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終わりの始まり

 幽世にそびえ立つ双角の塔。

 現世では都庁と呼ばれる建物の最上階は、屍會の者でも幹部のみが立ち入る事を許されている。

 二つの角のうちの片方は、展望室をそのまま会議室にしている。今その一室に、選ばれた者たちが一同にしていた。

 室内には、アルファベットのUの形をした巨大なデスクが据えられている。

 上座となるUの頂点には、当然屍會の長たる総裁が座している。両翼には五人ずつ、合計十人の幹部たちが顔を並べていた。皆一様に外套を目深に被り、表情はおろか年齢や性別すら判別できない。だが醸し出す雰囲気は、人を超えたものを感じさせた。

 これだけの錚錚たる顔ぶれが一同に集まると、それだけで空気が重い。さらにその歴々に囲まれるとなると、いったいどんな気持ちになるのだろう。

 流左京ながれさきょうは、今まさにそれを味わっていた。

「流、貴様なぜ無断で査定を行った? 今回は無用と言ったはずだろう」

 左翼末端の幹部が、重低音を利かせた声を上げる。空気だけでなく、聞いている者の魂まで震わせるような声だ。

「も、申し訳ございません……。ですが、今回の人事は保留とし現職を継続させたので、結果的には何も問題はないと思いますが……」

 監査の時にはあれだけ高圧的だった流だが、今は借りてきた猫のように萎縮している。それも当然。彼にしてみれば、両翼末端の幹部ですら雲の上の存在なのだ。ましてや上座の総裁など、もはや比べるのもおこがましい。

「フン、嘘をつくでない」

 右翼末端の幹部が鼻で笑う。老人のようなしゃがれた声に、流は凍りつく。

 他の幹部たちはぴくりとも動かない。まるで流のような小物の相手など、末端の幹部の仕事だと言わんばかりだ。

「おぬし、小娘に言い負かされて泣いて帰ってきたのだろう。何ゆえ素直に白状せん?」

「そ、そのような事は……」

 特務部として、幹部に次ぐ実権を与えられた者が、管理職にあるとはいえ一職員に足元をすくわれ、あまつさえ論破されたなどと口が裂けても言えるものか。しかも今回は独断で査定を執り行ったのだ。それもただ、自分の虚栄心を満足させたいがために。言えるわけがない。

