山の中の男
阿多羅紫紋が辿り着いたのは、日本アルプスのとある山の中だった。
指定された座標に向かうも、見えるのは一面の雪景色。吹雪が去った後の、雲一つ無い空から照りつける太陽が、雪に反射してとても眩しい。
ここまで白一色だと反って探し物もしやすいというものだが、しばらく対象を探しても一向に見当たらない。
もしや、雪の中に埋もれてしまったのではなかろうか。阿多羅は慌ててあちこち雪を掘り起こしてみたが、遺体はおろか素手で掘った程度では地面すら見えない。
このまま対象が見当たらなければ大失態である。いつもやらかす遅刻などとは比べ物にならず、始末書どころでは済まないだろう。
これは減給ものだなと覚悟を決めた頃、小さな洞穴を発見した。入り口が雪で塞がれていたため危うく見落とすところだったが、空気を入れ替えるためなのか、不自然な穴がいくつか開いていたのが幸いだった。
雪を取り払い、洞穴の中に入る。
穴の中は狭く、すぐに奥に辿り着いた。
そこには燃料の切れた携帯バーナー、大型のバックパック。そして、寒冷地仕様の厚手の寝袋が転がっていた。
阿多羅が寝袋を調べると、探していた対象――高山登が寝ていた。
高山の肉体はすでに冷たかった。恐らく吹雪に見舞われ、この洞穴で寒気避け《ビバーク》していたところ、予想外に吹雪が長引いたせいで身動きがとれず、ついには暖を取るためのバーナーの燃料が切れて凍死したのだろう。
「誰だ?」
太い男の声に、阿多羅は振り返る。死者の魂を見る事ができる死告人の眼は、寝袋の隣に遺体と同じ人物が膝を抱えて座っているのを捉えた。
「高山登さん、ですね?」
男――高山は一言「そうだ」と答えた。そしてこれまでじっと見ていた自分の遺体から視線を動かし、いかにも胡散臭そうな目で阿多羅を見る。
「俺が見えるのか? あんた、何者だ?」
「あ、申し遅れました。わたくし、こういう者です」
渡された名刺を見て、高山がもう何週間も剃っていないであろう口髭を歪ませる。
「死告人、阿多羅紫紋と申します。どうぞよろしく」
「死告人? 新手の霊媒商法か?」
「いえいえ、私はそういう胡散臭い者ではありません。貴方をお迎えに来たんですよ」
お迎えという言葉を聞いて、高山は阿多羅の顔をじろじろと見る。
「死神にしては、随分とおめでたい顔だな。しかし、何だその格好は。死神のくせに喪服を着ているのはこの際置いといて、そんな軽装で山に入るとはどういうつもりだ。山をなめてるのか? どうせなら死神らしく骸骨姿で鎌を持って来るか、山に相応しい格好にするかどっちかにしろ。中途半端な真似はするな」
「はあ……すいません」
まくし立てるようなダメ出しに、阿多羅は思わず謝ってしまう。常に笑顔なのは元からこういう顔だし、死神のイメージと違うのは別に彼の責任ではないのだが、高山の厳つい顔と太い声につい腰が低くなってしまう。
そもそも、骸骨の体に鎌を持った死神のイメージというのは、数多くある死神のイメージのうちのひとつでしかない。タロットカードなどでよく目にするメジャーな姿が、たまたま日本でも定着しただけだ。
しかしながら、死神のイメージと阿多羅とのギャップに驚く人間はこれまでも数多く居たが、山に相応しくない格好だとダメ出しをされたのは初めてだ。山男というのは、町の人間とは一線を画した感性を持っているのかも、と阿多羅は思った。
「で、あんたが俺をあの世に連れて行くのか?」
「はい、まあそうなんですけど……。では、その辺について詳しくご説明させていただきます」
阿多羅が一通り死告人の業務を説明している間、高山は自分の遺体から目を逸らす事はなく、すっかり青白くなった自分の顔を、じっと見つめていた。図らずも今回は現着に時間がかかったわけだが、その間も彼はずっと死んだ自分の姿を見つめていたのか。
自分の死体を見続けて、彼は何を思ったのだろう。自らの死を受け入れいたのか。それとも絶望に膝を抱えていたのか。濃い髭に覆われ、雪焼けで黒く染まった顔からは何も読み取れない。ただ岩のように静かに座っていた。
「――というわけなんですが……ご理解いただけました?」
高山は応えない。視線も動かない。
「あの~……」
「聞いてるよ。あんたが何者で、何しに来たのかは解かった」
「それは良かった。で、何かこの世に未練とかはありますか? 時間は限られてますが、できるだけの事はさせていただきますよ」
阿多羅の言葉に、高山は大きく息を吐く。そして大きく吸いながら、ようやく目を遺体から洞穴の天井へと移した。
「未練か。俺には家族も恋人もいないが、それを寂しいと思った事はない。それに山男が山で死ぬのは本望だからな。未練と言われても、これといって思い当たらん」
