」

「けどよ、せめてエアバッグ付きのを買えなかったのかよ? もしあれがあったら、こんな事にはならなかったかもしれねえのに。ったく、お前はいつも安物買って失敗するよな」

「何よ今さら。そもそも、あんたがちょっと煽られたくらいでキレなきゃ、こんな事にはならなかったんでしょ」

「仕方ねえだろ。走り屋の性ってヤツだよ」

「〝元〟走り屋でしょ。引退して長いんだから、テクが落ちてるのくらい気づきなさいよ。ただでさえあんた、昔っから下手糞だったんだから……」

「へ、下手糞? ふざけんなよテメェ! 俺のテクが落ちたんじゃねえ。車がボロだからコーナー曲がり損ねただけだっつーの。昔の車なら、余裕でちぎってたっつーの」

「はあ………………」

 阿多羅紫紋は長いため息をつく。

 もうかれこれ一時間近く、夜の路上で不毛な口論を眺めているのだ。誰だってため息の一つや二つは出るだろう。


 街灯もまばらな峠の下り坂。

 一台の乗用車が、無残にもカーブを曲がりきれずに壁に激突していた。

 車体は前部がぐしゃぐしゃにひしゃげていて、中に居た人間が無事ではないだろうというのは容易に想像できる。

 それに引き換え後部はほとんど無事で、バックドアガラスに貼られた『赤ちゃんが乗ってます』というステッカーがよく見えるほどだ。

 原型をとどめていない運転席と助手席は血で真っ赤に染まり、これではたとえこの車にエアバッグが装備されていたとしても、無事だったかどうか。

 それ以前に、前部の二人はシートベルトをしていなかった。運転席の男性はせり出したハンドルで胸が潰れ、助手席の女性は頭からフロントガラスに突っ込んで、茶髪だった髪が血糊で赤茶色に固まっている。幸運な点が一つあるとすれば、二人とも即死だった事くらいだろう。

 アスファルトには、ま新しいブレーキ痕だけでなく、先人たちが遺したものが幾重にも刻まれている。

 阿多羅は『注意! 事故多発地帯』という看板を眺めながら、まだ当分終わりそうにない二人の口論をうんざりしながら聞いていた。


「あの~……、そろそろよろしいでしょうか?」

 口論が落ち着いた頃を見計らって阿多羅が声をかけると、二人はようやく彼の存在に気がついてくれた。

「あ? ンだよてめえ? 何ガンつけてんだコラ」

 言い争っているのをずっと見られていた恥ずかしさをごまかすかの如く、男が剣呑な目で睨む。

「わたくし、こういう者でして――」

 阿多羅は睨まれられながらも一向に笑顔を崩さず、てきぱきと二人に名刺を渡した。

「死告人の阿多羅紫紋と申します。お二人のですね、あの世への旅立ちをサポートしに来ました」

 どうせ読めないだろうと、時間の節約を兼ねて自己紹介をする。阿多羅といえど、人を見て判断する事はあるのだ。それに、二人の口論のおかげでかなり時間をロスしている。

 二人はしばしの間、突如現れた死神まがいのサラリーマンに困惑していたが、阿多羅の人懐っこい笑顔と名刺を交互に見ると、ようやく警戒を解いてくれた。

「……で、あんたが俺らに何してくれるって?」

「そうですね、何かこの世に未練などありませんか? もしおありなら、できる限り何とかさせていただきますけど」

「未練ねえ……」

 男と女は同時に首を捻る。

「俺はやっぱ車だなあ。あんなボロじゃねえ、前のヤツよりもっとすげぇやつ。それを乗り回して峠を攻めてみたかったぜ」

「あたしはまずマイホーム。もちろん都内庭付き一戸建て」

「それから高い酒に美味いメシ」

「海外旅行にも行きたかったなあ。そこでブランド物のバッグや化粧品を買い漁るの。高級ホテルに泊まって、エステやマッサージも受けたかったわ」

 出るわ出るわ。

 堰を切ったように溢れる未練という名の物欲に、阿多羅はまたため息をつく。

「はあ…………」

 しかし、いつまで経っても肝心の一言は出なかった。

「いえ、そういうのはちょっと……。それよりですね、まず気にかかる事があるんじゃないかと思うんですが。どうでしょう?」

 ちらりと阿多羅は車を見る。

 車はあれだけ破損しながらも、幸いガソリンに引火する気配はない。

 ここは、あれだけ派手に事故を起こしていながら、未だに救急車が来ないような場所だ。

 恐らくすでに誰かが通報してはいるだろうが、場所が場所だけに時間がかかる。だがもしこんな山道で火災が発生したら、消防車が駆けつける前にどれだけ被害が出るか分かったものではない。