「知らぬとでも思うたか。やはり知恵が浅い者は、何をするにも間が抜けておる。おぬしがいくら誤魔化そうが、この幽世にて我らの耳に入らぬ事などありはせぬというのに」

「も、申し訳ございません!」

 膝に額をぶつけん勢いで頭を下げる流に向けて、右翼末端の幹部はもう一度鼻を鳴らした。

 ほんの数秒の沈黙が、やけに長く感じる。下げた頭からぼたぼたと汗が流れるが、それどころではない。次に誰かが言葉を発した時、自分の命運が決まるのだ。

 ごくり、と流の喉が鳴る。判決を言い渡される囚人の心持の中、左翼末端の幹部がおもむろに口を開いた。

「まあいい、下がれ」

 判決は、無罪だった。死刑判決もありえただけに、流はまさに命拾いしたと安堵した。

「はい……それでは、失礼します」

 流はようやく頭を上げ、震える足でどうにか回れ右をする。

 幹部たちに背中を向けた途端、今まで張り詰めていた気が限界を迎える。自分でも気づかぬうちに、胸の中に溜まった澱んだ空気を一息に吐き出していた。

「待て」

「ひっ!」

 背後から呼び止める右翼端末の幹部の声に、流の吐息が逆流し、一瞬心臓が止まった。

「お前が下がるのはこっちだ。いや、落ちると言った方が正しいのかな?」

 感情の篭らない声で言うと、左翼末端の幹部はぱちんと指を鳴らす。

「与えられた役目を従順にこなしていれば良かったものを。借り物の権力を笠に被り、自分自身が大きいと錯覚したか? だからお前は無能なんだよ」

「ひぃっ……!」

 流の悲鳴とともに、景色が変わる。

 広い窓から見える幽世の景色は、今や血のような赤に。

 そして流の足元も血の紅に。

 これは地獄の風景。

 右翼末端の幹部が空間を操り、

 流左京を、地獄に〝落とした〟。

 ――阿多羅紫紋が毒島雄吾や交通事故を起こした若い夫婦にしたように。

「た、たたたたたたた助けてっ!」

 錯乱する流の足を亡者が掴む。亡者の手は瞬く間に増え、流を地獄の底に引きずり込もうとまとわりついた。

「お許しを! どうか、どうかお許しおぉぉォオヲぉっ……!」

 必死にもがきながら許しを請うが、彼の声はもう幹部たちには届かない。それでも流は狂ったように叫ぶ。だが亡者たちの力に抗えず、やがて血の池に沈んでいった。

 後に残ったのは、泡が弾ける音だけだった。


「千年ほどそこで反省しな」

 右翼末端の幹部が冷淡に言い放つが、総裁と他の幹部たちの反応はやはり無い。流の事など、最初から気にもとめていないのだろう。

「ひひっ。あの若造、なまじ我らに近しいばかりに、消滅する事も亡者に堕ちる事もできず、千年も地獄でもがき苦しむのか。これは愉快痛快」

 楽しそうに左翼末端の幹部が笑う。他人の不幸を喜ぶ下卑た笑声に、右翼末端の幹部がわずかに眉をひそめる。

「所詮は俺たちの従属。己の分をわきまえず、あのお方に働いた無礼の数々を考えれば千年ですら生ぬるいぜ」

「それは致し方あるまい。彼奴めは何も知らぬ。愚鈍な者に知恵を与えねば、愚行を重ねるのは至極当然」

「だから千年で勘弁してやったんだよ。出血大サービスだぜ」

「そう、千年と言えばそろそろ……」

「ああ。あのお方との約束の日が、もう間近に迫っている」

「千年。我らにとってはほんの瞬き一つほどの時間であったが、さてさて、あのお方にとってはどのような千年であったであろうのう?」

「それは、俺たちのような下々《しもじも》が思い致す事じゃあない。俺たちはただ、あのお方を見守るのみだ」

「流のような卑属を使って、あのお方にあれこれとちょっかいをかけておきながら、よくもまあそのような事をぬけぬけと。いったいどの口がぬかしおるか。ひっひっひ」

 あからさまに嘲笑され、右翼末端の幹部は口をへの字に曲げる。

「あれはだな、俺なりに良かれと思って――」

「千年……」

 鈴が鳴るような小さな呟きに、二人の会話がぴたりと止まる。

 若い女性の声だった。声の主を見るまでもない。声は、上座からしていた。

「私たちの許からあの方が去って、早や千年。いったいどれほどこの日を待ちわびたか……」

那美なみ様……」

 総裁の嘆くような声に、右隣の幹部が初めて声を上げる。またもや女性の声だった。しかも那美と呼ばれた女性の声よりも若い。むしろ少女と言っても良いくらいだ。

「約束の日はもうすぐです。せやからもうちょっとだけ、辛抱してください」

 少女の声に諌められ、総裁――那美は悲しみに結んだ口元を少し緩める。

「そうですね。あと少し……千年に比べたら、ほんの少しですね」

「それに、ぼちぼち記憶も甦って、うちらの事も思い出す頃ですわ。そしたら絶対戻ってきてくれはりますって」

 少女、らしき幹部が自信満々に笑うと、那美も優しく微笑んだ。

 あと少し――と那美は目を外に向ける。

 巨大な窓の向こうには、幽世の景色が広がっている。この数百年で、幽世もすっかり変わってしまった。

 こうも急激に変化があると不安を感じる。

 人の心もまた、変わってしまったのではないかと。


 エレベーターの扉が開いた途端、阿多羅紫紋は思わず「おや」と間の抜けた声を上げた。

「これはこれは有折さん。今お帰りですか?」

 広いエレベーターの中には有折の姿しかなく、独占状態だった。とっくに就業時間を過ぎているので、エレベーターの独り占めくらいは大して珍しくはない。それよりも、この庁舎に詰めている人数を考えれば、課の違う二人が鉢合わせるのは大した偶然だ。