あまりに淡泊な意見に、阿多羅が「はあ……」と気の抜けた声を漏らす。
容姿は老けて見えるが、高山はまだ三十路だ。この若さでここまで達観できるとは、やはり山男は町の人間とは観念が違うのだろうか。それとも登山という、常に死と隣り合わせの状況がそうさせるのか。
「……そうですか。いや、無いならそれに越した事はありませんからね」
「すまんな。わざわざ気を遣ってくれたのを、無碍にするような真似をして」
「いえいえ、お構いなく。けど本当にいいんですか? 大した事はできませんが、できるだけご希望に副いますよ?」
肩透かしを喰らった事をまったく気にしていない阿多羅の笑顔に、高山のごつい顔がわずかにほころんだ。
「あんた、変わった人だな」
「よく言われますよ」
変人と言われながらも笑顔を崩さず、阿多羅は高山の向かいに同じように座った。
「しかし、意外ですね」
「何がだ?」
「いえね、登山家の人が登山の途中でこう……断念せざるを得ない状況になったら、悔いが残るものだと思ってましたよ。てっきり登頂するまで成仏できないのでは、と覚悟していたのですが――」
「あてが外れたか?」
「そんな不謹慎な。ただ不思議に思っただけです」
慌てて両手を振って否定する阿多羅をよそに、高山は「ふむ……」と顎鬚をさすりながら何かを考えていた。
「俺も最初はそう思った。だが、すぐに違うという事に気づいたんだ」
「……と、言いますと?」
「大自然に比べたら、人間なんて本当に非力で脆弱で、ちっぽけな存在だ。そのちっぽけな人間が、山という大きな存在に体一つでぶつかるのが登山なんだ。山との真剣勝負を、こんな寒さも痛みも感じない体でやるなんて卑怯だ。山に対する冒涜だ」
「なるほど……だからここを動かなかったんですか?」
静寂が流れる。
肯定の沈黙かと思われた。だが高山の表情は重い。
まるで何か、心の奥底に隠して蓋をしていたものが、じわじわと漏れ出すのを必死に押さえ込んでいるような顔だった。
「……高山さん?」
「違う……」
「へ?」
「俺は、ずっと考えていたんだ。俺が死んだ事なんて、誰も知らない。俺の死体だって、春になって雪が溶けるまで発見されないだろう。いや、下手をすればもっと時間がかかるかもしれない。だがたとえ発見されたとしても、俺を知っている奴なんて、俺が生きていたという事を知っている人間なんて、誰もいないんだ。俺という存在がそこにあったという確かな証拠なんて、役所の書類以外には何もない。そんなくだらない記録でしか、俺は存在を証明できない――そう気づいてしまったから、俺は……自分の体を置いてここから離れる事ができなかったんだ……」
「高山さん…………」
膝に額を押し当ててすすり泣く山男の姿に、阿多羅はどう声をかけていいのかわからなかった。
「俺は、俺はここにいたんだ。生きていたんだ。けど、誰もそんな事は知らない。俺が死んだ今では、俺の存在なんて始めからなかったのと同じになってしまっている。厭だ……誰にも知られず、独りでひっそりと消えていくのは厭だ……」
洞穴の中に、高山の嗚咽が響く。阿多羅は高山の慟哭を、ずっと黙って聞いていた。
長い長い反響はじょじょに小さくなり、やがて消えた。
再び静寂が訪れる。薄暗く静かな穴の中は、まさに高山の孤独を表しているかのようだった。
彼はこの穴でじっと自分の死体を見つめながら、消えてなくなってしまう自分の存在を抱き留めるように、膝を抱えていたのだろう。
だが、今は違う。この狭く薄暗い穴の中には、彼一人だけではないのだ。
「高山さん」
阿多羅の声に、高山はほんの少しだけ顔を上げる。初めて会った時の諦観した目はすでにどこかに消え失せ、子供のように泣き腫らした赤い目だった。
「死は全ての終わりじゃありません。新しい生への始まりでもあるんです。それに死んだからって、何もかも消えてなくなるわけじゃないんですよ」
嘘だ、と高山がしゃがれた声で小さく呻く。
「嘘じゃありません。人は死んでも、思い出が残ります。誰かが覚えていてくれる限り、人はその誰かの中に生き続ける事ができるのです」
「けど俺には、そんな人は、いない……」
「私がいるじゃないですか」
「え………………?」
「さあ、話してください、貴方の事を。もっとよく貴方の事を知るために。そして貴方の事を忘れないために」
高山は呆然と阿多羅の顔を見ていた。やがて瞳からぼろぼろと涙が溢れ、濃い髭に滴を作る。さっきあれだけ泣いたというのに、驚くほど大量の涙だった。
「あ……ありがとう……」
震える喉で、高山が礼を言う。
そして高山は語り始めた。彼の生い立ちや両親の事、山に登るようになったきっかけなどを。
阿多羅は、笑顔でそれを聞いていた。
高山の言葉を胸に刻み込むように、時おり深く頷きながら。