 阿多羅の目配せが功を奏したのか、二人はようやく車が大破している事に気づいたようだ。

「あっちゃ~……ボロボロだよ。どうすんだ、コレ?」

「知らない。けど、レッカーって結構高いんじゃない? うち貯金ないわよ」

「マジかよ? じゃあ葬式代とかどうすんだ? せめて生命保険とか入ってなかったのかよ?」

「そんな余裕ないわよ。だいたいあんたの安月給じゃ、食べていくだけで精一杯よ。ただでさえあの車のローン、まだ半分以上残ってんだから」

「悪かったな、安月給で! だったらお前もパートぐらいしろよ!」

「厭よ、パートなんてダサい事。だいたい、あたしは家事や育児で忙しいの」

「あの手抜き料理のどこが忙しいんだよ! ふざけんなよてめぇ!」

「ふざけてんのはどっちよ! この甲斐性なし!」

「まあまあ落ち着いて」

 つかみ合いの喧嘩に発展しかけた二人の間に、阿多羅が割って入る。隙あらば喧嘩しようとする二人を御さねばならないため、話がまるで進まない。

 このままではらちが明かない。仕方なく阿多羅はやんわりと問うのをやめ、直球を投げかける事にした。

「お二人とも自分の事ばかりですけど、残された子供の事を考えるとかはないんですか?」

 すると二人はきょとんとした顔で、

「はあ?」

 と、間の抜けた声を上げた。

「いや、はあ、じゃなくて……」

 頭痛がしてきた。まさか今の今まで存在を忘れていたとは思わなかった。

 いくらだらしない人間でも、人の親というのは何にもおいて、まず子供の事を思うものではないだろうか。

「だってよぉ、俺たちもう死んじゃってるし。なあ?」

「ねえ」

「それに、作りたくて作ったわけじゃねえし。こいつに騙されたんだよ、俺は」

「ちょっと、それどういう意味よ?」

「お前が今日は大丈夫だって言うから、信用したんじゃねえか。そしたら突然ガキができた、とか言い出しやがって。詐欺じゃねーか。しかもそのせいで責任取らされわ、車まで売られるわ。俺は被害者だっつーの」

「あたしだって、できるとは思わなかったわよ。あの時は絶対大丈夫だって思ってたし。けど二人とも堕ろすお金がなかったんだから、しょうがないじゃない」

 頭痛が眩暈に変わってきた。

 親になる資格がないという以前に、大人にすらなっていない。精神的に未成熟なまま、体だけが発達してしまっている。むしろ見た目が大人だけに、幼稚な言動が醜く見える。

「それよりさあ」

「はい?」

 何とか冷静さを保とうと懸命に耐える阿多羅に、男が声をかける。

「俺たちもう死んでんじゃん? だから今さら金とか物とか意味なくね? ってか貰っても使えないから困るし、みたいな」

「まあ、そうですねえ」

 そもそも、そういう俗物的な願いは叶えられないし、みたいな、とは言わなかった。

「だからさ、俺たちを天国へ連れてってくんない?」

「あ、それいいじゃん。あんた、あったまイイ」

 完全な追い討ちだった。

 この期に及んで二人は、まだ自分の事しか考えていなかった。

「天国、ですか」

「そそ、天国。俺らさ、ぶっちゃけ生きてる間、報われなかったじゃん? だったら死んだ後くらい幸せになってもよくね?」

「だよね~。あたしら超不幸だったから、せめて天国くらい行けないとワリ合わないよね~」

 こういう時だけ意気投合する二人に、阿多羅の眉間にわずかな溝が走る。

 だが二人はそれにまったく気づかず、口々に勝手な事をのたまっていた。

「だいたいさ、ガキなんていらねーんだよ。金はかかるしうるさいし、おまけに車にはだっせえステッカー貼られるしよお」

「だってさあ、あれ貼ったら他の車がよけてくれると思ったのよ。けど全然意味ないよね。こっちには子供が乗ってるんだから、他の車は遠慮して欲しいわよ。ったく、空気読めって感じ」

