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やり直したい男

 一発の銃声が、夜の港に響いた。

 銃弾を腹に受けた男が、乾いた地面にどさりと音を立てて倒れる。少し間を置いてから、腹と地面の隙間から大量の血が湧き出した。

 十グラムにも満たない鉛の塊だが、人ひとりの命を奪うには十分足りる。そもそも銃とは、そういうふうにできている。

 だが奪ったのは相手の命ではない。

 粕野洋太郎かすのようたろうは、確かに引き金を引いた。

 だが、弾は出なかった。

 銃なんてどれも引き金を引けば弾が出るものだと思い込んでいたため、薬室チャンバーに初弾を装填するのを忘れていたのだ。自動拳銃オートマチックは、薬室に弾が装填されていなければ弾は出ない。弾の出ない拳銃に驚いている間に、洋太郎は相手に撃たれたのだ。

 こんな事なら銃の扱いをもっと詳しく聞いて、試し撃ちでもしておけば良かったと、今さらながら後悔した。だがこの町に流れ着いたばかりの彼は、隠れて拳銃を撃てる場所など知らないし、工夫を凝らす知恵も教養も無かった。

 それ以前に、何もかもが後の祭りだった。


 焼けつくような腹の痛みが、じょじょに薄れていく。もう手足どころか指一本動かせない。息をするのも困難になり、とうとう血を吐いた。

 腹から流れる血が底を尽きるのを感じながら、洋太郎は死を実感した。かすかに口に残る血の味が、妙に懐かしい。思えば、いつもこんな味を舐めていたような気がする。血の味は、苦渋に似ていた。

 意識はどんどん薄れてくるのに、やけに昔の事を思い出す。これがきっと、走馬灯というやつなのだろう。意外と冷静だった。


 洋太郎は生まれてすぐ施設の前に捨てられたので、両親の顔は覚えていない。覚えていたところで、自分を捨てた薄情な人間としか感じない。彼にとって親とは、自分以外の薄情な他人でしかなかった。むしろ居なくて清々している。

 だが洋太郎の親に対する気持ちとは裏腹に、世間の風は冷たかった。両親が無く施設育ちというので、事あるごとに同級生にからかわれた。それが原因でよくケンカをし、学校は彼に問題児というレッテルを貼った。

 そうした紆余曲折の末、彼は中学校を卒業を前に辞めた。学校を辞める日、腹いせに校舎の窓ガラスを手当たり次第バットで叩き割った。

 ただでさえ思い出したくもない少年時代だったが、こんなものはまだ序の口である。施設を飛び出してからは、さらにろくでもない日々だった。生きるためには何でもやった。最初はゴミ箱を漁る日々が続いたが、やがて確実に金が手に入る盗みや恐喝に変わった。

 まさにどん底で、青春と呼ぶにはあまりにも悲惨だった。しかし洋太郎とて、始めからゴミ箱漁りや悪事に手を染めていたわけではない。彼は何度も働き口を探してあちこち駆けずり回った。住み込みや食事付きなど贅沢は言わない。ただ働いて、金が稼げる場所を探した。

 だが見つからなかったのだ。

 義務教育を修了していないばかりか、両親や保証人もおらず、果ては住所不定の彼をどこが雇ってくれるというのだろう。洋太郎の素性を知った途端、警察に通報しようと受話器を取った雇用主がどれだけ居たか。

 素性を隠して働いた事も幾度かあったが、どれも長続きしなかった。一つの職場で長く働けば、人間関係などで素性が漏れる可能性が高くなる。それに中学すら出ていない彼に、長く働ける職場などなかったし、給料をピンハネされるのが常だったからだ。

 職を転々としていった彼が暴力団に辿り着いたのは、必然と言えなくもない。

 盛り場で知り合った男が、たまたま暴力団の組員だったのは、運命なのかもしれない。

 男は洋太郎の素性を聞くと、それならウチの組に入らないかと勧誘してきた。もはやまっとうな職に就く事などとうに諦めていた彼には、むしろ地獄で仏に会うようなものだっただろう。