「いや、私はまだ帰らんよ。それよりちょうどいい、君を探してたんだ」

 そう言うと有折は、阿多羅の腕を掴んで強引にエレベーターに引き入れた。

「あ、ちょっ……」

「どうせ帰ってもする事など無いのだろう。面白い物を手に入れたから、君も付き合え」

 文句を言う暇さえ与えずに断言すると、有折は指を『閉』のボタンにかけた。問答無用でエレベーターは、二人を乗せて上昇する。

「――で、面白い物ってなんですか?」

 乱れた服を直しながら尋ねると、有折は小脇に抱えていたぶ厚い紙束を突き出した。

「何ですか、それ?」

「実はさっき地下の資料室に行ってきて、屍會の社史を見つけてきた。もっとも現物は持ち出し禁止……というか、持ち出せるような代物ではないそうなので、プリントアウトしたものだがな」

「はて? ここの地下に資料室なんてありましたっけ?」

「……君は本当にここの職員か? 自分の職場の構造くらい、ちゃんと把握しておきたまえ」

「はあ……スチャラカ社員でどうもすみません」

 心底呆れたという顔をする有折に、阿多羅は申し訳なさげに頭を掻きながら応える。

「さすがは、有史以前から存在すると言われる屍會の資料室だ。役職者以外立ち入り禁止だったので、私も入るのは初めてだったが、あれは筆舌に尽くしがたい」

「と、言いますと?」

「まず規模が桁外れだ。地下だというのに、果てが見えないくらい広い。そこに棚が整然と並んでいて、まるで地下墓地カタコンベのようだったよ。それに蛍光灯があちこち切れていて、いい雰囲気を出していたなあ」

 有折は、まるでお化け屋敷から出てきた直後のように興奮して喋る。もっとも、屍會の職員は本物の死者の魂を扱っているのだから、お化けを怖がっているようではこの仕事は務まらない。

「で、だ。これだけの規模と量の中から、どうやって目的の物を探したものかと思案していたところにだな、ちょうど係の者が来たので訊ねたんだ。すると驚くなよ? 何と我が屍會も現世に倣ってデジタルに移行し始めたらしく、資料を古い順から端末に取り込んであったんだ。おかげでちょちょいのちょいと端末を操作したら、あっという間に目的の品が見つかったというわけさ」

 いつになく有折は饒舌だった。よほど地下の資料室で刺激的な体験をしたのだろう。たしかに地下墓地のような資料室の中で、有史以前の資料をデジタルで見られれば、阿多羅も興奮を覚えたかもしれない。

 そうこうしている間に、エレベーターは目的の階に着いた。扉が開くとそこは、二人がよく利用する喫煙室のある階だった。

 喫煙室には誰も居なかった。皆退社したのだろう。二人はいつもの紅茶を自販機で買ってから、椅子に並んで腰かけた。

「さて、ようやくここからが本題だ。覚えているか? 不死川課長の言った事を」

「さあ? 今日も今日とて小言を聞かされたので、何の事やら……」

 阿多羅がへらへらと頭を掻くと、有折は見るからに脱力したように肩を落とした。

「君が誘導課に残留が決まった時、不死川課長が言った言葉だ。屍會の上層部は、創立以来代替わりしていないという噂がある、という話をしただろう」

「ああ、たしかそんな事を言ってましたねえ。けど、それがどうしたんですか?」

 まだ話が見えていない阿多羅に、有折は「ああもう!」と苛立ちの声を上げる。

「もしその噂が本当だとしたら、それは上層部の連中が輪廻の輪から外れている可能性があるという事だろう!」

 阿多羅ははっとする。そこまで言われると、さすがに鈍い阿多羅でも有折の真意に気がついた。

「つまり上層部の事を調べれば、君が輪廻の輪から外れている理由が明らかになるかもしれない、というわけだ」

 有折はにやりと笑うと、ようやく紅茶の缶を開けた。一気に流し込むと、大きく息を吐き出す。

「というわけで、最古の社史から三冊目までをプリントアウトしてもらってきた。早速調べるぞ」

 飲み終えた缶を捨てに行くのももどかしく地面に置き、有折は資料を空いた椅子に広げる。だが社史というわりには文章テキストではなく、どうやら画像をプリントアウトしたもののようだった。

「有折さん、これ……」

「ああ……竹簡、だな……」

 まず目に入ったのは、竹を紐で繋いで板状にしたものに文字が書いてある『竹簡』というもののスキャン画像だった。画質が悪いので辛うじて文字が書いてあるのがわかるが、達筆過ぎる上に所々かすれていて、何が書かれてあるのかさっぱりわからない。

