愛されたい女
愛されたい女
「わたしはただ、あの人に愛されたかっただけなんです……」
「…………はあ」
警察による交通規制の解除された道路の端で、阿多羅紫紋は小一時間も珠坂真理絵の話を聞かされていた。
撤収するパトカーや、遺体を搬送する救急車のサイレンが、無情なドップラー効果を上げて去っていく。野次馬もあらかた引き上げ、事故現場に残っているのは当の被害者本人の真理絵と、死告人の阿多羅だけになった。
「本気だったんです……だから何度も奥さんとは別れて、わたしと一緒になってと頼んだのに……。けど、あの人なんて言ったと思います?」
もう三回も聞いたくだりなので、本当ならこの先の先の展開まで知っているが、真理絵をこれ以上刺激しないために、阿多羅はあえて何も言わない。触らぬ神に、何とやらである。
「自分には妊娠中の妻がいる。君とは遊びだったんだ、って言ったのよ! わたしはあの人の奥さんの代わりに、ただの性欲処理に利用されたのっ!」
「まあまあ、あまり興奮しないで。落ち着いてください」
「その言葉を聞いた時、もう目の前が真っ暗になって……。だってそうでしょ? ずっと互いに愛し合ってるって信じてたのに、それが……」
「で、ふらふらと横断歩道に出ちゃった、と」
阿多羅はちらりと、白いチョークで人型が書かれた横断歩道を見る。信号機は無かったが、道は街灯が多く見通しが良い。いくら真理絵がふらっと車道に出たとはいえ、車がよほどスピードを出していなければ事故など起こらないように思えた。
真理絵を轢いた車の運転手は目下逃走中だが、日本の警察は優秀だ。逮捕されるのは時間の問題だろう。しかし、すでにこの世の人ならぬ彼女にはどうでもいい話である。
視線を真理絵に戻す。ブティックの店員が勧めるままに買ったような、明らかに背伸びをした服装。そしてこれまでメイクなどあまりしてこなかった、不慣れなのがよく分かる垢抜けない化粧が、彼女の恋愛経験の乏しさを感じさせる。これまで男性と付き合ったことなど、ほとんどないのだろう。
だから不倫だとわかっていながら、上司と関係をもった。そして本気になった。男にとって、その関係は一時の火遊びだったとも知らずに。
阿多羅は口の中でため息を漏らす。これまで不幸で悲惨な人間は幾度となく見てきた。だが彼女はそうではない。
ただ不憫なのだ。幸の薄さが体から滲み出るほどに。
「あの~、何かご要望とかはありませんかね? できる限りのことは、させていただきますが」
かける言葉が見つからないなりに、どうにかひねり出した言葉だったが、真理絵は小さく首を横に振り、
「……もう、どうでもいいんです」
と、か細い声で答えた。
「わたしはただ、あの人に愛されたかっただけです。毎日あの人に愛されて、ずっと一緒にいたかった。けどそれも、もう……」
声は小さいが、何と強い未練か。真理絵の魂をこのまま放置しておくと、霊となって現世に残存するのは目に見えている。
そしていずれ未練が恨みに変わり、真理絵の魂が悪霊に変わるかもしれない。愛する相手を自ら苦しめるようになっては、あまりにも彼女が可哀相だ。
「たしかに貴方はもう死んでいますが、だからと言って何もかもが終わったわけじゃないんですよ? いつかまた転生し、新たな人生を送る事だってできるんです。前世で男運が悪かったって、来世では意外と何とかなるかもしれないんですから」
懸命に諭す阿多羅の声も、真理絵には届かない。よほど別れた男に未練があるのだろう。
さてどうしたものか、と阿多羅はぴったりと七三に分けられた頭を指でコリコリと掻く。
真理絵のただ一つの願いを叶えてやりたいのはやまやまだが、さすがにこればかりは阿多羅にはどうしようもない。死告人といえど、できる事とできない事がある。もっとも、彼にできる事などたかが知れているのだが。
阿多羅が頭を痛めていると、ふいに上着のポケットに入れていた携帯電話が鳴った。
「ちょっと失礼」
真理絵に一言断りを入れ、携帯電話を開く。
「もしもし? ああ、有折さん。今ですか? ちょっと取り込んでますので……できれば手短にお願いします」
有折とは阿多羅の同期で、転生課に配属されている者である。互いに奇妙な名前だという事で意気投合し、たまにだが一緒に呑みに行く、阿多羅の数少ない友人の一人だ。
転生課というのは読んで字の如し、死んだ人間の魂を再び現世へと戻す、あの転生をする課である。阿多羅の属する誘導課が魂を現世から幽世に誘導し、転生課が引き継いで再び現世へと還すのだ。
有折は阿多羅と同期でありながら、すでに転生課の管理職に就くほど優秀だ。まあ管理職と言っても、管理するのは部下ではなく魂だが。有折は誘導課の担当者が連れてきた魂の管理や、転生先の割り振りなどが主な仕事なのである。
「この間の音無さん? そうですか、転生日が早まりましたか。いやいや、ありがとうございます。え? ええそりゃあもう。無理をお願いしたのはこちらですから、今度は私の奢りってことで――はい、はい」
阿多羅は以前担当した音無静生の魂の転生を、できるだけ早めてくれないかと頼んだのだが、有折の尽力のおかげで上手くいったようだ。
静生の転生が無事早まった報せを聞き、阿多羅はほっと胸を撫で下ろす。これで胸のつかえの一つは片付いた。残るは目の前の大きなつかえの塊だが、そちらは下りる気配すら見えない。
電話の向こうからは、有折が尽力の代償を求めるように、今度はいつ空いているか、この間見つけた店にちょっと気になる酒が置いてあったなどとあれこれ話している。
