『実』
あの日は忘れもしない、高校一年の最後の終業式の日だった。
体を激しく揺すられて目が覚めた。
心臓が宙に浮かぶ感覚に襲われ、一気に危機感と焦燥に駆られた。
「実、あんた何してんの?」
二段ベッドの一階に足を掛けてベッドに顔を出した母がいった。呆れているというよりは不思議な顔でおれの顔を眺めている。
「いま何時?」
「九時過ぎだよ。」
「やばいよ。遅刻だよ。」
「知ってるわよ。いま、先生から電話きているもん。」
「でんわぁ?」
おれは散らかった頭の中を整理できないまま母に聞き返した。だが、母は返事もせずにおれの部屋から出て行った。
時間を見ようと携帯電話を手に取った。メールが二通来ているのと九時を過ぎているのを確認する。八時四十分までに教室内にいなくてはいけないのだから、どうやっても遅刻だ。メールは藤原と名倉からおれの遅刻をからかうメールだった。
そうか、おれはもう遅刻決定者か。不思議と遅刻が決定すると焦りがなくなり、精神的な緊張感が解けたのを楽しむようにボケっと二段ベッドの二階で座って部屋を眺めた。
ベッドが二段ベッドなのは小学生まで兄と使っていたお古だからだ。兄は新しいベッドを買ってもらい、「もったいないから」という理由で古い二段ベッドはおれが引き受けることになった。兄が「下の階が物置になるから便利じゃん」と愉快そうに笑っていたのが気にいらなかったが、二番目に生まれてきた宿命や家の金銭的な事情を考慮すると強く断ることはできなかった。だが、兄の言う通り二段ベッドの下の階は物置になり、中々便利なものだった。
窓際に二段ベッドが設置してあるので手を伸ばすとカーテンレールがある。その上には五冊ずつに小さな塔にされた漫画が五列に整列されていた。遅刻の原因はこいつにある。深夜の四時までこの野球漫画を読み返していたのが原因だ。
正面にはもう一つ窓があり、そのカーテンレールの上には『実』と書いた色紙が飾られている。
「なんで、自分の名前を書いた色紙なんて飾っているんだ?」と兄に怪訝な顔をされたことがあった。「別に特に深い理由はない。ただ、書道の時間に書いたからなんとなく飾っているだけだ。」と答えたが、飾っているには浅い理由があった。
あれは十一月頃だ。つまり、あの『事件』の後のことだ。
「ねぇ、なに書く?」
ドン、ドンと机をリズム良く叩いて悠子がいう。
「えっ」おれは一瞬戸惑いを見せながらも精一杯それを隠しながら「そうだな。」と硯に墨を擦る手を一旦止めて考える素振りを見せていた。
墨の匂いが漂う書道室は騒がしい。書道の担当の教師に威厳がないからなのか、実習ということが生徒に自由を手に入れたと勘違いをさせているのか、書道室は異常に騒がしかった。縦横無尽に歩き回る生徒もいれば、教師に無断でトイレに立つ生徒もいる。五十代の女教師が大きな声で生徒を宥めようとするが「ああ、おばあちゃんが何か言っているよ」と鼻先で笑う生徒が大半だった。
この日の課題は今まで半紙に練習してきた文字を色紙に書いて提出するというものだった。
おれは前回の授業で墨汁を使い果たしたので墨で墨汁を作るところからのスタートだった。懸命に硯に向かって墨を擦りつけているとき、机から音が鳴った。
「やっぱり、『実』でしょ。」悠子が体ごとこちらに向けていう。短いスカートから見える足が白くて細く、綺麗だった。
「なんで?」おれは目を丸くさせ、心臓がとび跳ねた。好きな女の子が自分の名前を発するだけで艶めかしさがあるとは、人間の神秘に触れたような気がしていた。
「なんでって」悠子は嬉しそうに笑った。「だって、君の名前じゃない。」
「ああ、うん。」おれは途方に暮れた声を出す。「そうだけど。」
確かに課題の文字の中におれの名前である『実』は入っていたが、悠子がおれの下の名前を覚えていることと、それを薦めてくる大胆さにおれは戸惑いを隠せなかった。
「そうしなよ。せっかく自分の名前があるんだし。わたしも『実』にしよ。簡単だし。」
おれは悠子の言う「せっかく」の意味がよくわからなかったが「そうだね、せっかくだし」と『実』を書いた。
廊下に出て階段を降りようとしたとき、母の声が聞こえた。
「はい。いました、呑気に寝ていましたよ。すいません。いつも、勝手に起きて勝手に帰ってきて、勝手に寝ているもんだから。本当にすいません。・・・はい。・・・はい。いーえ、今から向かわせますので。・・・いえいえいえ、本当に恐れ入ります。・・・はい、それでは失礼します。」
「電話が来たんだ。」
階段から降りて母に訊ねる。
「そうよ。『実君が学校に来てないのですが、どうしたのですか?』なんて聞かれて驚いちゃったじゃない。」
「ああ、今日は終業式なんだ。」
「知ってるわよ。」母が呆れた顔をする。「先生があんたがいないって言うからわたしは『実なら学校に向かったと思いますけど』って間抜けなこと言っちゃたじゃない。」
それは息子の管理をできていない自分にも非があるのではないか、と反論できそうにもあったが、寝起きでそんな気力もなく「寝坊したんだ。」と短く言う。
「見ればわかるわよ。起こしたのはわたしなんだし。」
「うん、そうだったね。」おれは欠伸をして、体を伸ばす。
「本当にマイペースな男の子だね。」母が冷ややかな目で見る。
おれは母の皮肉じみた発言を聞こえない振りをして、冷蔵庫を開けて適当に朝食になりそうな物を探した。ハムととろけるチーズがある。確か食パンがあったはずだ。おれがハムととろけるチーズに手を伸ばしたときに「あ~」と母が甲高い声を上げた。
「なに? どうしたの?」おれは顔を顰めて振りかえる。母は椅子に座って新聞を広げながら顔だけこちらに向けていた。
「そういえば、実」
「なに」
「あんた、お兄ちゃんの買ってきたシュークリーム食べなかった?」
「いや」おれは首を傾げた。そして「知らないけど」と白を切る。
「あっそう。」母は目線を新聞に落とした。「お兄ちゃん、すっごい、怒っていたわよ。今日、学校の帰りでいいから新しいシュークリーム買ってきなさい。」
シュークリーム一つで大袈裟な、と思いつつも昨日食べた『ムール』のシュークリームの味を思い出す。あれは兄ちゃんのシュークリームだったのか、と。
「兄ちゃん、そんなに怒ってた?」
「怒ってたわよ。犯人見つけ次第殺すって。」
「そんな・・・」シュークリーム一つで大袈裟な、と今一度思う。
「ああ、怒らせちゃった。」母は新聞に目を向けたまま言った。声の調子は軽やかで、完全におれを揶揄していた。
新聞を読む母の横顔は愉快気で、おれの頭は上で眠る兄のことが気がかりだった。高校三年の兄は既に卒業式を終え春休みに入っていた。おれは兄が目覚めぬうちにハムととろけるチーズを乗せたトーストを平らげ、急いで支度をして逃げるようして家を出た。




