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幸福な男

夕方の公園には、様々な人が訪れる。

 犬の散歩をする人。

 健康のために、ジョギングやウォーキングをする人。

 下校途中で寄り道し、コンビニで買った菓子などを持ち寄って雑談する学生。

 自宅では演奏できないのか、楽器の練習をする人。

 みなそれぞれが公園という共有空間を、思い思い有効活用している。

 だがそんな公園の一角に、隔離された地帯があった。

 杭で囲われ、大小様々な看板が立てられた付近には、まるで結界を張ったかのように誰も近寄ろうとしない。

 看板には、政府や市民団体などの立ち退き要求が丁寧に、あるいは罵詈雑言に近い言葉で書かれていた。

 杭の向こうには、ブルーシートやダンボールでできた、手作り感溢れる造形物があちこちに並んでいる。

 あれらは決して芸術的なオブジェや、子供の遊具などではない。

 れっきとした住居なのだ。

「いやいや、これはまた壮観で。青が目に沁みますねえ」

 阿多羅紫紋あたらしもんはブルーシートに反射する夕日に細い目をさらに目を細めながら、ダンボールハウスと呼ばれるホームレスの居住区に足を踏み入れた。

 ダンボールハウスはどれも同じように見えて、よく見ればそれぞれ微妙に違っている。まったく同じだと誰がどのハウスの所有者か判らなくなるので、あの形は○○さんの、というふうにして区別しているのだろうか。

 よく考えたものだ、と勝手に感心しながら、阿多羅は目的のハウスへと歩く。

「ごめんください、ちょっとお邪魔しますよ」

 ブルーシートの玄関をまくり、一応声をかけてから中へと入る。

 中では、一人の老人が横たわっていた。

 ぼさぼさの白髪。伸び放題の髭。汚れた服に、日焼けと垢にまみれた真っ黒な肌。まさに熟練のホームレスが、ダンボールハウスの中で死んでいた。

「ご愁傷様です……」

 阿多羅が死体に手を合わせていると、

「おやおや、本当に来なさったね」

 妙に楽しげな老人の声がした。

「ほうほう、最近の死神さんは喪服を着てるんだ。ハイカラだねえ。これも近代文化の影響ってヤツかい? まあ今どき髑髏姿で鎌持って来られても、時代錯誤も甚だしいって感じだからね。死神さんもTPOをわきまえなきゃならなくなって、大変だなあ」

 死後一時間とは思えないほどの饒舌さに、阿多羅は拍子抜けする。

「えっと、倉捨さん……ですね?」

 目の前の遺体とまったく噛み合わない印象に、思わず本人確認をしてしまう。

 だが老人は、

「ああ、そうだよ。あたしが倉捨泰造くらすてたいぞう。そこで死んでるのの中身だよ。今年の冬は越せそうにないかなあとは思ってたけど、やっぱりダメだったねえ」

 やっぱり楽しげに答えた。


「えっと、遅ればせながらわたくし、こういうものです」

 老人――泰造は、渡された名刺を手に、目一杯腕を伸ばして読む。

「ほう、死告人の阿多羅紫紋さんかい。最近の死神さんは死告人って名前になった上に、名刺なんて持ってるんだ。まるでそこらの会社員みたいだね。いやはや時代だなあ」

「驚きました……。初めてですよ、私の名刺を初見で読めた人は」

 阿多羅が素直に驚きを示すと、

「ああん? あんた、あたしがホームレスだからって、馬鹿にしちゃあいけないよ。知ってるかい? 日本のホームレスの識字率は、世界一なんだ。それに自慢じゃないけど、あたしゃこう見えて、昔はそれなりに学も地位もあったんだ。まあ今の姿からは想像もつかないだろうけどね、そりゃあ大したモンだったよ」

 泰造は、皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして異論を唱えた。

 たしかにハウスの中には、ゴミ捨て場から拾ってきたと思われる本が大量にあり、どれもみな何度も読み返して手垢で汚れてはいるが、大事に積み上げられていた。

 老人は説教が一通り終わると、自分で大したモンだった、と言う昔の話を語りだした。

「あたしだってね、生まれた時から宿無し職無し財産無しだったわけじゃあないんだよ。これでも立派な大学を出て、一流企業に勤めてバリバリ働いてたさ」

 そして結婚し、可愛い子供も生まれた。

 それは絵に描いたように幸せな生活だった。

 しかしそれがある日、いっぺんになくなった。

「あんた知ってる? 連帯保証人。アレね、よく聞く話だけどホント怖いよ。ハンコ一個ポンと押したばっかりに、他人ひとの借金全部ひっかぶるの。怖いよ。何が怖いって取立てがもの凄いの。昼夜問わずにギャンギャン責め立てられて、もうご近所から苦情は来るは肩身は狭いわでカミさんも子供も泣きっぱなし。あたしもホント参っちゃってね、何度首くくろうかと思ったことか」

