迷う男
阿多羅紫紋は、広い板の間に呆然と立ち尽くしていた。
「ここは……?」
ぼんやりとした頭で呟いた声は、空間に染み込んで消える。
辺りはしんと静まり返り、厳粛で張り詰めた空気が立ち込めている。まるで神殿のように神聖で、声を上げた事が躊躇われた。
頭の中が白濁としており、どうして自分がこんな所に居るのか判然としない。しかしこの場所に、どこか懐かしい雰囲気を感じる。既知感というやつだろうか。
良い匂いがした。伽羅の香りだ。香の匂いが、阿多羅の記憶を刺激する。
格子から入る風が、香に混じって外の匂いを阿多羅に届けた。
排気ガスや光化学スモッグなど微塵も混じらぬ、純然たる自然の風。とても心地良く、そして懐かしい。
風に誘われるかの如く、格子に近づき外を見る。
目に映ったのは、碁盤のような景色。
鉄とコンクリートで創られた現世の街とはまるで違う、木と土でできた生きた街が見える。
街を歩く人々の姿は生き生きとしており、遠く離れたここからでも息遣いが聞こえそうだ。人が生きるという営みを具現化したような、まさに地に足のついた生活がそこにあった。
だがそれは現在のものではない。もっと遠い、遥か昔に見た光景。
五感のすべてが、早く目覚めよと阿多羅を促している。
やがて意識がはっきりしてくると、記憶も鮮明に甦ってきた。
これは、かつての幽世の光景。首都東京ではない、京の都と瓜二つの景色。
阿多羅は今、千年前の風景を見ているのだ。
「■■様」
背後から、聞き覚えのある女の声がする。
名前のところだけが、よく聞き取れない。だが自分を呼んでいるとわかる。
振り返ると、真っ白な神官の装束に身を包んだ伊佐那美が立っていた。
那美は外套を被ってはおらず、長く艶やかな黒髪を風に遊ばせている。一目見るたびに、彼女の美しさにため息が一つ漏れる。だが今阿多羅を見つめる漆黒の瞳は、悲しげに曇っていた。
それもまた、阿多羅の記憶にある那美だった。
悲哀に瞳を潤ませた那美の姿が、阿多羅の記憶の最後にある彼女の姿だった。
「那美……」
「やはり、お心は変わらないのですか?」
かすかな期待を胸に秘めた声。男ならずとも、心が揺らいでしまいそうな声。
だが阿多羅は首を横に振る。自分の決心は、たとえ彼女の涙であろうと変わりはしない。それを知っているのか、那美はこぼれそうな涙を必死で目の淵にとどめる。
「もう決めた事なのだ。私の心は変わらないよ」
しかし、と那美は食い下がる。可憐で儚い容姿に似合わず、決して引き下がりはしないという強さがあった。
「今の屍會の――いいえ、わたくしのいったい何がお気に召さないのですか?」
絞り出すような那美の声。実際様々な感情を押し殺しているのだろう。彼女の握り締めた小さな拳は、透き通るようだった肌の色が変わり、細やかに震えている。
「わたくしが至らないせいで■■様がこの屍會を去るというのなら、どうしてわたくしを総裁などになさったのですか? そもそも屍會をお創りになったのは、■■様ではないですか」
とうとう耐え切れなくなり、那美は大粒の涙を流す。彼女は自分たちが、いや、自分が阿多羅に見限られたと思っているのだ。これまで必死に屍會の――阿多羅の創った組織のために粉骨砕身してきたのに、それなのに去ってしまう。それは、見限りというよりは、
裏切り。
那美は、阿多羅が自分を裏切り去っていくのを責めているのではなく、力及ばぬ自分をどうして自らが立ち上げた組織の長に据えたのかと怒っていた。怒りの矛先が自分ではなく、阿多羅を憎めていたなら、恨めていたなら、まだ幾分かましだっただろうに。
しかしそれは違うのだ。たしかに那美は、組織の長として据わるには青い。
そして甘い。
経験や知識、思慮や胆力など欠けるものを数え上げたら両手でも足りぬ。だがそれはおいおい、時間とともに満たされるものだ。
経験がないのなら、経験を積ませればいい。知識がないのなら、与えればいい。思慮や胆力などなくてもいい。いずれ身に付くまで、それらがある者を側近につかせれば良いだけのことだ。
そして実際そうしてきた。
神代の時代が終わり、幽世に屍會を創設してから今まで、阿多羅はそうやって那美を長に足る者として育ててきた。
育ったからこそ、阿多羅は安心して屍會から去る事ができるのだ。むしろこれは、那美を総裁として一人前だと認めた上での決断なのだ。
しかし彼女はそれを知らない。
