気を遣う男
気を遣う男
雲間から覗く月と街灯が、地面に横たわった人影を静かに照らしている。
深夜の郊外の、人気のない裏路地に寝そべった男の姿は、あまり現実味がない。だが男と地面の隙間から染み出す赤い水溜りは、奇妙な生々しさを醸し出していた。
(意外と綺麗に残るんだな……)
四階建てのビルの屋上から下を見ながら、音無静生はそんな事を考えていた。
眼下に転がる男は、静生の立っている位置から見ても一目でサラリーマンだとわかるような姿形を保っている。月明かりと街灯に照らされた、ここまで臭ってきそうな血溜まりさえなければ、デパートのマネキンが棄てられていると見間違えるだろう。
静生が立っている屋上の縁には柵がない。傍から見れば、彼が男を突き落としたように見える。
だがそれが間違いである事は、当の静生が一番良く知っている。
屋上の縁には、まだ新しい革靴がきちんと揃えられていた。そして地面に横たわる男の足は靴下のみ。遺書は見当たらないが、これは投身自殺だ。
静生はビルの屋上からじっと、飛び降り自殺した死体を見ていたのだ。
死体を生で見るのは初めてだ。よく投身自殺した遺体は「潰れたトマトのようだ」などと表現されるが、眼下の死体は遠目で見ているし、これまでネットのグロテスクな画像やテレビの衝撃映像などで免疫ができているおかげか、幾分ましに見えた。
「いやあ~、何とか間に合った」
「うわぁっ、びっくりした!」
いきなり背後からした男の声に、静生は思わず飛び上がる。真上に飛んだから良かったが、下手をしたら死体の上にダイブするところだった。
「はいちょっとごめんなさいよ」
場違いな軽い声とともに、男は静生の横にしゃがみ込んで地上の死体を覗き込む。
「ほ~、こりゃ自殺ですね。けどまあ、飛び降りた場所が低かったから、遺体もキレイなもんです」
男は下を覗き込んでいるためにずり落ちる丸い眼鏡をしきりに直しながら、ニコニコと飛び下り死体を見ていた。
この男はいったい何者だ。どうして自分に話かけるのだろう。それに死体を見て、何がそんなに楽しいのかと静生は不審に思ったが、よく見ると男は元から笑っているような顔立ちだった。
「こんな低いビルから飛び降りるなんて、よっぽど気の小さい人だったんでしょうねえ」
「……はあ」
生返事をしながら静生は、隣で縁に手をかけて下を覗いている奇妙な男を観察する。
喪服を着ているから、警察や警備員ではなさそうだ。葬式帰りのサラリーマン、というところか。
だが、このビルに入っているテナントの社員ではないだろう。こんなエレベーターもないようなオンボロビルに、髪をぴったりと七三に分けた、役所か銀行にでも勤めていそうな男がいるわけがない。
「靴はきちんと揃えているけれど、遺書は見当たらない。恐らく衝動的な自殺……服装から、きっと会社で何かトラブルがあったか、クビになったサラリーマン。靴もスーツもまだ新しいですし、新入社員ってとこですかねえ。いやはや、切ない話です」
静生はまたも「はあ」と返しつつ、腹の中では冷や汗をかいていた。
何なんだこいつは。まるで探偵か鑑識みたいじゃないか。たったこれだけの状況を見ただけで、どうしてそこまで判るのか。
驚くと同時に、背筋が寒くなる。だが男を気味悪いと思いながらも、その正体を知りたいと思う自分がいた。
これまでの静生は小心者で、初対面の人に自分から話かけるなんてできなかった。だが今は違う。内気だった音無静生はもういない。ここに立っているのは、もうあの頃の彼とは違うのだ。
「あの……」
静生は意を決して、男に話かけてみた。
「はい?」
「どうして……そう思うんですか?」
すると男は顔を上げ、また眼鏡をくいっと右手の人差し指で持ち上げて、にっこりと笑った。自殺現場にはとても似つかわしくない人懐っこい笑顔に、静生は思わず愛想笑いを返す。
「いやあ、飛び降り自殺するってのにね、このビルじゃあ若干低いんですよ。そりゃあできない事はないし、実際この人は成功しちゃってるわけなんですけど。でもね、飛び降りにしろ他のにしろ、自殺ってのは失敗――つまり死に損なうのが一番厄介なんですよ。首吊りや服毒だと脳や臓器に障害が残るし、電車への跳び込みや飛び降りは、中途半端に生き残ると反って辛いですからねえ」
「なるほど……」
「でもね、この人の場合ちょっと違うんですよ。時間も場所も、意図しているフシが見られます」
「え? けどさっき、衝動的な自殺だって言ってたじゃないですか」
「自殺は衝動的なんですが、実行する際に性格が出ちゃってるんですよ。衝動的なのに意図的、ってのはおかしな話ですけどね。まずね、衝動的なら会社で何かトラブルがあった直後、つまり昼間か夕方に自殺を決行しますよね。けれど今は深夜。それに確実に死ぬために、もっと高い所を選ぶはず。けどこの人はそうしなかった。どうしてだと思います?」
どうしてか、と訊かれても静生はそれに答えられない。
男は静生が返答に窮しているのをニコニコと見ていたが、やがて時間切れとばかりに続きを語りだした。
「つまりね、気を遣っちゃったんですよ。飛び降り自殺はね、たまに運悪く巻き込まれちゃう人がいるんです。自殺した人の下敷きになるっていう、アレです。だからこの人は、あえて誰も出歩かない深夜に、郊外の辺鄙なビルの屋上から飛び降りたんです。しかもさらに用心して、下に人が歩いていないか見えるように低いビルを選び、街灯の灯りで誰も居ないのを確認した後で。衝動から自殺決行まで時間差がかなりあったのは、きっと条件に合う場所を探してあちこち奔走していたのでしょう。よく途中で気が変わらなかったものだと、ある意味感心してしまいますよ」
