バーの風景
幽世にあるバー〝鎮魂歌〟の前に駆けつけた時には、有折は額にびっしりと汗をかいていた。
若いバーテンがドアを開けると同時に、中へと踊り込む。
息を整えながら奥のカウンターに足を運ぶと、すでに阿多羅がいつもの席に座っていた。自分が来るまで、マスターと世間話でもして時間を潰していたのだろう。
「遅れて済まない」
詫びを入れながら阿多羅の隣に座ると、気を利かせたマスターがそっとお冷を目の前に置いた。一気に流し込むと、汗がまた噴き出して柳眉に流れる。
「いえいえ、それほど待ってませんよ」
阿多羅はいつもの笑顔だった。どうやらそれほど待たせてはなかったようだと安心し、有折は上着をスツールの背もたれにかける。
だが阿多羅の前に置かれた、落花生の殻が山盛りになった灰皿を見て、有折は苦笑した。
「おいおい、こういう時は笑ってないで怒ってもいいんだぞ」
遅れた方が言うのもどうかと思ったが、これも友人のためだと思う。彼はいつも、たいていの事は笑って済ませてしまうのだ。
だが阿多羅はやはり、笑みをさらに増して言う。
「有折さんは役職持ちで忙しいですから、多少遅れても仕方ないですよ。私はヒラなのでいくらでも時間が取れますからね」
有折は深いため息をつく。他の者が言えば嫌味に聞こえるセリフだが、この男はそうではない。本心で言っているのだ。まったく、人がよすぎるにもほどがある、と有折は内心でもう一度嘆息する。
「まあまあ、私の事は置いといて、とりあえず飲もうじゃないですか。勿論、お約束どおりここは私の奢りですよ」
阿多羅が軽く手を上げ、マスターに合図を送る。
マスターが両手で大切そうに、そっと置いた酒瓶を見て、有折を息を呑んだ。
「さあどうぞ。ご注文通り、有折さんが飲みたがっていたお酒ですよ」
「ほ、本当にいいのか? 自分で奢れと言っておいてなんだが、さすがにコレはちょっと無理をしてないか?」
「いいんですよ。有折さんにはいつもお世話になってますし、これくらいさせてもらわないと、私の気が済みません」
たしかに、これまで阿多羅の無茶な頼み事で、何度泊り込みや徹夜をしたかわからない。家に帰れなくて、このままでは部屋の観葉植物が枯れてしまう、などと冗談交じりに愚痴を漏らした事もあった。
けれどそれはあくまで冗談であって、本当に厭なら最初から断っている。有折にとって軽い貸しのつもりだが、目の前に置かれた酒は、積もり積もった貸しの代償にしてはあまりにも高価過ぎた。
ちらりとマスターの顔を盗み見る。彼は業務上無表情だが、「あ~あ、無理しちゃって」という心の声が聞こえてくるようだ。ますます気が引ける。
「しかし、だな……」
見るからに高級感溢れるボトルを前に有折が躊躇していると、
「マスター、お願いします」
「かしこまりました」
阿多羅の声に、マスターがひょいと酒瓶を取る。そして慣れた手つきで封が解かれ、とうとう蓋が開けられてしまった。気のせいか、蓋が開く音まで高級に感じる。
「あ……」
呆気に取られている間に、琥珀色の液体がストレートグラスに注がれる。香りを閉じ込めるために蓋がされたグラスが、有折の前に静かに置かれた。
「有折さんはいつもストレートですよね?」
「あ、ああ……」
酒は水や氷で薄めるようなものじゃないという有折の好みを、阿多羅はよく知っている。無論マスターも知っている。
次いでマスターからそっと差し出される、カシューナッツの入った小皿。ここまでお膳立てされては、もはや断る事は不可能だ。
「……じゃあ、遠慮なくやらせてもらおう」
「どうぞどうぞ」
腹を決めてグラスを手に取る。蓋を開けると濃厚な香りが解放され、有折の鼻をくすぐった。芳しさに思わずうっとりしてしまう。