 だがそんな苦境の中でも、泰造と家族はめげなかった。むしろ家族の絆は強くなったと言ってもいい。

 辛い時こそ支えあうのが、家族というものである。泰造も、家族の支えがあったからこそ、あの時踏ん張れたのだと言う。

「それでね、起死回生っていうか、一発逆転サヨナラ満塁ホームランっての? そういうのがあったのよ。やっぱり神様っているんだねえ、会った事ないけど。ある日ね、どうせこのまま死ぬなら勝負かけなきゃ、って感じである商品を発明したの。んで特許を取って発売したら、それがもう売れに売れて、借金なんて瞬く間に返せちゃった。それだけじゃなく事業展開しちゃってね、会社創って大々的に売り出したら、またそれも売れてね。どん底から一気に大富豪の仲間入りしちゃったの」

 聞けば、起死回生をもたらした商品とは、世事に疎い阿多羅でも知っているくらい有名なものだった。

 恐らく日本中、どこの家庭にも一つはあるだろう。それくらい大きなヒット――この場合ホームランを打ち出した商品の特許料や販売実績ともなれば、想像もつかないくらいだ。

「あの時はバブル景気もあったとは言え、まさに夢のようだったねえ。あんたわかる? つい昨日まで着るものも食べるものにも困ってたのが、毎日アホみたいに高い服を一回着ただけでもう二度と着なかったり、ビフテキの真ん中のとこだけちょこっと食べて後は捨てる、みたいな生活ができるようになっちゃったんだよ。そりゃあ金銭感覚とか価値観とかおかしくなっちゃうでしょ。そりゃあ狂っちゃうよ。当然あちこちおかしくなったねえ。特に家族が」

 明日をも知れぬ生活から一転し突然裕福になると、人間の心というのはあまりに脆い。

 泰造の家族は途端にこれまでの生活を忘れ、無限に湧き出る魔法の泉のような財産を使う事だけに執心し始めた。

「お金って魔物だね。あれだけ強かった家族の絆が、いとも簡単に壊れちゃった。ホント、呆気ないものだったよ。みんな口を開けばカネかね金って、浅ましいったらありゃしない。そいで金持ちになったら、これまで疎遠だった親戚縁者がこぞってたかりに来てね。コッチが額を地面にこすりつけて、金貸してくれって泣きついた時には鼻であしらったくせに、いったいどの面下げて来れるんだろうって思ったさ」

 心底嫌気がさしたという顔と声に、阿多羅は「はあ……」と相槌を打つ。

 それから泰造は、これまでとはまったく逆の意味で金に苦しめられるようになった。

 新たに会社を建てれば、ライバル会社や産業スパイに怯え、会社の中では早く引退しろと我が子にせっつかれる始末である。

 老いて会社を退いてからは、やれ遺産や権利だと親族が露骨に目の色を変えて泰造に群がってきて、そのあまりの醜悪さに、ついにはノイローゼになってしまった。

 家族の絆は、もうどこにもなかった。

 誰もが一日も早い泰造の死を望み、遺産の事だけを考えていた。

「すっかり人間不信になっちゃってね、もうなんにもいらないって全部捨てて来ちゃった。お金が無いのも不幸だけど、あり過ぎるのはもっと不幸なんて、皮肉な話だよ」

「それほどお金を持った事がないから、私にはピンと来ない話ですねえ」

「それがいいよ。何でもほどほどが一番。過ぎたるは猶及ばざるが如しってね」

「でも、いくら何でもホームレスに身をやつさなくても。今の貴方の姿を見たら、ご家族だってきっと心配しますよ?」

「さあ、どうだろうねえ。あっちはお金が入ればもうあたしなんて用済みだから、きっと何にも思わないと思うよ。カミさんは金にあかして若いツバメをいっぱい囲ってたし、子供らだって、今じゃそれぞれの子会社の社長様だからね」

