許されざる男
毒島雄吾は荒れていた。
普段なら、週末の夜は馴染みのクラブで女をはべらせ、浴びるように高い酒を飲んでいるのだが、今夜は小さなバーのカウンターで、隠れるようにして安酒を飲んでいる。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。
それもこれも、全てあの夜の事が原因だった。
数日前、雄吾は酔って車を運転していた際、誤って人を撥ねてしまったのだ。
しかもそれだけではない。その時、彼は免停中だった。免停中の運転だけならまだしも、酒に酔っての人身事故。しかもあろう事か、彼は現場から逃走している。
ニュースでは、被害者は死亡したと報じられていた。飲酒運転に人身死亡事故、そして逃走。野球に例えるならスリーアウトで人生ゲームセットである。
だが彼が荒れている理由は、そんな事ではない。
飲酒運転や人身事故など、彼の父――代議士の毒島金造の手にかかればもみ消す事ができる。問題は、これまで数多くの息子の尻拭いにとうとう金造の堪忍袋の緒が切れ、しばらくの謹慎を言い渡された事だ。
当然その間は小遣いなども無く、カード類も全て停止させられている。今飲んでいる酒も、金造の名前があるからツケで飲んでいられるのだ。
「クソ! 親父の奴、たかが女一人撥ねたくらいでガタガタ言いやがって」
雄吾は空になったグラスを、カウンターに乱暴に叩きつけた。まだわずかも溶けていないロックアイスが、グラスの中でカラカラと踊る。
「おやおや、ずいぶんご機嫌斜めですね。何かムシャクシャする事でもあったんですか?」
「ああ!?」
間の抜けた声に振り向くと、いつの間にか隣に見知らぬ男が座っていた。雄吾は苛立ちを込めて睨んだが、男のぴったりと七三に分けた髪と、人懐っこそうな笑顔に毒気を削がれる。
「ん……まあ、ちょっとな」
「いやあ、さっきからやけにペースが速いから、こりゃあ何かあったんじゃないかなと思ってたんですが、やっぱりそうでしたか」
男は困ってるのか笑ってるのか判らないような顔で、しきりに雄吾を案じるように頷く。
「私で良ければ、愚痴の相手になりますよ? 人に喋ると、少しは気が晴れるかもしれませんし」
さあさあ、と男は雄吾に話を促す。
「そ、そうか? じゃあ、まあ……」
酒を飲みすぎたせいか、男の笑みに当てられたのか、雄吾はついつい口が軽くなり、これまでの経緯を男に語りだした。
「そうですか。それは大変でしたねえ」
「ったくよお、俺を誰だと思ってやがる。代議士毒島金造の一人息子様だぞ。行く行くは親父の跡を継いで、この日本をしょって立つ男だぜ? たかが女一人撥ね殺したくらい何だってんだ。ああ? 人間ってのはな、平等じゃねえんだよ。俺とあの女じゃ、命の価値が違うんだ。俺に比べたら、あの女は生きる価値もない虫ケラだ。なあ、あんたもそう思うだろ?」
すっかり酩酊し、呂律の回らなくなった雄吾の問いかけに、男はうんうんと頷く。
「ええ、仰る通りですよ。命というのは、生まれながらに不平等なものです。この世に真の平等があるとすれば、生きてるものはいつか必ず死ぬ――それだけですよ」
「だろ? あんた、話がわかるじゃねえか。気に入ったぜ」
酒臭い息を吐きながら、雄吾は男の肩を力任せにバシバシと叩く。そのたびに、男の丸い眼鏡がずり落ちる。そして上機嫌にはしゃぐ雄吾の姿を、カウンターのバーテンが奇異な目で見ていた。
男はずれる眼鏡をいちいち直しながら、わずかに眉をひそめていたが、それでも顔は笑っているように見えた。
「よし、もう一軒行こう! 当然、あんたも付き合うよな?」
「もちろん。今日はとことん付き合いますよ」
男の返事に気を良くした雄吾は、バーテンに勘定はつけておけと告げると、覚束ない足取りで店を出て行った。
騒がしい客が帰ると、ようやく店内は本来の雰囲気を取り戻した。
バーテンが空いたグラスを下げに、雄吾の座っていた席に近づく。
「……あの人、なに一人で騒いでたんだろ?」
不思議そうに呟きながらも、バーテンはそれ以上客について深く考える事はしなかった。それがバーテンというものである。
「うえっぷ、気持ち悪ぃ……」
「大丈夫ですか? こういう時は、少し吐いたほうが気分も良くなりますよ」
「大丈夫だ~いじょうぶ。それより早く次の店に行こうぜ。あんた、さっきの店じゃちっとも飲んでなかっただろ」
「いやあ私、こう見えても仕事中なもんで」
「何だよそれ。喪服着てるから葬式帰りかと思ったら、仕事ほったらかして酒場にくり出してたのかよ? いいご身分だなあオイ」