 しかしそれには条件があると、男は声を潜めて言った。場所を変え、薄暗い路地裏で男が洋太郎に手渡したのは、一枚の写真と一丁の拳銃だった。

 男は言った。その銃で写真の人物を殺して来れば、自分から組長に取り入ってやると。

 つまり、手土産を持って来いというのだ。男の組は今、別の組と抗争状態にある。しかし昨今の暴力団取締り法などが邪魔をし、大きな出入りをするとすぐさま警察が動くし、場合によっては組が傾くほど検挙者が出る。

 そこで鉄砲玉を使い、敵対組織の要となる人物を暗殺する事となった。けれど組の者を使うと、何かと具合が悪い。男の組が関与しているという決定的な証拠が出れば、警察が動くどころか相手の組がヤケを起こして、全面戦争になる危険性もある。それでは共倒れだ。なので、鉄砲玉には組とは縁もゆかりも無い者が好ましい。

 そこにタイミング良く現れたのが、洋太郎である。彼はこの町に来てまだ間もないので、誰にも面が割れていない。知っているのは、今この場に居る男だけである。相手に警戒される事がないのは、暗殺には最も都合の良い条件だ。

 もし成功すれば、洋太郎は晴れて組の一員になれる。万が一失敗しても、男の組が裏で糸を引いている証拠は無い。たとえ証拠が無くても、男の組が関与しているのは状況からして明白なのだが、決定的な証拠もなしに動くほど向こうの組も馬鹿揃いではない。多少相手に火をつけるだろうが、失敗したところで男と組には何ら損失はないのだ。

 男の話を洋太郎は、両手に持った銃の想像以上の重量に震えながら聞いていた。いや、ほとんど耳には入ってなかったというのが本当だ。何しろ実物の拳銃なんて、触るどころか見た事さえ無い。映画やテレビの中でしか見た事がない、人を殺すための物体が、今自分の手の中にあるのだ。興奮すると同時に、これからこれで人を殺すのだという恐怖が、彼から正常な判断を根こそぎ奪っていた。

 もしあの時洋太郎に少しでも冷静さがあったのなら、男に銃を渡された時にきちんと使い方の説明を受けていただろう。

 さらに慎重さがあったのなら、一度マガジンを抜き、弾がちゃんと入っているかどうか確認しただろう。

 そして銃についての知識が少しでもあったのなら、スライドを引いて初弾を装填してから事に臨んでいたかもしれない。

 冷静さ、慎重さ、知識のすべてが欠けていた洋太郎が返り討ちに遭ったのは、当然の結果でしかない。そもそも場数を踏んだ相手とは違い、素人がいきなり実銃を持たされたところで、そうそう人に向けて引き金が引けるものではないし、何より簡単に当たるものではない。やはりこうなる運命だったのだ。

 やがて、なるべくしてなるように、洋太郎は冷たくなった。


 洋太郎の死体は男たちの手によって、鑑識などが使うような死体袋ボディバッグに入れられた。

 袋を車に常備するほど使う頻度が高いのか、男たちの手際は良く、良くも悪くもこの道のプロだと感じさせる。きっと洋太郎の死体は彼ら独自のルートで何らかの処理をされて、もう二度と表に出る事はないだろう。発見されたところで、身元不明の変死体という事で処理される。

 結局洋太郎が命を賭けてした事と言えば、彼らに少しばかり手間をかけさせたくらいだった。洋太郎は情けないと思うよりも、相手と自分の住む世界があまりに違う事に呆然としてしまう。

 死体袋を車のトランクに納め終えた車が去ると、

「あの~、お見送りも終わった事ですし、ちょっとお話してよろしいですか?」

 洋太郎の隣で喪服姿の男が、場にそぐわぬ明るい声を上げた。一瞬自分を撃った男たちの仲間かと慌てが、よく考えたら自分はすでに死んでいるし、目の前で自分の死体を生ゴミみたいに袋に詰めていた男たちは、まったく自分に気づいた様子はなかった。