阿多羅の思いを知らない。
彼の那美に対する愛情を知らない。
弟子がいつか師を超えるように。子がいつか親から巣立つように。那美もいつか、阿多羅から離れなければならない。そうでなくてはならないのだ。そのための準備をこれまで、小さな星が生まれては消えるくらいの時間をかけてやってきた。
なのに肝心の彼女がこれではどうしようもない。雛に飛び立つ意思がなければ、親鳥がいくら飛ぶ事を教えても意味がないのだ。
阿多羅は子供みたいにしがみつく那美を見て、これまでの自分の考えが間違っていた事にようやく気づいた。
ただ自分が去るだけではいけない。
それだと那美は、彼女の持つすべての力を使ってでも阿多羅を探し、求めるだろう。
屍會総裁という地位をかなぐり捨ててでも。
阿多羅が愛した、人間という小さな生き物。神代の時代の次を生きる者。その魂を現世から幽世へ、幽世から現世へと巡り回すこの屍會という組織を捨ててでも。
ただ去るだけではいけない。
消えなければならない。
「那美……よく聞きなさい」
阿多羅は那美の肩にそっと両手を置き、泣き顔を押し付けていた彼女を引き離す。
那美は捨てられた子犬のような目で、阿多羅を見つめる。離さないで。捨てないで。行かないで。瞳は千の言葉を語り、わなないた唇は万の言葉を押し殺しているようだ。
「お前はもう、立派な屍會の総裁だ。だから私は安心して一線から去るつもりだった。だが今のお前を見ていると、とてもそのようにはできない」
「で、では…………」
残ってくださるのですね、そう言いかけた那美だったが、嗚咽の余韻で喉が痙攣して言葉が出ない。必死に喉を鳴らし、一秒でも早く喜びの声でそう言いたい。
しかしそれよりも早く、
「だから私はこれより千年、記憶と力を封じる。その千年の間――お前の知る私の居ない千年の間、再びこの屍會をお前に任せる。そして千年ののち私が目覚めた時、お前が真に屍會の総裁に足る者に成長していたのなら、喜んで私はお前の許に戻ろう。それまでどうかこの屍會を、人間たちの魂を頼んだぞ」
そう告げると阿多羅は、両の掌で自分の頭を挟んだ。
「…………っ!」
那美が驚くよりも、止めようとするよりも先に、阿多羅の両手がまばゆく輝いた。あまりに強烈な閃光に、那美の視界が一瞬白くなる。
再び目を開け、視力が戻ると、阿多羅の姿はどこにもなかった。
彼は去ってしまった。
自ら記憶と力を千年封じて。
たとえ次に会ったとしても、千年経つまでは彼女の知る阿多羅ではない。
ただの人間と同じ、幽世の住人。
那美の事も忘れているだろう。
「いやああああああああああああああああああああっっ!」
阿多羅の消えた室内に、那美の悲鳴が響いた。
喉が張り裂けんばかりに。
胸を切り裂かれたような悲痛な声が。
気がつくと、そこは誘導課の自分のデスクだった。どうやら机に突っ伏して寝ていたようだ。目が覚めてくるにつれ、課内の騒然とした様子が耳に届いてくる。
ずっと腕を枕にしていたせいか、痺れてしまっている。ずいぶんぐっすりと眠っていたものだ。こんな所を不死川に見つかったら大目玉である。
阿多羅がまだ痺れが残る腕で体を起こそうとした矢先、いきなり頭を掴まれた。そしてそのままもの凄い力で顔を上げさせられる。
するとそこには引きつった笑顔の不死川が、阿多羅の頭を片手で鷲掴みにして立っていた。目を覚ますのが少々遅かったようである。
「仕事中に居眠りたあ、いい度胸だなあオイ」
いけないと思いつつも、不死川と目が合った。笑顔なのに額にびっしりと隙間なく血管が浮き出ているところを見ると、かなりご立腹のようだ。動物的本能で即座に目を反らしたくなる。そこをぐっと堪えて、阿多羅はいつものように、にへらと笑う。
「いやあ、最近寝つきが悪くて寝不足なんですよ。それより課長、そろそろ離してくれないと、中身が出そうなんですけど……」
「中身? お前の頭に何か詰まってるなんて初耳だな。よし、ちょうどいいから絞り出して、何が入ってるか確認してやる」
頭を掴む手に、さらに力を込める不死川。プレス機にも引けをとらない握力が、容赦なく阿多羅の頭蓋骨を軋ませる。
「あだだだだだだだだ……」
大目玉どころか目玉がこぼれそうな激痛に、阿多羅は苦悶の声を上げる。このままでは本当に具が出てしまいそうだ。
頭を掴む手を叩いてタップをすると、ようやく不死川は手を離した。