「……いや、あのステッカーってそういう意味じゃないんですけど」

 二人はあのステッカーを、水戸黄門の印籠のような意味でつけていたのだろう。

 だがあれは、多少わがままな運転をしても目をつむってもらえる免罪符では決してない。本当は重要な意味を持つものなのだが、悲しいかな二人は最期までそれを知る事はなかった。

「まあいいです……。それで、ご希望は天国へ行きたい、と。わかりました。何とかしましょう」

 ずり下がった眼鏡を片手で直しながら、阿多羅がもう片方の手で指をぱちんと鳴らす。

 途端に辺りの風景が一転した。

「お、おいおい。真っ暗じゃねえか……」

「やだ……何これ? 怖い」

 これまでも薄暗かったが、今や漆黒の闇に包まれている。阿多羅と二人の姿だけがぼんやりと浮き上がるだけの闇は、天国のイメージからかなりかけ離れていた。

「はいはいお静かに。子供じゃないんだから、あんまり騒がないでください」

 小学生の遠足を引率する教師の如く、阿多羅は手を叩いて二人を嗜める。

「おい、ここのどこが天国なんだよ。どう見ても違うじゃねえか!」

「そりゃあそうですよ。あの世に天国なんてありませんからねえ」

「へ? 何それ? どういう意味よ」

「てめぇ、騙しやがったな!」

 殴りかかろうとした男の顔前に、素早く阿多羅が片手をかざす。目の前に手の平を向けられただけで、男はそれ以上動けなくなった。

「だからお静かに。人の話は最後まで聞くものですよ。学校で習いませんでしたか?」

「く……」

 阿多羅の眼は、相変わらず笑っているように細い。だが鋭く光る眼光に、男は体の芯から震えが込み上げる。

 さて、と阿多羅が手を下ろすと、男は呪縛から解放されたようにがっくりと体の力を抜いた。額にはびっしりと汗をかいている。

「先ほども言いましたが、残念ながらあの世に天国なんてものはありません。あれは死神と同じように、人間が創り出した空想上のものです。と言うか、むしろあってはならないものです」

「え~、マジで~? 何でよ~?」

「当たり前じゃないですか。そんな夢みたいな場所があったら、誰も転生しなくなって現世の魂が不足してしまいますよ。それに天国なんて、この世で不幸だったから、せめてあの世では幸せになりたいっていう人間の願望を利用した、宗教的な捲き餌です。うちの神様を信じれば、いずれ天国に行けますよってね。けど神様だって、そんないい場所を人間なんかに解放するほど、お人よしじゃありませんよ」