「……あんた、何モンだ? 俺が見えるのか?」

「これはこれは、驚かせてすみません。わたくし、こういう者です」

 葬式帰りのサラリーマンにしか見えない男から渡された名刺には〝死告人 阿多羅紫紋〟と書かれていた。まったく読めなかったし、読めたとしても死告人の意味がわからない。

 すると男――阿多羅は洋太郎の表情を察したのか、慣れた口調で一から説明を始めた。


「ここまではご理解いただけましたか?」

 阿多羅は片手で丸い眼鏡の位置を直す。ぴったりと七三に分けた髪やら物腰やら、すべてが死神とはほど遠い男だった。どちらかと言うと、仏壇や墓石の訪問販売をしている方が似合っている。

「まあ、だいたいはな……」

「では粕野さん、何かこの世に未練などございますか? できるかぎり、ご要望にお応えさせていただきますよ」

 未練などいくらでもある。今さっき自分を撃ち殺した男を道連れにして欲しい、という未練もできたばかりだ。それから過去に遡って順に挙げていくと、一晩かけても終わりそうにない。

 だがまず晴らすべきは、やはり自分を捨てた両親への恨みだ。自分の人生を台無しにした最大の原因は、彼らである。何をさて置いてもこの恨みを晴らさなければ、成仏などできない。

「だったら、俺の親を地獄に叩き落してくれ」

「親御さんを? そりゃまたどうして?」

 また物騒な事を、と阿多羅は笑ったような顔をわずかに曇らせる。

「決まってんだろ。俺がこんな惨めな人生を送るハメになったのは、そもそもあいつらのせいだからな。あいつらさえ俺を捨てなけりゃ、俺だってもうちっとマシな人間になってただろうさ」

 施設に入れられたのも、周りからみなしごとそしられたのも。そしてまともな職にもありつけず、果てはヤクザの鉄砲玉と成り果てて撃ち殺されたのも、すべて親が原因だ。

 これまでの怒りや恨みを吐き出すように、洋太郎は阿多羅に己の過去を語った。

「どうだ……解かったか?」

「いやあ、解かりませんねえ。だって私が思うに、貴方がそんなになったのは貴方の責任ですから」

 息を切らせるほど熱弁したにも関わらず、阿多羅の答えは辛辣だった。

「てめえ、そりゃどういう意味だよ?」

「そりゃあ育った環境によっては、人生がほぼ決まっちゃってる人も居るには居ますよ。医者や政治家の息子とかね。それに外国などでは、貧しさのあまり犯罪に手を染めざるを得ない環境があるのも認めます。けど貴方の場合、自業自得でしょう。世間の冷たい風に耐え切れず、勝手に人生を転がり落ちただけなんですから」

「何だと。俺が悪いってのかよ!?」

「全部が全部とは言いませんよ。貴方の境遇には同情します。けど学校を辞め、施設を飛び出したのは貴方の勝手じゃないですか。だいたい、貴方と同じような境遇の人でも、まっとうに生きてる人はいくらでもいます。貴方がこうなったのはご両親や環境のせいではなく、全部貴方の責任なんです。まっとうに生きていける環境を捨てて、自分から落ちぶれたんですから。つまり、環境が貴方を変えたんじゃなく、貴方が自分の環境を変えたんですよ。自分でやった事を、他のせいにしないでください」

「ンだとこの野郎っ!」

 顔を真っ赤にして唾を飛ばす洋太郎だが、阿多羅はまったく怯んだ様子もなく、淡々と続ける。

「私もね、つい最近一度に両親を失った赤ん坊を見ました。その子も施設に入れられましたが、私にはその子が貴方のようになるとは思えません。何故なら、人の人生を決めるのは、環境だけがすべてじゃない――」

 そこで阿多羅は言葉を止め、首をひねった。自分で言った台詞の中に、何かひっかかるものがあったのだろうか。

「あれ? 環境で人が変わる。この台詞、どこかで……う~ん、思い出せない」

「おい、いきなりどうした? なに一人でブツブツ言ってやがる」

「……いえ、何でもありません。えっと、どこまで話しましたっけ? ああ、そうそう、ともかく、ご両親を恨むのは筋違い。甘えるなって事ですよ」

「筋違い? 甘えるなだと? いい加減な事を言うな!」

「まあ貴方の他に何が悪かったのかって訊かれたら、運が悪かったと答えるしかないですけどね。親は子を選べませんし、子供も親を選べません。どんな環境に生まれるか、どんな子供が生まれるかは運次第ですからねえ」

