残される男
コインに表裏があるように、世界にも表と裏がある。
現世と幽世。
現世とは、生きているものたちの世界を。
幽世とは、死んだものたちの世界の事を言う。
世界はコインのように、現世と幽世が表裏一体となっている。
勿論生きているものは現世に、死んだものは幽世に分けられ、互いに交わる事はない。
だが二つの世界は、完全に隔離されているわけではない。二つの世界の境界は実に曖昧で、例えるなら、とても薄い膜のようなもので仕切られていると思ってもらえば良い。
この膜を通れるのは死んだものの魂と、これから生まれ変わろうとするものの魂。
そして屍會の者だけ。
屍會とは、現世と幽世の魂を管理する機関である。その中には転生を司る転生課、魂を誘導する誘導課などがある。
死告人はその中の誘導課に属し、死者の魂を現世の未練から断ち切るのを主な業務としている。
幽世の中央に、堂々とそびえ立つ巨大なビルがある。上部が二股に分かれており、まるで鬼の角のように見える。現世でも、都庁と呼ばれるこれと同じ建造物を見た事がある人もいるだろう。
天を突き刺すように角を伸ばしたこの建物こそ、屍會の本拠地である。
現世と幽世は表裏一体。現世に真似て幽世があるのか、幽世を真似て現世があるのかは定かではないが、この建物もまた、現世と同じように社会の中心に存在していた。
死告人の阿多羅紫紋は、その建物のとある一室で、デスクワークに勤しんでいた。
外での仕事が多い死告人だが、魂を転生課に引き渡した後は書類書きが待っている。フィールドワークとデスクワークがあるのもまた、現世とよく似た構造である。
慣れない仕事がようやく一段落し、阿多羅は大きく息を吐く。
椅子の背もたれに寄りかかった途端、
「阿多羅ぁっ、ちょっと来い!」
不死川の大声が飛んできた。
遠くからでもはっきり聞こえる怒声から、機嫌の悪さがありありとうかがえた。「鬼泣かせの不死川」の異名を持つ武闘派上司の怒声に、他の職員は自分が怒鳴られたわけでもないのに胆を冷やす。
だが当の呼ばれた本人は、きっとまた説教だと覚悟しつつも、「はいはい、ただ今」といつもの軽い物腰で向かった。
不死川のデスクは、課内中央の一番奥にある。つまり、彼がここのボスなのだ。
「課長、お呼びでしょうか?」
「お呼びもクソもねえ。何だお前、あの報告書は!?」
〝あの報告書〟と言われても、阿多羅にはどれの事だか判らない。小首をかしげていると、いきなり二枚の紙切れが顔面に向かって飛んできた。
顔に張り付いた書類をはがして見てみると、音無静生と珠坂真理絵に関する報告書だった。
「お前また対象に手心加えたな? こんなでたらめな報告書出してみろ。すぐにでも総務のババァが怒鳴り込んで来るぞ。お前は俺に何か恨みでもあるのか?」
「はあ……しかしですねえ課長、音無さんの場合は自殺とはいえ本人も充分反省していますし、珠坂さんの場合は事故死なので、事故特約の転生優遇が適用されるのではないでしょうか?」
「ンなこたぁお前に言われなくても解かってんだよ。俺が言いたいのは、クソ真面目に全部報告書に書くなって事だ。こういうのは、数字だけキチンと辻褄が合ってりゃいいんだよ。それをお前は、対象の事情やら何でもかんでも書きやがって……。お涙頂戴の昼ドラの脚本か? これを読んで、俺や総務のババァが貰い泣きするとでも思ったのか? ふざけるな!」
一気にまくし立てる不死川。息を荒げ、茶を飲もうと湯のみを口に当てるが、中身はすでに空で、苛立ちがさらに増したようだ。年齢を思わせる広い額に深い皺を刻み、机に湯のみを乱暴に叩きつけた。
「まあまあ課長、そんなに興奮するとまた血圧が上がりますよ?」
「誰のせいだと思って――! ……まあいい、とにかくすぐに書きなおせ。それが終わるまで今日は帰らせないからな。いくらでも残業させてやるから、覚悟しろ」
そう言って不死川は、怒気で曇った老眼鏡を拭く。犬を追い払うように手を振って阿多羅を下がらせると、デスクの引き出しから胃薬を取り出し、重い足を引きずりながら湯飲みを手に給湯室へと歩いて行った。