「うわ……何か凄いショック」

「神様というのは、案外心が狭いものなのです。まあそれ以前に、ほとんどの神様は人間なんかに興味すら無いですけどね」

 身も蓋も無い話だが、神という超絶な存在が干渉しないからこそ、人間という種が無事でいられるのかもしれない。

 この世の創造主である神が、我が物顔で振舞う人間を滅ぼさないのは、きっと阿多羅の言う通り人間というちっぽけな存在など気にもとめていないからなのだろう。

「天国がないって言うんなら、俺たちはどこに行けばいいんだよ?」

「ああ、そうそう。天国は存在しませんが、代わりになるものがあるので、そちらに案内いたします」

 再び阿多羅は指を鳴らす。

 すると真っ暗な景色の中に、ぽつんと赤い穴が開いた。ここからだと小さく見えるが、実際はかなりの大きさだ。

 穴は闇の中に映えるほど紅く、奥が見えないほど深い。

 まるでそれが天国へと続くトンネルのように、口を開けていた。

「何だよ、アレ?」

「天国っぽい所へ行ける入り口ですよ」

「っぽいって何だよ、っぽいって!」

「ですから、天国じゃないけどそれっぽい所ですよ。と言っても便宜上ですが。まあ定義として魂が循環しないという点では、限りなく天国に近いのではないでしょうか」

「意味わかんな~い」

「でしょうねえ。ま、簡単に言いますと――」

「もういいよ。とにかくあそこを抜けたら天国っぽい所へ着くんだろ? さっさと行こうぜ」

 まだ解説の途中だというのに、男は女の手を引いて穴へと歩き出した。

 二人は阿多羅への礼も別れの挨拶もナシだったが、阿多羅も別に期待してなかったので何も感じる事はなかった。

 ただ、ふっとほくそ笑むと――

「あ~あ、行っちゃった。さっき人の話は最後まで聞けって言ったばかりのに」

 穴へと消える二人を見送りながら、小さく呟いた。

 天国とは、あまりの居心地の良さに魂が定住し、転生を拒否してしまう場所である。

 そして阿多羅が出した穴は、たしかにその定義に近い場所へと繋がっている。

 それは『転生したくない』のとは違い、

『転生したくてもさせてくれない』という違いはあるが、魂が循環しないという点では共通していると言えなくはないだろう。

 人間の想像力は実に逞しい。天国などという都合のいいものを考えるのだから。そして何より驚嘆するのは、多少の差異はあるとはいえ、本当にあるものを言い当ててしまっている事だ。

 天国と真逆の存在――

 それは――

「まあいいか。さて、仕事仕事」

 ぱちんと指を鳴らす音が闇に響くと、阿多羅の姿がかき消すように消えた。


 穴の中は、二人が並んで歩いてもまだ余裕があるくらい広かった。

 足元は頼りないほど柔らかく、一歩ごとに靴がめり込む。引き抜いた靴の裏からは、奇妙な粘液が糸を引いていた。だが湿った土とは感触が違う。巨大な生肉の上を歩いたら、たぶんこんな感じがするのだろう。