そして口に含むと、芳醇な香りが口いっぱいに広がり、さらに鼻腔を満たした。ゆっくり飲み込むと、度数の高いアルコールが胃を熱くし、口の中にほのかな甘味を余韻として残す。
「美味い……」
思わずため息が出る。酒は百薬の長だと言うが、これまでの疲れが一気に吹き飛ぶような美酒だった。もしかしたら、死人も生き返るかも知れない。まさに極上の酒だ。
「そうですか。喜んでもらえて良かったです。ささ、もう一杯どうぞ」
阿多羅が満足そうに微笑むと、タイミング良くマスターが酒を注ぎ足す。
二杯目は、一杯目よりさらに美味かった。本当に良い酒とは、飲むたびに味が引き立つという事を、有折は初めて知った。
「ああ、そうだ。遅れた言い訳ではないんだが、今日はこれを君に渡したくてな」
そう言うと有折は、鞄の中から一冊のファイルを取り出し、阿多羅に渡した。
「何ですか、これは?」
「君が転生課に引き渡した魂の、経過報告書だ」
「ほう、拝見してよろしいですか?」
「無論。そのために持ってきたんだ」
阿多羅がファイルに目を通すと、細い目がさらに細くなり、ただでさえ下がっている目尻がますます下がった。
「音無静生は先日無事に転生を完了した。珠坂真理絵は、現在妊娠二十五週目の胎児の中に魂を定着中。母体ともに健康で、このまま順調に行けば年末には現世に転生できるだろう」
「そうですかそうですか……皆さんそれぞれ順調のようで。いやあ、良かった良かった」
本当に嬉しそうにファイルを見つめる阿多羅の姿に、有折もつられて口元が弛む。その笑顔だけで、ファイルを用意した有折の苦労も報われる。そんな笑顔だった。
「いやあ、安心しました。これもすべて有折さんのお陰です。本当にありがとうございました」
「いや、私に礼はいい。私はただ自分の仕事をしたまでだ。むしろ彼らの方が君に感謝しているだろう。何しろ他の魂に比べ、驚くほどすんなり転生してくれたからな」
事実、他の死告人から引き継いだ魂に比べ、阿多羅が担当した魂はことごとく転生効率が良いのだ。
魂というのは、大なり小なり現世に未練を残している。未練が大きいほど転生に支障をきたし、転生作業を妨げるのだが、阿多羅の担当した魂には、未練がほとんど無いのだ。
業務成績で見ると、阿多羅はお世辞にも優秀ではない。いつもノルマぎりぎりで、何より遅刻常習犯のレッテルを貼られていている。
いつつ解雇されてもおかしくない状態で、友人ながら心配になるが、本人はまったく気にした風もなくニコニコしている。
だが転生課の有折に言わせれば、いくらノルマをこなそうと、魂に未練が残っていてはあまり意味がないのだ。むしろ数をこなすばかりで未練の断絶をおざなりにしている他の死告人の方が、無能だと思っている。
ノルマという、数字だけで阿多羅の評価が低い事が、有折は我慢できなかった。そして、その評価を笑って受け止めている阿多羅自身にも憤りを感じている。
「そう言えば、また君は現着(現場到着)に遅れたそうだな? 友人として忠告しておくが、そのうち始末書じゃきかなくなるぞ」
口に出してから、有折はしまったと思った。普段ならこんなお節介じみた忠告などしないのだが、今日は酒が良いせいか、つい飲み過ぎて口が軽くなったようだ。
「いやはや、課の違う有折さんの耳にまで入るとは、私も大したものですね」
阿多羅は照れ臭そうにぴったりと七三に分けた頭をかく。彼のこういう態度はいつもの事なのだが、有折はついかっとなる。
「笑っている場合か!」
憤りをそのままカウンターにぶつけようと手が上がるが、マスターが絶妙のタイミングで新しいカシューナッツの皿を目の前に置いたので、どうにか制止する事ができた。