「いやいや、恐縮です」
目が回るほど酒を飲んだので、雄吾は男に肩を貸してもらい、半ば引きずられるようにして歩いている。
「ところであんた、何の仕事してる人?」
「ああ、これは申し遅れました。わたくし、こういう者です」
そう言うと男は、懐から一枚の名刺を取り出した。だが酒に酔って焦点の定まらない雄吾の目と頭では、上手く読めなかった。
「死、しこくびと……? あ、あた、あた……何て読むんだ? 随分変わった仕事と名前だな」
「ええ、よく言われますよ。死告人、阿多羅紫紋って読むんです。まあたいていの人は一回で読めませんから、お気になさらずに」
雄吾は「ふ~ん」と適当な相槌を打つと、貰った名刺をズボンのポケットにしまい、中で握り潰した。
「死告人とは物騒な名前だな。葬儀関係か?」
「まあ、そんなところです。いずれ貴方にもわかりますよ」
男――阿多羅の言葉がよく理解できなかったが、頭がよく回らないのでとりあえず聞き流しておく。
そのまま阿多羅に引きずられるようにして歩くと、奇妙な事に気がついた。
角を数回曲がっただけだというのに、辺りは真っ暗だった。街灯すら無く、この街にネオンの灯り一つ無いというのはどうにもおかしい。
そして、あれだけうるさかった街の喧騒が、まったく聞こえない。いくら雄吾が酔っ払っていても、これをおかしいと思わないはずはなかった。
「なあ、さっきからどこを歩いてんだ? やけに暗くて、人っ子一人見当たらないんだが……」
「ところで、貴方は輪廻転生というのを信じますか?」
雄吾の問いを無視し、男が唐突に話題を変えた。
「はあ? 何だそれ?」
「生死流転、三界流転、六道輪廻。リインカーネィションとも言いますが、簡単に言いますと生まれ変わりの事です。貴方は死後の世界、前世や来世を信じますか?」
「何言ってんだ? 今俺が訊いているのは、ここがどこだって事だよ」
あまりの静けさに、雄吾の声が不気味なくらい響く。だが阿多羅は平然と、出会った時から変わらない笑ったような顔のままで、
「ああ、ここは俗に言う〝地獄の一丁目〟ってやつですよ」
「な……に……?」
するとこれまで漆黒の闇だった景色が、うっすらと明るくなってくる。
照明をつけた舞台のように映し出された景色は、一面真っ赤な池だった。
「ひっ……ひいっ!」
雄吾は慌てて阿多羅から離れる。ばしゃばしゃとしぶきを立て、赤い水が跳ねた。だが奇妙な事に、阿多羅の足は水には浸からず、水の上に立っている。
「死告人というのは、死んだ人の魂を説得したりするのが大まかな業務なんですが、たまにね、あるんですよ。貴方みたいな人の風上にも置けない、人間のクズを刈り取る仕事が。ま、コッチの方は気分でやってる程度ですが」
阿多羅の声も表情も、いたって変わっていない。むしろ笑ったまま淡々と語る姿が、雄吾の恐怖を倍増させた。
とっくに酔いは冷めているのに、体がまったく動かない。ただ恐怖で歯を鳴らすだけ。
「生きる価値の無い虫ケラは、貴方のほうですよ」
満面の笑みをたたえたまま、阿多羅が指をぱちんと鳴らす。
すると雄吾の足元から無数の手が伸び、次々と掴まってきた。そしてそのまま水の底へ引きずり込もうと、もの凄い力で引っぱる。
「うわあっ、何だこいつら!?」
「彼らは地獄の亡者――つまり貴方の先輩ですよ。彼らに百年ほど可愛がってもらえば、貴方の腐った魂も少しは綺麗になるでしょう。そうしたら、ミジンコあたりから転生できますよ」
「クソッ、離せ! 離せって言ってんだろ畜生!」
必死に足をばたつかせて手を蹴り払うが、亡者の数は増える一方だ。やがて雄吾は亡者たちの手に掴まれ、首まで水に引き込まれていった。
「た、助けてくれ! 俺は、俺はまだ死にたくないっ!」
「大丈夫ですよ。貴方が居なくなったところで、世界は何も変わりません。むしろほんの少しだけ良くなるんですから、何も気にせず安心して逝ってらっしゃい」
ひらひらと阿多羅が手を振ると、とうとう雄吾は力尽きて水の中へと引きずり込まれた。
しばらくは断末魔の如く、泡がぶくぶくと立っていたが、やがてそれも消えていく。
「さて、仕事も済んだ事ですし、一杯やって帰りますか」
最後の泡が弾けて消えるのを見届けると、阿多羅はネクタイを弛め、踵を返した。
だがすぐ足を止め、ぴったりと七三に分けた頭を指で掻きながら呟く。
「仕事……? いや、違いますね。しかしまあ、今のご時世に敵討ちとは、私も時代錯誤ですねえ」
再び阿多羅は歩き出す。
顔は相変わらず笑っていたが、どこか感傷を含んでいた。