「ええい、スキャンするならちゃんとやれ! 次だ!」

 次にプリントアウトされたものも、画質はあまり良くなかった。だが竹簡に比べたら文字ははっきりと写っている。これなら何とか読めるだろう。

 読めれば、だが。

「有折さん……読めます?」

「石版に打たれたくさび形文字など読めるかあっ! 次!」

 最後もやはり画像だった。だが残り物には福があるのか、これまでで一番画質がいい。今度こそ期待が持てそうだ。

「有折さん……これ、日本語ですか?」

「……私に訊くな。何だこのミミズののたくったような文字が書かれた壁画は? こんなの歴史の教科書にも載ってなかったぞ……」

 期待はあっさりと裏切られた。なまじ画質が良いだけに、その文字の不可解さがはっきりと伝わる。譬えるなら宇宙人が残したメッセージのような、地球の知的生命体が書いたとは思えない形状をした文字だった。

「他にプリントアウトした社史はないんですか?」

「いや、端末にあった社史はこれで全部だ」

「ならもう一度資料室に行って、社史を直接調べさせてもらえば――」

 善は急げと立ち上がる阿多羅だが、有折は残念そうに首を振る。

「駄目だ。これ以外の社史は、まだ端末に入力されていないんだ。現物は馬鹿みたいに広い資料室の一番奥にあって、係の者が言うには、そこに辿り着くまでに何日かかるかわからないそうだ……」

「そ、それじゃあ……」

「ああ、八方塞だ」

 有折はがっくりと肩を落とす。彼女とて、まさか社史が解読不能な代物だとは夢にも思うまい。期待が大きかった分だけ、失望が大きいのだろう。

 そんな姿を見て、阿多羅は胸が痛んだ。自分の過去などどうでもいい。けれど自分のために社史を集めてくれて、だがそれが役に立たずにあんなにも悔しがっている有折のために、何としても諦めたくはなかった。

「クソっ! 直接訊ねようにも、私たちでは上層部に会う事すらできない。かといって資料室で調べるのは時間がかかり過ぎる。いったいどうすればいいんだ……!」

 苛立ちのあまり、有折は足元に置いてあった缶を蹴り飛ばす。缶は壁に向かって一直線に飛び、甲高い音を立てて跳ね返って阿多羅の足元へと転がった。

「直接――そうか、その手がありました。有折さん、まだ八方のすべてが塞がったわけじゃありませんよ」

 阿多羅は足元の缶を拾い上げると、片手で軽く投げては受け取るしぐさを繰り返す。

「……まだ何か手があるのか?」

「ええ。たしかに私たちにこの文字は読めません。だったら――」

 鋭く息を吐き、手に持った缶を勢い良く投げる。

「読める人に読んでもらう、というのはどうでしょうか?」

 阿多羅の投げた缶は、空き缶入れの小さな穴に吸い込まれるように飛び込んだ。


 翌日。阿多羅が有折を連れて向かったのは、総務課であった。

 有折も何度か入った事はあるが、総務課は特にこれといって特殊な業務をしているわけではない。職員全員が喪服を着ている以外は、現世の組織にもよくある総務課だ。それに特殊な人材が居ると聞いたわけでもない。

「本当にあの文字を読める人が、ここに居るのか?」

「そこまではわかりません。ただ、あの人なら読めるんじゃないかなあっていう程度です」

「ずいぶん頼もしい話だな……」

 期待して損したという意思を視線に込めるが、阿多羅は悪びれるふうもなく「いやあ」と照れる。

「けどまあ、亀の甲より年の功って言いますし、とにかく当たってみましょう」

 まったく意味がわからないまま、阿多羅に続いて総務課に入る。

 中は他の部署と何も変わらなかった。綺麗に並べられたデスク。忙しそうに行き交う人々。鳴り止まぬ内線のベル。そして飛び交う業務連絡。どこにでもある総務課の風景に、有折のただでさえわずかな期待がどんどん目減りしていく。

 勝手知ったる人の家、ではなくよその課で、阿多羅は慣れた足取りで総務課内をずんずん進む。やがて行き着いたデスクでは、タイトな喪服に身を包んだ妙齢の美女が端末を操作していた。