「目ぇ覚めたか?」
「ええ、おかげ様で……危うく永眠するところでしたよ」
痛みを散らすように両手で頭をさする。幸い指は骨まで達していなかったようだ。さすがに不死川も、居眠り程度で部下の頭を握り潰すほど鬼ではない。相手が鬼ならまだしも。
「ったく、死人みたいな顔しやがって。今日はもう帰って寝ちまえ」
「え? でも、これから現場に行かないと……」
「そんな青い顔した奴を現場に行かせられるか。相手がビビっちまって、成仏どころじゃねえだろうが」
「しかし――」
「いいからとっとと帰れ。仕事に身が入ってない奴が居ても、邪魔なだけだ」
不死川の言葉は相変わらず厳しい。だが付き合いの長い阿多羅は、彼が上司と部下という関係を除いても、こういう言い方しかできない男だと知っている。知っているからこそ、言葉の奥に隠された気遣いを酌む事ができる。今はその決して表に出ない優しさに、素直に甘える事にした。
「……わかりました」
「フン。何があったかは知らねえが、とっととカタをつけちまえ。いつまでも不景気なツラをされちゃあ、こっちまで調子が狂っちまう」
吐き捨てるように言った後、不死川は自分のデスクに戻る。彼の背中に一礼をすると、阿多羅は静かに誘導課を出て行った。
手洗い場の鏡を見る。たしかに酷い顔だ。自分が死んだらこんなふうになるだろうという顔が、鏡に映っていた。とは言え幽世に居る以上、彼も死人のようなものだが。
阿多羅は蛇口を思い切り捻り、豪快に水を出す。冷たい水を何度も叩きつけるようにして顔を洗うと、少しだけ気力が戻ってきた気がした。
ポケットからハンカチを取り出し、顔を拭く。流しに追いてあった丸眼鏡を取るが、かける寸前に手が止まった。
眼鏡に度は入っていない。ただの円いガラスがはまった、いわゆる伊達眼鏡である。
何故これをかけているのか、これまで考えた事などなかった。ただ、これまでずっとそうだった気がしたから、今までかけてきただけだ。けれど記憶が戻ったからわかる。そうするように記憶を操作したのは、かつての自分である。
眼鏡だけではない。常に貼りついた笑顔、ぴったりと七三に分けられた髪もそうだ。ただ何となくそうしたい――そう思うようにかつての阿多羅が仕組んでいた。
別人になるために。
しかし今は違う。植えつけられた概念ではなく、阿多羅は自分の意思でこの顔、この髪、この姿でいたいと思う。
気がつくと、昔の顔に戻っていた。阿多羅は両手で思い切り頬を叩く。ぴしゃりと軽快な音が、手洗いに響いた。
「さて、不死川さんもああ言ってくれた事ですし、とっととカタをつけに行きますか」
眼鏡をかけて、再び鏡を見る。
いつもの阿多羅紫紋が映っていた。
両頬が真っ赤になっていたが。
〝総裁執務室〟
と書かれた札や看板が出ているわけではないが、阿多羅にはこの扉の向こうがそうだという確信がある。
彼は今、屍會庁舎の最上階に居た。あの、選ばれた者しか足を踏み入れる事を許されないという最上階である。
どうしてそう言われるのか、ようやく阿多羅はその理由を理解した。
屍會庁舎には、最上階に通じる階段もエレベーターも無いのである。
つまり最上階は密室。完全に孤立独立した階なのである。通じる道が無いのであれば、出入りのしようがない。
ではどうやって総裁や幹部連中は最上階に出入りしているのか。彼らとてこの庁舎が建てられて以来、ずっと最上階に居るわけではないだろう。
彼らは幽世の空間を自らの意思で操作して、最上階へと出入りしているのだ。
そして今、阿多羅もそうやってここに居る。
これまで阿多羅は、自分のこの能力――人間を地獄へと落とす力は、死告人なら誰でも持つ能力だと思っていた。なぜなら、彼が空間を地獄へと繋げる力を使えるようになったのはつい最近である。なので死告人として経験を積み、レヴェルが上がったからできるようになったのだろうと勝手に勘違いしていた。
だがそれは間違っていた。恐らく阿多羅以外のどの死告人も、こんな特殊能力は持っていないはずだ。
幽世の住人――ただの人間の魂にこんな力などあるはずがない。ただの人間に使えない力というのは、人間を超えた存在が持つ力だ。
恐らく千年前に封印した記憶と力のうち、まず力が先に、ほんの一端ではあるが、甦ったのであろう。そして今、記憶もゆっくりと甦りつつある。