「はあ…………」
今日この店でつく、何度目のため息だろう。阿多羅は自分の事だと思って恐縮そうに眉を下げるが、本当は自分自身への嫌悪が半分以上混じっていた。
「すまない、少し飲み過ぎたようだ。ちょっと頭を冷やすついでに、メールを確認してくる」
有折はスツールから降り、鞄から携帯電話を取り出す。
「大丈夫ですか?」
阿多羅が心配して声をかけるが、今はその気遣いが辛い。有折は逃げるように、足早に歩いた。
店の外に出て夜風に当たると、幾分か酔いが醒めた。さっきまで昂ぶっていた気持ちが落ち着き、いつもの冷静な思考が甦る。
まさか、自分が酒に飲まれるとは思わなかった。酒は百薬の長だが過ぎれば毒になると、有折は改めて肝に銘じた。
自分の顔に、平手の喝を入れる。
赤い頬が、さらに赤くなった。
席に戻ると、今度は阿多羅の姿が無かった。
怒って帰ったのかと一瞬思ったが、店のドアの前に居た自分とすれ違いになる事はまず無いし、彼に関してはありえない事だとすぐに思い直した。
「阿多羅さんなら、ご不浄だよ」
マスターはそう言いながら、琥珀色の液体が入った別のグラスを差し出す。
今度は酒ではなく、ただの烏龍茶だった。どうやらこれでも飲んで、少し酔いを醒ませという事らしい。
半分ほど一気に飲むと、酒で熱くなった胃が冷却される。ほろ苦い後口も今は心地良い。
「今日はどうしたの? らしくないね」
マスターの表情は変わらない。だが決して無機質な、ただの営業用の会話でない。
「何だか無性に腹が立ってな」
「何に?」
「彼はいつも現着に遅れたり、担当を終えた魂の世話を焼いたり……。もっと他にやるべき事があるのに、どうして他人のために一生懸命になっているんだ。そのせいで何も知らない連中は、彼を無能だと陰口を叩いているのに、何故いつもああやってニコニコ笑っていられる。私はそれが、腹立たしくてならない」
言い終えると、有折はグラスの残りを流し込む。水滴が浮かび上がるほどよく冷えた烏龍茶でも、煮え立った腸は鎮火できなかった。
「でも、あの人がそういう人だってのは、知ってるでしょ?」
「しかし、我々の仕事は慈善事業ではない。魂の循環を円滑にし、現世と幽世の均衡を保つという、大事な使命がある」
「じゃあ有折さんは、魂はただ円滑に、現世と幽世を循環してればいいものだと思う?」
「それは……」
有折は言葉に詰まる。それを肯定してしまうと、魂がただの物質になってしまう。
魂とは、かつて人だったもの――人の根源たるものである。それを商品のように右から左に流してしまうのは、死者に対する冒涜になる。少なくとも、有折はそう思っている。
「これはね、昔ある人が、酔ってポロっと漏らしたことなんだけどね……」
そこで言葉を区切り、マスターは手洗いの方を見る。阿多羅がまだ戻らないのを確認すると、軽く咳払いをしてから再び話を切り出した。
「その人はね、死告人になったばかりの頃から遅刻ばかりで、とうとうクビ寸前までいった事があるのよ。で、次に遅刻したらもう後が無いってトコまで来ちゃったんだけど、その人は全然懲りてなくて。で、アタシが訊いたんです。『どうしていつも遅刻するのか?』って。そしたらその人、何て言ったと思う?」
有折は首を横に振る。マスターはふっと笑って話を続けた。
「こう言ったんですよ。『人は、軍人や医師でもない限り、人の死には慣れていません。人によっては、初めて見る死体が自分のだったっていう事だってあります。そんな人に横から他人が〝お前はもう死んだんだから、諦めてあの世へ行こう〟なんて言っちゃあいけないと思うんです。だから私は、自分の死を受け入れる時間を少しでも多く取れるように、わざと現場に遅れて行くんです』ってね」