「うわ、何これ? 超気持ち悪い……」

「なんか妙に生温かいっつーか、生臭くねーか?」

 二人はそれでも天国を目指し、足元に注意しながらおどおどと進んだ。

 穴の中は、地面だけでなくそこらじゅうから白い突起が生えている。まるで鍾乳洞のようだが、鍾乳洞の中ならひんやりと冷気が漂っているはずだ。

 ねちゃねちゃ足音を立てながら歩いていると、男が天井の突起に頭をぶつけた。

「あいてっ」

「大丈夫?」

「って~。いきなり天井が低くなってんぞ」

「そう? 、奥へ行くほど狭くなってるんじゃない?」

 そう言って女性が奥へと目を凝らすが、穴の先は相変わらず真っ暗で出口を表す光の点すら見えない。

 どれくらい歩いたのだろう。まだそう進んではいないはずだが、妙な胸騒ぎに女が思わず後ろを振り向いた時――

「入り口が……ない」

 いつの間にか、閉じ込められている事に気づいた。

「おい、なに冗談言ってんだ……」

 女の声に振り向いた男のにやけ顔が固まる。

 さっきまで開いていたはずの穴が、今は閉じている。それどころか、天井がじょじょに低くなっているような気がした。

 いや、気のせいではない。ゆっくりとだが、明らかに突起が二人に迫ってくる。

「何だよこれ! おい、早く支えろ!」

「やってるわよ! でもこんなの無理よ!」

「クソッ! あの野郎、騙しやがったな!」

 懸命に天井を支えるが、二人の力ではどうにもならない。白い突起が上から刺し貫こうとじりじり迫り、地面に膝をついた二人の肉に食い込んだ。

「うわあああああああああああああっ!」

「きゃあああああああああああああっ!」

 ばり。

 ぼり。

 がり。

 ごり。

 肉と骨を咀嚼する音が、闇の中に響く。

 やがてごくりと嚥下すると、

「げぇっぷ」

 再び穴が開き、中から血の臭いがする生温かい風が吹いた。

 天国の真逆の存在。

 それは、地獄。

 西洋では、地獄の門には番をする巨大な獣がいて、死者の魂を食らって地獄に落とすと言われている。

 奇しくも二人を飲み込んだそれは、空想のものと似ていた。


 再び事故現場へと戻った阿多羅は、遠くから聞こえるサイレンの音に、ようやく救急車が駆けつけて来た事を知った。

 腕時計を見る。阿多羅の現着から一時間半過ぎたというところか。

「はあ、いつものことながら、気が重いですねえ……」

 懐から携帯を取り出し、登録された番号にかける。数回のコールで相手が出た。

「あ~もしもし、お疲れ様です阿多羅です。あの~私、今さっき着いたとこなんですけど――ええ、また遅刻しちゃいまして。で、そのですね、たいへん言いにくいんですけど……ええ、居ないんですよ二人とも。まだ若いですから、きっとどっか行っちゃったんだと思います。ですから、紛失扱いで、はい。ええ、また課長にどやされますよ。いやあ参ったなあ、減給くらいで済めばいいんですけど……。ええ、後の事はこちらで処理しますんで、はい、お疲れ様です。失礼します」

 携帯を閉じ、懐へ戻す。

「ふう、これでよし」

 安堵の吐息を漏らす阿多羅の横を、レスキュー隊が通り過ぎる。

 レスキュー隊は素早く事故車の車体を調べ、引火の兆候が無いと判断すると、流れるように車内の点検に取りかかった。

「うわ……酷いなこりゃ」

 前部の惨状に、レスキュー隊員の口から声が漏れる。

「男性イチ、女性イチ。両名とも死亡確認。これより車外への撤去作業に入る」

「了解」

 隊長らしき人物の指示により、二人の遺体は速やかに車内から引き抜かれた。

 遺体は待機していたストレッチャーに乗せられ、救急車へと搬入される。

 残るは事故車両の撤去だが、作業にかかろうと隊長が車体の後ろにまわると、ガラスに貼られたステッカーに気づいた。

「赤ん坊が残っている可能性があるぞ。中を徹底的に捜索しろ」

 新たに指示を出すが、まだ若い隊員は、またか、というような顔をする。

「しかし隊長、チャイルドシートもありませんし、シートベルトもしないような人間ですよ? どうせまた空振りですって」

「馬鹿野郎、俺たちゃ野球選手じゃないんだ。空振りなんて、何回やってもいいいんだよ。だが万が一、本当に子供が取り残されててみろ。わずかな手間を惜しんで、人命をおろそかにするな!」

「は、はい!」

 一喝された若い隊員は、慌てて事故車輌に走る。だが無理はない。このステッカーのせいで、何度空振りをさせられたかは隊長が一番よく知っているのだ。

 後部座席の下は、事故の衝撃で崩れ落ちた大量のぬいぐるみで埋まっていた。それらを一つ一つ除去すると、中からまだ歯も生えていない乳児が発見された。

「要救護者発見。幼児イチ。これより救助活動開始」

「了解」

 ファッションや免罪符的な感覚で貼られている事が多いこのステッカーだが、本来の目的は車内に子供が残っている可能性を示すためのものである。

 ようやくステッカーは、本来の目的を果たしたというわけだ。


 毛布にくるまれた乳児が、救急隊員の手によって救急車へと運ばれる。外傷は得になく、恐らく大量のぬいぐるみがクッションとなって、事故の衝撃から守ってくれたのだろう。

「両親を一度に失って、あの子も可哀相に……。せっかく助かったというのに、運がいいのか悪いのか……」

 救急隊員に措置を受ける乳児の姿に、隊長がひとりごちる。

 先ほど一喝された若い隊員も、彼の隣で「そうですね」と暗い声で相槌を打つしかなかった。

 彼らの仕事はあくまで救助であって、救助者の今後までは管轄外なのだ。

 乳児はこれから病院で検査を受け、それから役所の児童福祉課の人間に引き渡される。そしてどこかの施設を手配されるか、里親をあてがわれるだろう。どちらにせよ、本当の両親に会う事は二度とないのだ。

 乳児のこれからを憂う隊員たちをよそに、ただ一人、阿多羅だけは、

「いやあ、あんなろくでもない親に育てられるくらいなら、この方がよっぽどましだと私は思いますがねえ。まあ何はともあれ、運のいい子供ですよ」

 と、にこにこ笑っていた。

 当然、彼の皮肉は誰の耳にも届かなかった。

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