改めて扉を見る。重厚かつ高級な、屍會の総裁が詰めるに相応しい部屋の扉だ。きっとノックをすれば、さぞいい音がするに違いない。
早速ノックをしようと伸ばした阿多羅の手が、ぴたりと止まる。
この扉を、他人行儀にノックをして良いものか。この扉の向こうに居るのは、屍會の総裁である。そして今の阿多羅はただのヒラ死告人。なのでここは立場上、最低限の社会常識を持って行動したほうが良いのではないだろうか。しかしながら、そもそもこの屍會を創ったのは阿多羅である。本来なら、この執務室の中に居るのは自分なのだ。
これは複雑な心境だ。まるで長い間帰ってなかった実家に戻ったみたいである。「ただいま」と言うには照れ臭いし、かといって「お邪魔します」と言うのは他人行儀だ。
何をくだらない事で迷っているのだろうと思うが、一度気になりだしたらキリが無い。結局阿多羅は伸ばした手を引っこめる。そして熟考しようと組み直した矢先、
「どうぞ、お入りになってください」
扉の中から、先手を打つように声をかけられた。
促されては仕方がない。「失礼します」と、できるだけ平静を装って扉を開けると、やはり重厚かつ高級な扉らしい感触と手応えがあった。
室内は思ったよりも狭かった。てっきり呆れるほどだだっ広い室内に、豪奢な机や応接セットが存在するかと思いきや、装飾品の類は一切見られない。ただ絨毯だけは、靴が沈みこむほど柔らかかった。
声の主は、質素な事務机に座っていた。やはり伊佐那美だ。澄み切った声はつい先ほど夢で見た千年前の記憶と同じだが、彼女から受ける印象はかなり変わっている。やはり阿多羅の居ない千年の間に、大きく成長したのであろう。表情が自信に満ち溢れている。
「ようこそ、お待ちしておりました。お――いえ、今は阿多羅紫紋、と名乗っているのでしたね。そのお姿でお会いするのは初めてなので、一応初めまして、と言っておきましょう」
『お』の後は何だろう。まだ記憶が完全に戻っていない阿多羅は、自分がかつてどんな名前だったのか、那美にどう呼ばれていたかまでは思い出せていない。しかしそれも時間の問題だと思うし、那美が自分を阿多羅として扱うのなら、あえて今訊ねる必要はないだろうと判断した。
「ここへ来る方法を思い出されたという事は、ほとんど記憶が戻ったという事でしょう。ならば、あの時の約束も――」
「ええ、それは思い出しました」
ならば結構、と那美はにっこりと微笑む。余裕のある大人の笑みだった。
「ではすぐにでも、あの時の答えをお聞かせ願いたいところなのですが……、生憎まだ約束の期日になっておりません。それに阿多羅様の記憶もまだ不完全なご様子。それでは正しい答えに行き着かない可能性もあるでしょう。なので今は問いません。どうか期日まで、ゆっくりとお考えくださいませ」
那美は椅子から立ち上がり、ゆっくりと阿多羅に近づく。細くたおやかな手を伸ばすと、そっと阿多羅の頬に触れた。
白い肌には似つかわしくない熱があった。
そして、わずかに震えていた。
きっと、爆発してしまいそうな感情を必死に押し殺しているのだろう。すぐにでも答えを聞きたい。よくやったと褒めてもらいたい。もう二度と離れたくない。ずっと傍に居て欲しい。止め処なく湧き上がる想いが溢れ出しそうなのを、懸命に隠している。もし今心のままにしてしまえば、千年の努力が水泡に帰してしまうからだ。彼女は今、精一杯強がっている。阿多羅に向けて、自分がここまで成長したのだと披露しているのだ。
「はあ………………」
吐息が漏れる。拷問よりも激しい苦痛を耐え切り、理性が勝利した事を告げる声。那美は名残惜しそうに阿多羅の頬から手を離すと、一歩後ろに下がる。
「それでは阿多羅様、期日までどうかご熟慮を」
御機嫌よう、と優雅な手つきで那美は指を鳴らした。
気がつくと、阿多羅は屍會庁舎の前に立っていた。どうやら追い出されたようだ。どうせ今日はもう家に帰るつもりだったから、手間が省けたと言えるのだが、真っ直ぐ帰る気にはとてもならなかった。考える事があり過ぎる。
ため息が出た。
「……鎮魂歌にでも行きますか……」
庁舎を見上げる。最上階は、とても遠い。ここからでは、あの中に居る那美の姿は見えないだろう。
見えたところで、どうしようもない。
まだ答えは出ていないのだから。
阿多羅は庁舎に背を向けて歩き出した。
鎮魂歌に行くとは言ったものの、とても酒を飲む気分ではなかった。