自殺した人間は、本来なら転生するのにかなりの時間を要する。自ら死を選ぶような命の重みを知らぬ人間は、転生させたところでまたすぐに生きる事を諦めてしまうだろうという理由からだ。つまり、罰の意味も込められている。
それがこの異例の早さで転生が決まったという事は、有折がかなり無理をしてくれたのだろう。
これは謝礼として、かなり高い酒を奢らされそうだ。阿多羅は頭の中で薄い財布の中身を勘定しながら、前もって高い酒の瓶に安い酒を詰めておこうか、などとけち臭い事を考えていた。
だがその時、ある名案がひらめいた。
「そうだ! ああ、いやいや、驚かして申し訳ない……。ところで有折さん。ついでと言っちゃあなんですが、もう一つ頼まれて……はいはい、勿論タダとは申しませんよ。実はですね――」
しばらくの間、阿多羅は声を潜めて電話をしていたが、やがてパタンと携帯電話を閉じると、満面の笑みを真理絵に向けて言った。
「お待たせしました。いや~、長電話してしまって申し訳ない」
「いえ……別に……」
「ところでですね、貴方の望み、何とかなりそうですよ」
「…………え?」
信じられない、という意味をふんだんに孕んだ真理絵の声にも構わず、阿多羅は話を進める。
「例の不倫相手の上司――その人に愛され、しかも一緒に住める方法がたった一つだけあるんですよ」
「そ、そんなの無理に決まってます。だって、わたしはもう……死んでいるんですから……」
「もちろん。ですが先程も言ったように、貴方は早晩現世に新しい命として転生するわけなんですが、その転生先をですね、その上司の子供にしてもらいました」
「ええっ!? そんな事、本当にできるんですか?」
「できるんですよ。先程、転生課の知人に確認を取りました。例の男性の奥さん、上手い具合に女の子を妊娠していらっしゃいます。その子供に貴方の魂を転生させるように、無理矢理ねじ込んでもらいました。どうでしょう? 来世はその人の娘になるって事で、良しとしてもらえまんせんかねえ……」
阿多羅の思いついた名案とは、上司の子供の肉体に真理絵の魂を転生させるという荒業だった。瓶の中身を入れ替えるという、反則に近い発想から思いついたにしては、なかなか名案だと自画自賛したいほどだが、これは言わぬが華だろう。
「自分の娘なら、その人も全身全霊をもって愛してくれますでしょうし、年頃になって自立するまで、いや、結婚しなければ一生一緒に住み放題。これはお得な条件だと思うんですが、いかがでしょう?」
「でも……」
まるで物件を売り込む不動産屋のように力説する阿多羅だが、真理絵はどこか納得がいかないようだ。
それもそのはず、女として愛され一緒に住みたいというのに、娘になってしまっては愛されるの意味がまるで違ってしまう。
それに何より、不倫相手は彼女より妻を選んだのだ。その女から生まれて娘になるなんて、屈辱以外の何者でもないのだろうから、真理絵が腑に落ちない顔をするのもわからなくはない。
「まあ確かに、貴方の言う愛され方とは若干意味が違いますが――」
不満そうな真理絵を諭すように、阿多羅は語る。
「妻と言っても所詮は他人。たかが役所の手続き上の関係でしかありません。けれど娘となれば、それは血を分けた親族なんですよ? 妻とは離婚できるけれど、血の繋がりは絶てません。例え絶縁したとしても、貴方とその人の血が繋がっている事は、変えようもない事実なんですから」
「血の繋がり……」
「ですから、この辺りで手を打っていただけませんかね……」
精一杯努力しました、という阿多羅の顔を見て、真理絵は小さく息を漏らす。それは仕方ないな、という妥協ではなく、ここまで自分のために尽力してくれた阿多羅に向けた、労いの吐息のようだった。
「わかりました……。わたし、あの人の娘になります」
真理絵の決意に、阿多羅は大きく息を吐く。
「そうですかそうですか。いやあ、そう言ってもらえると助かります」
これで真理絵も心残りなくとは言えないが、無事あの世へと旅立てるだろう。かなり強引なまとめ方で申し訳ないが、これ以上の解決策は思いつかないし、阿多羅の力ではどうしようもない。結局今回も骨を折るのは有折なのだから。
「あの……阿多羅さん」
「はい、なんでしょう?」
「わたし、精一杯あの人に愛される娘になります」
「ええ、頑張ってください」
真理絵の表情は完全には晴れていなかった。やはり本心では納得がいかないのだろうか、と阿多羅が心配していると、
「それと、思いっきりわがままを言って、あの人の奥さん……じゃなくて、お母さんを困らせてやります」
「それはそれは。でもほどほどにしないと、後で困るのは自分ですよ。何と言っても、おやつもお小遣いも、その人が握ってるんですからね」
「そうですね。それでいつかは素敵な男性と巡り合って、今度こそ本当の恋愛をして、家族を作って幸せになりたい。それが……今のわたしの目標です」
「真理絵さん……」
真理絵の頬を、一筋の涙が濡らす。そっと指で拭うと、それ以上涙は流れなかった。それはきっと彼女が流す、不倫相手への最後の涙なのだろう。
「本当に、お世話になりました」
「いえいえ。来世では、いい人に出会えるといいですね」
「あの人よりもずっといい人を捕まえてみせますから、見ていてくださいね」
そう言って真理絵ははにかむように笑った。
やはり少し垢抜けないが、飾りのない晴れ晴れとした笑顔に、阿多羅は彼女がようやく自分の中で、この不倫劇にけりをつけたのだと悟った。