「誰かと思えば、遠間とおまさんじゃないか」

 有折は阿多羅の脇腹を小突く。総務の遠間麻耶とおままやなら有折も面識があるが、彼女にこれといって特殊な技能や知識があるとは思えない。まさか彼女が阿多羅の言う『あの人』なのだろうか。

「ええ。彼女ならきっとやってくれますよ」

「いや、その根拠がまったくわからんのだが……」

 唖然としている有折をよそに、阿多羅が「どうも、遠間さん。ご無沙汰してます」と軽く手を上げて挨拶すると、麻耶は端末から目を離してこちらを見た。

「あら阿多羅ちゃん、久しぶり。はべりちゃんとお揃いなんて、珍しいわね」

「ちょっとお願いがあるんですけど、今お時間はよろしいですか?」

「なに? また移動の手続き? あんたも大変ねえ。ちょっと待って。今書類を出すから……」

 麻耶は整った眉を不憫そうにひそめると、デスクの上に置かれた書類別収納棚から移動手続の用紙を取り出そうとする。

「いえ、今日は違うんですよ」

「まあ、じゃあとうとう解雇? いやあねえ、じゃあ退職手続の用紙はっと……」

「いえいえ、そうでもないんですよ」

「違うの? だったらいったい何の用よ?」

「実はですね、これを遠間さんに読んで欲しいんですよ」

 阿多羅は有折を促し、プリントアウトされた社史の束を麻耶に渡してもらう。

「何これ?」

「屍會の社史です。実はちょっと調べたい事があるんですが、書かれている文字がどうにも読めなくて困っていたんですよ。で、遠間さんならひょっとしたら読めるんじゃないかと思って」

「ちょっとお、あたしは翻訳家じゃないのよ。いくら総務だからって、何でもかんでもできると思わないでよね」

「それは重々承知してますよ。けれど我々が頼れるのはもう遠間さんしかいないんです。助けると思って、とりあえず中を見てください」

 不平を鳴らす麻耶だったが、阿多羅が両手を合わせて拝むように頼むと、渋々書類の束をぺらぺらとめくり始めた。

 しかし竹簡とくさび形文字の社史をめくり終える頃には、麻耶の顔は不満から申し訳ないという表情に変わっていった。彼女の眉が寄っていくにしたがって、阿多羅たちの肩も下がっていく。

「う~ん……気の毒だけど、やっぱりあたしじゃお役に立てそうにないわねえ……」

 半ば諦めていた麻耶だったが、最古の社史の項をめくった時、彼女の眉が驚きでぴんと跳ね上がった。

「あら、懐かしい。これ神代文字じんだいもじだわ」

 麻耶のその一言で、有折の眉が彼女以上に跳ね上がる。

「こ、これがあの、神代かみよの時代に使われていたと言われる神代文字なんですか?」

「さすがはべりちゃん、博識ね。そう、これがその伝説の文字よ」

「知識では知っていましたが、本物は初めて見ました。てっきり伝説だとばかり……」

 有折の声は震えていた。古文書などでしかお目にかかれないような伝説の文字が、よもや社史で拝めるとは夢にも思っていなかったのだろう。もちろん、くさび形文字で書かれた社史にしたって、そんなものが存在するのは屍會くらいのものだろうが。

「あら、人間が生まれる前は神様の時代だったのよ。そもそも人間どころか、この世界を創ったのが神様なんだもの。神様が使う文字があったって別に不思議じゃないわ」

「ちょっと待ってください。神様というのは、神話やおとぎ話の中だけの存在なのでは?」

「ん~、神様って言うと何だか仰々しいけど、それに近いものはたしかにいたわ。天地開闢から存在し、この宇宙はおろか森羅万象を創造した――まあ一般的にはそれを神って言うんだけど――彼らは実在した。それは事実よ」

「はあ……、なんだが突拍子もない話ですね。私にはとてもじゃないけど、ついていけそうにありません……」

 きっぱりと断言する麻耶に、有折は全身の力が抜ける。非常識な組織に籍を置きながらも、やはり有折は常識人なのだ。いきなり『神は実在した』などと明言されても、信じられないのは当然だろう。