 何とも寂しい話である。

 だがそれだけ波瀾万丈な人生を経ているとは思えない、今の泰造の清清しい顔はどうだ。生活は食うや食わずだというのに、どうしてこうも生き生きとしているのだろう。

「そりゃあんた、なんにも持ってないからだよ」

 泰造はあっさりと言う。

「余計なモン持ってると、それだけ心配事が増えちゃうからね。家族とか、仕事とか、そういうの背負って人生って長い道を歩くのは、そりゃあ大変なんだよ。けどね、その重い荷物をちょっとでも支えてくれる人が居るなら別だよ? 誰かが支えてくれるなら、ああ、この人のためにも頑張ろうって励みになるもん。けどそれが無いのなら、やっぱり荷物はなるだけ少ない方がいい。余計なモン背負ってちゃ、歩くのに疲れちゃうよ」

 すべてを捨てて身軽だからこそ、今の泰造は生き生きしていると言う。

 それまで大事に背負ってきたものが、ある日急に重荷に化けてしまった。そればかりか、支えてくれていた手が、泰造の体をがんじがらめにしてきた。

 それはとても悲しい事だろう。

 だからすべてを捨てた。

 今の泰造は自由だ。

 まるで空を飛ぶ鳥のように。

「何だか切ない話ですね。お金があった頃より、今の何もない生活のほうが幸せなんて」

「そうでもないよ。何が幸せかなんて、その人次第さ。他人には不幸に見えたって、本人が幸せならそれでいいと思うよ」

「はあ、そういうモンですかねえ」

「あんた、『裸の王様』って童話、知ってる?」

「ええ、まあ一応」

「あたしはね、あの話で本当に悪いのは『王様は裸だ』って言った子供だと思うんだよ」

「え? そりゃまたどうして?」

 阿多羅は思わず訊き返す。

「あの童話は、大人たちが周りの目を気にして裸の王様に何も言えなかったのを、子供があっさりと『王様は裸だ』と言う事によって、子供の純粋さと大人の愚かさを揶揄する物語でしょ? 結果、子供は王様から褒美を貰い、バカには見えない服を売りつけた詐欺師は処罰された。『人間正直に生きましょう』という含みを持った、典型的な寓話じゃないですか」

 しかし老人は「いやいや」と首を振る。

「だってね、子供が『王様は裸だ』って言うまでは、王様はみんなに賞賛されて幸せだったじゃない。みんなも王様が豪華な衣装を着ていると思ってたし、王様もそう信じてた。詐欺師だって、そりゃあ人を騙すのは悪い事だけど、王様に豪華な衣装を着ているつもりにさせてあげたじゃない。極端な話、それは実際に服を売ったのと同じだよ」

「その発想はなかったですね……」

「でもね、子供の一言がそれを全部ぶち壊しちゃったんだよね。それまでみんな幸せだったのが、子供の他愛ない一言で全部おじゃん。人には騙される幸せってのもあるのに、まったく子供は残酷だよね。無邪気ってよく言うけど、邪気が無いだけ余計にタチが悪い」

 泰造が言うには、あの童話の真の意味は〝正論ほど人を傷つける〟だそうだ。時にはその場の空気を読んで、嘘をついたり周りに合わせる事も必要なのである、と。

「幸せの形なんて、人の数ほどあるからねえ。いくら他人の目から見て不幸そうでも、本人が幸せと感じてるなら、それでいいんじゃないかなあ。本人が幸せなのに、他人が『あんたは不幸だ』なんて言うのは野暮ってモンだよ。この暮らしだってそう。他人には不幸のドン底に見えるけど、あたしにとっちゃあ天国だよ。何より、気楽だからねえ」

 なるほど、と阿多羅は頷く。泰造の話は、彼にとって共感するところが多々あった。彼もまた、他人に無能というレッテルを貼られている。けれど誰が後ろ指をさそうが、どうでもいい事である。彼にとって重要なのは、ノルマでも業務成績でもない。死者の魂から未練を取り除く事なのだから。

 大事なものは、他にある。それは本人だけが知っていればいいのだ。

「でも、子供に空気を読めというのは、ちょっと無理な注文じゃないですかねえ」

「だから童話でやんわり教えるんじゃない。元来童謡とか童話って、そういうモンでしょ。経験や知識が増えるにつれて、裏に隠された本当の意味をやんわり理解していくの。大人の社会を学んでいくための、教科書代わりだよ。そういうのって、学校じゃあ教えてくれないから」