まるで自殺する現場を見てきたかのように語る男に、静生は目を丸くした。
「そ、そこまでわかるんですか……?」
驚きの声を上げる静生に、男はにんまりと「わかりますよ~」と間延びした返事をする。
「あの……貴方もしかして、探偵ですか?」
恐る恐る尋ねると、男は細い目をさらに細めて笑った。
「いやいやいやいや。探偵なんてそんな、滅相もない。そう言えば申し遅れましたが、わたくし、こういう者でして――」
そう言って男が一枚の名刺を差し出す。
「あ、どうも……」
名刺を受け取った静生だが、社名と名前が読めずに首をかしげる。
「死告人、阿多羅紫紋って読むんです。まあたいていの人は初見で読めませんから、気にしないでください」
「はあ、どうも。それで、その……死告人というのは、どういったご職業で?」
「文字通り、死を告げる人です」
「はあ……?」
「私の仕事はですね、死んですぐの人に、あの世に行く前の心構えなんかをレクチャーする、いわゆる死後のインストラクターみたいなものです。まあお笑いで言うところの、前座や前説みたいなものですね。で、その後に魂を現世から幽世に誘導するんですけど、中にはいるんですよ。自分が死んだ事を受け入れられずに、この世に残ろうとしちゃう霊魂が。で、私のような死告人が懇々と説得したり、なだめすかしたりしてあの世へ向かう覚悟を決めていただく、というわけです」
あの世とか魂とか、昨日までの静生なら一笑に付していただろう。けれど今は、素直に受け入れる事ができた。それは男――阿多羅の、妙に人を和ませる笑顔のせいではない。ただ彼には、阿多羅の話が荒唐無稽な絵空事ではないと実感できるのだ。
「つまり……死神みたいなものですか?」
「いやいや、あれは空想上のものですよ。別に私、骸骨じゃないし、刀や大鎌なんか持ってないでしょ? それにこの二十一世紀の時代に死神なんて、時代錯誤も甚だしい」
「ですよねえ……」
静生は素直に感想を漏らす。阿多羅はどう見ても死神というよりは、役所の窓口にいるようなタイプだ。
「それで、音無静生さん。貴方、どうして飛び降り自殺なんかを?」
阿多羅は細い目を少しだけ開けて、静生をまっすぐに見つめる。
「え……?」
いきなり核心を衝いた問いに、わずかにうろたえた静生だったが、阿多羅の全部見透かしたような眼に観念し、ぽつぽつと事情を話し始めた。
「学生気分が……抜けなかったんでしょうね。毎朝起きられずに遅刻ばかりで、とうとう今朝は上司を怒らせて『お前はクビだ』って言われたんです」
「それはそれは……ご愁傷様です」
「この就職氷河期にどうにか入れた会社なんで、両親はとても喜んでいたんですよ。けどこんな馬鹿ばかしい理由で解雇されたなんて、とても言えなくて……」
「それで自殺ですか」
静生は静かに頷く。
期待に輝いていた両親の顔が、絶望に変わるのを見たくなかった。
しかしそれ以上に、両親の悲しみがやがて怒りに変わり、最後には軽蔑となって自分に返ってくるのが怖かった。
だからこのビルから身を投げた。
しかし生来の気の小ささから、死してなお心を残して、成仏しきれずにいたのだ。
「私もね、時間にルーズなほうで、よく遅刻して上司に怒られるんですよ。別にね、遅れたくて遅れてるわけじゃあないんです。で、いつも言われるんです。『今度遅刻したらクビだ』ってね」
「もしかして、今回も危なかったんですか?」
そういえば、静生は三十分くらい自分の遺体を眺めていた。随分と時間に無頓着な死告人もいたものだ。
「ええもう、遅刻しちゃったかと思って冷や冷やしましたよ。でもまあ、管理課も私が遅れるのを見越して、ゲタを履かせた時間を連絡してくるんですけどね。私、遅刻常習犯で有名人ですから」
「そうなんですか……」
悪びれもなく笑う阿多羅につられ、静生も笑みをこぼす。
「けど、もし遅刻してたらどうするつもりだったんですか?」
「その時はその時で、上司に土下座でも何でもしますよ。駄目なら駄目で、素直に転職先を探します。この世で本当に取り返しがつかないのは、命くらいですから」
「そうですね……もっと早く、それを知っていれば良かったです……」
静生は自嘲を込めて苦笑する。歯を噛み締めて俯き、その目には後悔の涙を滲ませて。
「来世で挽回しましょう。命だって、意外と何とかなるものですから」
だが阿多羅はあっさりと、何とかなると言った。
「え…………?」
そのあまりのあっさり加減に、静生の体から力が抜ける。一瞬、阿多羅が場を和ますために冗談を言ったのかと思った。
「何とか……なるんですか?」
「ええ、なりますよ」
またもやあっさりと返す阿多羅。
「いや、さっき取り返しがつかないって言ったじゃないですか」
冗談はほどほどにしてくれという顔をする静生に、
「この世では取り返しがつかないと言いましたが、あの世でもそうだとは言ってないでしょ?」
阿多羅は悪戯っ子のような笑顔で言った。
「来世に期待しましょう」
呆然とする静生に、阿多羅はそっと右手を差し出す。表情は相変わらず笑ったままだが、さきほどとはまるで違う、とても優しい笑みだった。
「はい」
静生も笑顔で阿多羅の手を握る。
笑いながら、泣いていた。