「まあまあ、神様の話はちょっと置いといて、今はこの文字の話をしましょう」

「そ、そうだな」

 普段なら脱線させる側の阿多羅に軌道修正され、有折は気を取り直す。

「それで遠間さん、ここには何と書かれているんですか?」

「さあ?」

 驚くほど素っ気ない返答に、阿多羅と有折はそろって「へ?」と間の抜けた声を上げる。

「え? いやだって遠間さん、この文字が読めるんじゃないんですか?」

「読めないわよこんなの。あたしはこの文字が神代文字だって知ってるだけ。アルファベットの存在を知ってるだけじゃ、英語は読めないでしょ? それと同じよ」

 もっともな意見なようで、何となく屁理屈な気がしないでもない。とはいえ勝手に期待したのは阿多羅たちなのだから、あてが外れてがっかりするのも筋違いというものだ。

 しかしながら自然に滲み出る失望感は隠しようもなく、阿多羅と有折は無言のまま肩を落とした。

 初めて見る落胆した阿多羅の姿に、麻耶は申し訳なさそうに声をかける。

「……ごめんなさいね、お役に立てなくて」

「いえ、遠間さんの責任じゃありませんよ。むしろ謝るのはこちらの方です。お時間を取らせて、申し訳ありませんでした……」

 これまで何度も移動を言い渡され、麻耶の所に書類を貰いに来た阿多羅だったが、一度たりともこんな姿は見た事がない。常に笑顔を絶やさず、何にもめげないこの男が、ここまで気を落とすとはよほどの事なのだろう。

「あんたたち、これで何を調べようとしていたの? 良かったら教えてくれない?」

 見るに見かねて麻耶が訊ねるが、阿多羅は「ここではちょっと……」と都合が悪そうな顔をする。

「わかったわ。場所を変えましょう」

 そう言うと麻耶は端末を操作して待機状態にすると、親指で総務課の外を指差した。


「それで、いったい何を調べようとしてたの?」

 給湯室に場所を変え、麻耶は再び阿多羅に訊ねる。総務課内では言いにくかった事でも、ここなら誰の目も耳もない。ようやく話す気になったのか、阿多羅は麻耶に事情を語り始めた。

「なるほどね……。それで社史を調べようとしていたのね」

「屍會の上層部の事がわかれば、少しは私が輪廻の輪から外れている謎が解明できるかと思ったのですが……」

「それで自分よりも古株で、しかも上層部に絡んでそうなあたしに目をつけたのね?」

 つまり、阿多羅は最初から情報を聞き出すために、麻耶に社史を見せたのだ。

 事情を飲み込んだ麻耶は、一点して鋭い目で阿多羅を睨む。艶のある切れ長の目がさらに細くなるだけで、男でも背筋が冷たくなるような視線になる。しかし阿多羅は持ち前の張り付いた笑顔と、厚い面の皮でそれをはじき返した。

「ええ。罠にはめるような形で申し訳ないとは思ったんですけど、私も形振り構ってられませんでしたからねえ」

「ちょっと待て。遠間さんがお前よりも古株だと? そんな話は聞いた事がないぞ!」

 寝耳に水な話に、これまで沈黙していた有折が突然声を張り上げる。だがすぐに辺りを気にして口をつぐんだ。

「それはね、はべりちゃん。これまでばれないように、あたしが巧妙に手を尽くしていたからよ。だいたい、女がいつまでも同じ職場にいたら、お局になっちゃうじゃない。あたしはそういうのはやーよ」

 たいていの人間は、百年もすれば業を清めて幽世から現世へと転生していく。なので麻耶は百年ごとに、長期の休暇をとったり部署を移動したりしていたのだ。そうすれば自分の事を知る人間はことごとく居なくなり、常に新人として屍會の中で活動できるという寸法だ。

「けど、まさか百年以上幽世に居続ける例外が存在したとはね……。あたしもこればっかりは予想外だったわ」

「それが阿多羅と不死川課長、ですね?」

 ごくりと唾を飲み込みながら答える有折に、麻耶はにっこりと「正解」と言った。

「まったく、あのボウヤにも困ったものだわ。新人の頃は初々しくて可愛かったけど、あたしが六千五百万年以上もここにいるって知った途端、『総務のババア』呼ばわりだもの。ま、ぺーぺーの頃の恥ずかしい失敗談とか色々握ってるから、あたしの秘密までは口外しないけど。それにしてもババアは失礼しちゃうわあ」