とぼとぼと自分の机に戻った阿多羅は、先ほど書き上げたばかりの報告書を深いため息でそよがせる。
「はあ、今日は残業ですか。これってきっと、サービス残業なんでしょうねえ……」
広いオフィスの中、二箇所だけ点灯している場所がある。
阿多羅のデスクの上と、不死川のデスクの上だ。他の者は皆帰宅し、今は二人しか居ない。
「ん~……、やっと終わった……」
阿多羅は大きく伸びをし、首を横に傾けてコキンと鳴らす。壁にかかった時計を見ると、時刻はすでに十時を過ぎていた。
「課長、できました」
「おう」
できたばかりの報告書を不死川に渡す。上司が書類に目を通している間、阿多羅はこの時間に夕飯がとれる店を頭の中で検索していた。
「……まあこれなら何とか及第点ってとこか」
落第寸前の生徒を受け持つ教師のような渋い顔で、不死川が報告書に判を捺す。
「明日の朝イチで総務に渡すが、今日みたいな助け舟がもう一度あると思うなよ」
「そりゃあもう、胆に銘じておきますよ。では、お先に失礼します」
一礼して阿多羅はデスクに戻り、帰宅する準備を整える。
そして部屋から出ようとした時、
「おい阿多羅、ちょっとつき合え」
珍しく不死川が飲みに誘ってきた。
不死川は終始無言だった。
彼の行きつけであろう居酒屋に着き、並んでカウンターに座って突き出しを食べ、銚子を二本開けた頃、ようやく口を開いた。
「なあ……」
「はい?」
だが不死川の言葉はそれ以上続かなかった。そして次々と酒を飲みだす。まるでこれ以上言葉を絞り出すには、まだ酒が足りないかの如く杯を口に運ぶ。
「もう…………いいだろ」
酔った勢いの言葉ではなく、これまで不死川がずっと胸に押し込めていた言葉なのだろう。
吐き出すには、多量のアルコールが必要なほど重い。そんな言葉だった。
ずしりと音がしそうな問いに、阿多羅は眉一つ動かさない。普段から笑っているような顔は、これだけの重みをまともに受けてさえ一ミリも揺るがなかった。
「俺たちはな……幽世に居る連中は皆、前世から積み重ねた業を清算するために働いている。必死に働いて業を清めれば、綺麗な魂になって来世にまた人間として転生できるからだ。言ってみりゃ、労役みたいなもんだ。誰だろうと一度は必ずここに詰め込まれ、何かしらの役目を与えられ、ただそれを黙々とこなして現世へと帰っていく。つまり、ここも輪廻の一部だ」
そこで不死川は言葉を区切り、自分の猪口に手酌で酒を注ぐ。だが口には運ばず、ただじっと杯を見ていた。
「けどな、お前は違う。お前の業は清算できないんだよ。何でかは知らん。お前は輪廻の輪から外れっちまってんだ。いくら遅刻しようと、総務のババァが怒鳴り込んできそうな報告書を書こうと、お前の業がこれ以上増える事はない。その代わりに、どれだけあくせく働こうと、死人に情けをかけようと業は減らない。何をどれだけやったって意味ないんだ。ハナっからそんな規則に縛られてないからな。だったら何故、お前はいつもいつも死人に情けをかける? そんな事をしたって、一文の得にもなりゃあしないんだぞ」
視線を杯から移すと、やはり阿多羅は笑っていた。
不死川は酒をひと息で飲み干す。すると、空いた杯に今度は阿多羅が酌をした。
「得とか損とか、そういうのはいいんですよ。私はただ、彼らが一日でも一秒でも早く、現世へと転生できるようにしてあげたいだけなんです。きっと、自分が輪廻の輪から外れているからこそ、転生できる彼らに何かしてあげたいんでしょう。それに私、人間が好きですから」
「阿多羅……」
「私は自分がどのくらいここに居るのか、現世に居た頃はどこの誰だったのか、すっかり忘れてしまいました。部署だってこれまで何度変わったことか……。でもね、その中で一つだけ分かった事があるんです」
「分かった事?」
「幽世もそんなに悪くないって事です。これまでたくさんの人と別れましたが、その分出会いもありました。貴方もその一人ですよ」
そう言って阿多羅は、自分の杯を不死川に向けて微笑んだ。
「フン……悪かったな。元同期がいつまでも残っていて」