「畜生、そんなはずねえ! 俺がこうなったのは全部親と、俺を見下した周りの奴らが悪いんだ!」

 全部お前のせいだと言われ、洋太郎は激昂した。お前に何がわかる、と怒りに任せて殴りかかったが、阿多羅は情けない見かけとは裏腹に、いとも簡単に洋太郎の拳をかわした。

 すれ違い様に足を引っかけられ、洋太郎は無様に地面を転がる。痛みはない。だが地面に這いつくばると、これまで何度も味わった屈辱が甦り、悔しさと悲しさが止められないほど溢れてきた。

 立ち上がる力も気力も無かった。へたり込みながら、洋太郎は嗚咽を漏らす。もう何に対して怒っていたのか、誰に恨みをぶつければいいのかわからない。いや、そうではない。ずっと気づかないふりをしていた、自分の情けなさに気づいてしまったから。自分が落ちぶれた原因を、すべて自分以外のせいにしてごまかしていたのを、阿多羅に気づかされてしまったから、洋太郎はもう立てなかった。

 洋太郎の流した涙が、自分で作った血痕の上に落ちる。

 死人が流す涙は現世のものとは交わらず、油が水を弾くように玉となった。

「くそぅ、やり直してえ……。生まれ変わって、一から人生をやり直してえ……」

 食いしばった歯から漏れる、洋太郎の魂の声。すすり泣きながらの震えた声だが、それはたしかに本心からの願いだった。

 だが遅い。今さら後悔しても、いくら慙愧の念にとらわれようと、もう彼は死んでいるのだ。生きていればこそ、人生はやり直しがきくのだ。これこそまさに、取り返しのつかない過ちというものだ。

 だが絶望の淵に這いつくばる洋太郎の背に、

「ああ、それなら大丈夫です」

 何ともあっけらかんとした声がかけられた。

「何だって……?」

 顔を上げると、阿多羅が微笑んでいた。出会ってからずっと笑っているような顔だったが、その笑みはこれまでの張り付いたようなものとは違い、どこか温かい。

「貴方は生前の行いが悪かったので、魂にかなりカルマが溜まっています。なのでこれからその業を清めるために、あの世でお仕事をしてもらいます。なあに、時間は少々かかりますが、それが終われば綺麗な魂になって、また人に転生できますよ。お望みどおり、人生をやり直せるんです」

 呆然とする洋太郎の前に、阿多羅はゆっくりと右手を差し出した。彼の手を取ると、さっきまで二度と立ち上がれないと思っていたのが、驚くほどすんなりと立てた。

「ほ、本当か? 本当にもう一度、人生をやり直せるのか?」

「ええ。貴方にその気があるなら、一度と言わず何度でも」

「ありがてえ……ありがてえ……」

 阿多羅の手を両手で掴み、洋太郎は何度もありがてえと呻く。今度こそ、まっとうに生きよう。どんな境遇だろうと、世間がどれだけ冷たかろうと、自分の力で乗り越えてみせよう。

 決意が手に篭り、思わず力が入る。

「あいたたた……。そんなに感謝する事じゃありませんよ。人生なんて、その気になれば死んでからでもやり直せるんですから」

 痛いほど握られた手に、阿多羅は少しだけ眉をしかめながら、

(けどまあ、転生する際に前世の記憶は消えるんですけどねえ。この人が今日の反省を、来世に生かせればいいのですが……)

 などと身も蓋も無い事を考えていた。

(しかし、環境が人を変える……ですか)

 この言葉に、何か引っかかるものがある。だがそれが何かはっきりとしないまま、

(ま、いいか。忘れるような事なら、どうせ大した事ではないでしょう)

 阿多羅は難しい事を考えるのをやめた。


 自分から忘れた、大事なことだというのに。

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