「なるほど……たしかに不死川課長は失礼――って六千五百万年? 阿多羅よりも長いのですか?」

「阿多羅ちゃんはせいぜい千年くらいよ。あたしに比べたら、まだまだヒヨッコね」

 豊かな胸を反らせて自慢するが、有折は目を丸くしたままわなわなと震えている。やはり単位がケタ違いなのだろう。六千五百万年前と言えば、諸説あるが人類誕生とほぼ同時期である。

「ろ、六千五百万年って……古株ってレヴェルじゃないでしょう。遠間さんは、いったい何時代の人だったんですか?」

「あたしはこの世で最初の死人なの。だからそのせいで上層部に色々と押し付けられるわ、輪廻の輪から外されるわで、もう大変なのよねえ。あーあ、あたしも一度くらいは転生したいわあ」

 神代の時代が終わり、人間の時代がやってきた。その時、最初に幽世へとやってきたのが遠間麻耶だった。それまでの幽世はまったく人間がおらず、屍會という器だけが存在していた。そこで最初の屍會職員となったのが、麻耶なのである。

 最古参の麻耶は、屍會の業務のすべてをこなす事ができるが、もちろん最初から彼女一人ですべてを執り行ってきたわけではない。

 先述のとおり、人間の魂は百年ほどで現世へと転生してしまう。だがタイミングが悪く、業務の半ばで転生してしまう職員がごくまれに出てしまうのだ。その中継ぎとして、残った職務を処理するのが麻耶の役割である。屍會の上層部は、組織に人が増えた時の事を考えて、最初に幽世にやってきた麻耶にすべての業務を覚えさせたのだろう。

「まったく参ったわよ。抜けたバイトの穴埋めなんて、使い勝手のいいパートタイマーみたいじゃない。体よくこき使われてやってるんだから、長期休暇でも貰わないとやってられないわよ」

「それじゃあ、遠間さんは上層部の人間と会った事があるんですか?」

「ううん、あたしが幽世に来た頃には、上の連中はとっくに奥へ引っ込んでたから一度も会った事がないわ。実際あたしに業務を叩き込んだのは、流みたいな上には媚びへつらっているくせに、下には偉そうにするいけ好かない連中ばかりだったし。ホント、今思い出しても腹が立つったらありゃしない」

 新人時代を思い出し、麻耶は怒りを再燃させる。しかし六千五百万年前の事を未だに覚えているとは、よほど当時こき下ろされたのだろう。

「しかし、最初の死人である遠間さんが来る前から、屍會が存在していたなんて。いったい何のために……?」

「もちろん、先客が居たんでしょう」

 有折の漏らした疑問の声に、阿多羅が不相応な軽い声で答える。

「先客って、まさか――」

「ええ、神様だって完全無欠じゃありません。当然、いつかは死ぬでしょう。私が思うにこの屍會は、その神様たちが現世で死んだ後、この幽世という世界で創った組織なんじゃないでしょうか」

「何だって……。じゃあいったい何のために、そんな組織を創ったって言うんだ?」

「そこまでは私にもわかりません。そもそも、これはあくまでも私の推論ですからねえ。本当のところは、直接本人たちに訊くしかないでしょう。もっとも、それが叶うなら最初からこんな苦労はしてませんが」