「いえいえ。しかし、不死川さんは随分長くここに居ますね。よほど前世で業を背負うような事をしたんでしょうか」
「ああ。俺もよく覚えちゃいないが、きっととんでもない極悪人だったんだろうよ。おかげで同期はとっくの昔に娑婆に戻ってるってのに、この年になっても未だにコキ使われている。しかもとっくに転生したと思ってた同期のお前が、いつの間にか俺の部下になってやがる。おまけにやたら手がかかるわで……ったく泣けるぜ」
「すいませんねえ、至らない部下で」
ちっとも悪びれたふうもなく笑う阿多羅に、不死川は「まったくだ」と酒を飲み干した。
「俺はお前の上司だ。だから立場上、お前の行動には賛同も容認もできん。他への示しがつかんからな」
「解かってます。むしろクビにされないのを感謝しているくらいですよ」
「ま、俺個人としては、お前みたいな甘ちゃんは嫌いじゃないがな」
不死川はにやりと笑った。
「いい上司を持って、私は幸せ者ですよ」
阿多羅も笑みをさらに深める。
「じゃ、今日は感謝の気持ちって事で、ここはお前が奢れよ?」
「へ? 何言ってるんですか。こういう場合、誘った上司が奢るのが当然ってものでしょう」
「馬鹿言うな。立場は違うが、俺とお前は同期だろうが。いつもケツを拭いてもらっている同期へのせめてもの礼に、ちょっとぐらい奢ってもバチは当たらんぞ」
それを言われると、ぐうの音も出ない。本来ならとっくの昔に解雇され、路頭に迷っていてもおかしくない阿多羅が、どうにか首の皮一枚で繋がっているのは全て不死川の厚意なのだ。酒を奢るくらいの代償なら、かなり安いほうである。
しかしながら、こう世話になる人間にことごとく酒を奢らされていては、いずれ破産するのではないだろうかと阿多羅は少し心配になる。
「ああ、それとな」
「はい?」
「同期だからって、よその課の奴にあまり面倒かけるなよ?」
「……知ってたんですか?」
「当たり前だ。伊達に課長やってんじゃねえぞ。有折だっけ? なかなかできるそうじゃないか。お前みたいなのが同期だと、あいつも苦労が絶えないだろうな」
有折に同情するように、そして阿多羅を咎めるように不死川は眉をしかめる。
「まあまあ。そこはホラ、できる有折さんの事ですから、大丈夫ですよ」
「馬鹿野郎。俺はお前に釘を刺してんだよ」
「はいはい、解かってますって。ささ、もう一杯どうぞ」
「……ったく、本当に解かってんのかよ? 少しは反省してるような顔をしろってえの。お前の顔はどうも真剣みに欠け――」
「まあまあまあまあ。ささ、どんどん飲んで。今日はとことん飲みましょう」
まだ何か言いたそうな不死川だったが、景気よく注ぎ足される酒に、それ以上何も言えなくなった。
不死川が杯を空けると、すかさず阿多羅が酌をする。それを飲み干すと、また酒が注がれる。
こうしてしばらくの間、椀子蕎麦のような酌が繰り返された。
「阿多羅ぁっ、ちょっと来い!」
翌日、まるで既知感のように不死川の怒声が誘導課内に轟いた。
室内の他の人間が「またか」という顔をする中、呼ばれた当の本人は「はいはい、ただ今」と軽い物腰と足取りで声の主へと歩いて行く。
「課長、お呼びでしょうか?」
「お呼びもクソもねえ! お前また現着に遅刻しやがったな? 今度やったらクビだと、何度言えば――っ痛ぅ……」
唾を飛ばしてがなり立てていた不死川の顔が、突然苦痛に歪む。
「課長、大丈夫ですか? 二日酔いなら、あまり大声を出さないほうがよろしいですよ」
にんまりと告げる阿多羅に、不死川がまた吼えようと口を開く。だがまた頭が痛むのを恐れたのか、ぐっと堪えた。代わりに恨みを込めた目で阿多羅を睨む。
「……お前、昨日やけに景気よく酌をすると思ったら、これを狙ってたのか?」
「いえいえ、そんな滅相もない。あ、それより、そろそろ現場へ向かう時間なので、御用が無いのであればこれで失礼します」
わざとらしく時計を見ると、阿多羅は軽く一礼をして背中を向けた。
「ちょっと待て! まだ話は――痛ぅ……」
さっきよりも激しい頭痛に呻く不死川をよそに、阿多羅は歩き出す。
してやったりという笑顔と、ステップを踏むような足取りとともに。