「はあ、奥が深いですねえ」

 感銘を受けて唸る阿多羅に、泰造はからからと笑った。

「あんた、変な人だね。こんなジジイのたわ言を真面目に聞いちゃって。今どきいないよ? こんな与太話に付き合ってくれる人」

「いやあ、勉強になります。つまりアレですね? 童話の『うさぎと亀』の真意は、『勝つためには手段を選ぶな』という事ですね」

 真面目な顔で阿多羅が言うと、泰造は噴きだした。

「そうそう、そういう事。あんた、よく分かってるじゃないの。なかなか飲み込みが早いねえ」

「いやいや、恐縮です」

 二人の笑い声が、狭いダンボールハウスの中に響いた


「で、あんた、のんびりしてていいの? あたしをあの世に連れに来たんでしょ?」

 ひとしきり笑った後、思い出したように泰造が訊ねた。

「ああ、すっかり忘れ……いやいや、そうじゃなくてですね――」

 仕事を思い出した阿多羅は、泰造に死告人の業務について説明した。

「――と、いうわけですが、ご理解いただけましたでしょうか?」

「うん、そこはよく分かったよ。けど未練って言われてもねえ……。こんな暮らしでも、もう十分満足しちゃってるからなあ」

「ですよねえ……」

 苦笑いする阿多羅に、泰造はあぐらを組み直す。対する阿多羅はずっと正座だ。

「家族の事は、別に心配してないしね。まあ色々あったけど、いい人生だったと思うよ。自分で言うのもなんだけど」

「いえいえ、自分でそう言いきれる人生を送った人なんて、そうはいませんよ」

「地位や財産がある人ほど、未練を残すからねえ。けど勘違いしちゃいけないよ? ホームレスがみんな、あたしみたいにあっけらかんと生きてるわけじゃあないんだ。みんなそれぞれ事情があって、身をやつしてるんだからね。あたしくらいだよ。好きでやってるの。あ、やってた、か」

 当然の事だが、ホームレスの中にもルールがあり、縄張りや力関係が存在する。それは一般の社会と同じで、彼らは独自のルールの中で、他の人間たちと何ら変わらない性質の苦労を背負って生きているのだ。

「しかしそうなると、このままお連れするのは気が引けますね」

「そりゃまたどうしてだい?」

「いえね、しがらみを嫌ってこの世界に身を投じたおかげで、未練のない暮らしを送ってこれたんでしょ? それがまた転生し、新たな人生を送るようになったら、またしがらみに飲み込まれちゃうわけじゃないですか。おかしな話ですけど、貴方はこのまま転生しない方が幸せなんじゃないかな、って気がしてきましてねえ……」

 泰造はホームレスになる事で、背負うものも世間のしがらみも無い満ち足りた生活を手に入れた。

 だがしかし、転生して新たな人生を送るというのは、また世間のしがらみ中に放り込まれるという事だ。阿多羅は、彼に再び同じような苦しみを味あわせるのが申し訳ないのだ。

 泰造はしばらくぽかんとしていたが、やがて大いに笑いだした。

「あんた、やっぱり変な人だねえ。今どきいないよ? 他人をそこまで心配する人」

「よく言われますよ。けど、こういう性分なんで」

「はあ……、生きてるうちにあんたに会えたら、一緒に酒でも飲みたかったんだが、死んでちゃあどうしようもないね。ま、それはそれとして、あたしの事は、別にあんたが心配するこっちゃないよ」

「それはそうなんですが……」

「いいのいいの。人だろうと動物だろうと、生まれたら死ぬのは自然の摂理。そして死んで生まれ変わるのが摂理だってんなら、素直にそれに従うのが道理ってモンよ。そうやって森羅万象、巡り巡って世界があるんだから」

「でも、せっかくお一人で気楽に生きてこられたのに、また生まれ変わって人生をやり直すのは、厭じゃありません?」

「別に悲観するこっちゃないよ。もしかしたら、来世は今より良くなるかもしれないしね」

「今より悪くなる、という可能性もありますよ?」

「なあに、今より悪くなる事はないよ。生きてさえいれば、人間何とかなるもんだ。それに――」

「それに?」

「厭になったら、また全部捨てちゃえばいいんだから。そうしたら今とおんなじ。ほら、今より悪くなるんてないでしょ?」

 そう言って老人は、無邪気に笑った。

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