「だがもしその仮説が当たっているのだとしたら、屍會の上層部は神……少なくとも人を超えたものという事になるぞ」

「そうなりますね。やれやれ、話がどんどん大きくなってきて、少々混乱してきましたよ」

「ああ、私もだ……」

 神代文字で書かれた社史。人類史よりも遥か前から存在していた組織と上層部。これだけ条件が揃うと、どうしても神とか創造主などという言葉を連想してしまう。

 いったいこの屍會という組織には、どれだけの謎が隠されているのだろう。

 そして、阿多羅紫紋はどうして輪廻の輪から外れているのか。

 屍會の社史を調べれば、何かわかるかもしれないと始まった調査は、反って謎を深める結果に終わってしまった。


 麻耶と別れ、二人はそれぞれの部署へと戻るべく揃ってエレベーターに乗った。その中で、有折がぽつりと呟く。

「……今思ったんだが、やはり君が輪廻の輪から外れているのは、上層部と何か関係があるのかもしれないな」

 突拍子もない話に、阿多羅は常時笑っているような顔をさらに笑顔にする。

「まさか。もしそうだったとしたら、もう少しマシな待遇になってますよ」

「いや、遠間さんが百年毎に部署を変えたり長期休暇を取ったりしているのが、君が監査で移動させられているのに似ていると思ってな……」

 言われてみれば、たしかにそうだ。これまで幾度となく部署を変えさせたのは、もしかすると同じ部署に長く居て、周りに不信感を与えないための配慮なのだとしたら――。

 だが阿多羅はすぐにその考えを振り払う。記憶がない自分がいうのもなんだが、自分と上層部に繋がりなどないはずだ。

「だとしても、上層部がそこまで私に気を遣う理由が思いつきませんよ」

「それもそうだな。きっとこれまでの移動も、君の日頃の行いが悪かったのだろう」

「有折さん、それはちょっとキツいですよ……」

「ははは、まあ許せ。だが私はな、君には死告人が一番適していると思う。だからもう二度と、移動にはならないだろう」

 からからと有折は笑うが、彼女の目は嘘を言っていない。本当に心からそう思っている目に、阿多羅は何だか照れ臭くなる。

「本当にそうだといいですね。私も死告人を辞める気は毛頭ありませんし」

 エレベーターが、転生課のある階に到着する。扉が開く瞬間、阿多羅はプリントアウトした社史を自分が持っている事に気がついた。

「有折さん、これ、どうします?」

「ああ、それか。もう必要ないな。こちらで処分しよう」

「良かったら、貰ってもいいですか?」

「別に構わないが……。どうするんだ?」

「いえ、ただ何となく。記念にとっておこうかと」

「読めもしないものをとっておくなんて、変わった奴だな。まあ、いらなくなったら適当に処分しておいてくれ」

「わかりました。ではいただきます」

「じゃ、私は仕事があるからここで。また時間があったら飲みに行こう」

 軽く手を上げると、有折はエレベーターから降りる。阿多羅は紙束を抱え直すと、『閉』のボタンを押した。

 音もなくドアが閉まるその直前、誰かの手が扉を掴んだ。ドアは安全装置に手がかかったため、急停止して再びゆっくりと開く。

 そこには、降りたはずの有折が立っていた。

「あれ? どうしたんですか?」

「いや、その……なんだ……」

 有折は何やら言い難そうに口を曲げた後、力一杯阿多羅の肩を叩いた。

「気を落とすな! な!?」

 それだけ言うと、有折はさっさと背を向けて行ってしまった。

 扉が閉じると、後に残ったのは肩の痛みだけ。いや、有折が精一杯残した励ましも残っていた。阿多羅は彼女の照れ臭そうな顔を思い返しながら、脇に抱えた紙束をめくってみた。

 相変わらず意味不明な文字である。本当にこれが神代文字なのだとしたら、神様というのは字が下手なのではないだろうか。そう思えるほど、人智を超えた形状の文字だった。

 やはり読むのは無理か――そう思って紙束を閉じようとしたその時、阿多羅は自分の目を疑った。

「屍會総裁、伊佐那美いさなみ……」

 そこだけ現代文字で書かれていたわけではない。

 だが、読めた。

 昨日までは確かに読めなかったはずの文字が、今読めたのだ。

 驚いたのはそれだけではない。

 伊佐那美という名前に、文字に、響きに、どこか覚えがあるのだ。いや、うっすらとではあるが、その人物の面影さえ覚えている。

 はっきりとは思い出せないが、遠い記憶のようなあやふやな陰影。けれどこれだけはわかる。

 自分は、この伊佐那美という人物を知っている。知っているはずなのに、思い出せない。ぼんやりとした記憶の中で、言い表せないような懐かしさだけが、自分とこの人物が繋がっている事を感じさせる。

 突然湧き上がった奇妙な感覚に、阿多羅は戸惑いを隠せなかった。

 気がつけば、エレベーターは誘導課のある階に着いていた。

 が、阿多羅は硬直したまま動かない。

 エレベーターは、手にした社史を凝視したままの阿多羅をよそに、ゆっくりと扉を閉じていった。

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