マスターが業務上ぼやかしてはいるが、有折には〝その人〟が誰なのかすぐに判った。
言葉が出なかった。
ただ、彼らしいと思った。
有折は自分を恥じた。さっきまでの自分は、魂をモノのように扱う他の者たちと同じだった。死者の事を真剣に想う阿多羅こそ、死告人に最も相応しい人物だろう。そして、そんな彼と友人である事を誇りに思った。
「どうです、変な人でしょ?」
「ああ……そうだな」
マスターは満足そうに頷く。まるで自分がいい事を言ったかのような表情だ。
「その人、それ以来数え切れないくらい遅刻してるけど、不思議と首の皮一枚で繋がってるのよね」
「不思議なものだな」
「ま、クビになりそうな人ほど、意外とならなかったりするから」
「だがその人なら、クビになっても笑っていそうだな」
二人は同時に笑い出す。
するとそこに、阿多羅が腹を押さえながら戻ってきて、何がそんなにおかしいのか不思議そうな顔をした。
「遅かったな。そんなに飲んだようには見えなかったが、大丈夫か?」
「いやあ、それがですねえ、ピーナッツを食べ過ぎて消化不良を起こしたようで……。大変でしたよ。まるで壊れたアイスメーカーのように、止まる事無くチョコアイスにクラッシュナッツをトッピングしたのが――」
「おい阿多羅、レディの前で下品な事を言うな」
有折の言葉に、
「え? レディ? いったいどこに?」
とマスターはあたりをきょろきょろと見回す。
「あれ? マスター、知らなかったんですか? 有折さんは女性ですよ」
「ええっ!?」
大仰に驚くマスターに、有折の丹精な顔が険しくなる。
「有折さん……女の人だったの? ぜんっぜん気がつかなかった……」
「失礼な。私はれっきとした女だ」
「いやあ、だって有折さん、ハンサムだし男言葉だし、服装だってパンツルックばっかりだから、ずっと男の人だと思ってた」
「有折さんは、美人というよりは男前な方ですからねえ。でも有折さんも悪いんですよ? その服装や言葉遣いは改めたほうがいいって、いつも言ってるでしょうに」
「こ、これは私の趣味だ。誰にも迷惑はかけていないだろう……」
子供のように拗ねる有折。だが頬を膨らませても、男装の麗人のような容姿はいささかも見劣りしなかった。
「じゃあ有折さん、下の名前は?」
「っ!」
マスターの問いに、有折は肩をびくっと震わせる。
「ああ、有折さんのフルネームはですね――」
「バカっ、やめろ!」
「――有折はべりって言うんですよ」
咄嗟に阿多羅の口を塞ごうとするが、時すでに遅し。
「え? ありおりはべり? じゃあ親戚に〝いまそかり〟って人がいるの?」
「いるか! まったく、どいつもこいつも同じ事を訊きやがって。だから言いたくなかったんだ!」
「いやいや、有折さんの名前は意味があっていいですよ。私のなんて、ただ字面が難解なだけですからねえ。ネタになるだけまだマシですって」
「ちっとも慰めになってない! クソ、こうなったらマスター、さっきの酒をじゃんじゃん持って来い! 今日はとことん飲むぞ!」
「ちょっ、有折さん、酷いですよ。いくら何でもそれはちょっと、持ち合わせが……」
「うるさい。私の名前を勝手に教えた罰だ。それに私は前から、君の笑った顔以外を見たかったんだ。今日はその万年笑顔が泣きっ面に変わるまで飲んでやるからな。覚悟しろよ!」
「やれやれ……。今日はお腹も懐も痛い日ですねえ……」
脂汗を流しながらも、阿多羅の顔はやはり笑っていた。ただ、眉根は若干下がっていた。




