覚醒
いつもの定位置は他の誰かに奪い取られていた。終業式ということもあるのか、いつもより自転車が多い気がする。おれはどこかにスペースがないか、自転車を押しながら探し、少し空いたスペースを見つけると、無理やりスペースを開けて、自転車を捻じ込んだ。
誰も歩いていない校舎はいつもとは違う景色に見えた。いつも人で溢れる昇降口前は静かで不自然さすら覚える。「おはようございます」と煩わしい怠慢な挨拶をする教師の姿もない。
靴から上履きに履き替え、体育館の前の渡り廊下の前に立ったとき心の中に憂鬱が芽生えた。長い時間窮屈に立たされ、壇上には校長が陽気に興味のない話しを長々と語る。「コウチョウ、コウチョウ、ゼッコウチョウ」後ろから肩を叩いてまで言う必要があったのか、とつまらないことを言う橋下の顔が頭に浮かんだ。二学期の終業式だ。
再び足を動かし、教室に向かった。教室は鍵が掛っていると予想はできたが、今更校長の話しと橋下のくだらないギャグを聞く気にもなれなかった。
教室に行くには階段を降りる必要がある。昇降口を標準にするなら一年の教室は地下一階にあることになる。おれは教室が一階なのか二階なのかは知らないが、個人的には一年の教室は地下一階のような気がしていた。一年の教室のある廊下は薄暗い。でも、だからといって一年の教室が別に地面の下にあるわけではない。教室に入りカーテンを開けば眩しい光が教室を照らし、外に出れば緑の芝が一面に広がり、その先の階段を降りれば校庭がある。
だから、どっちが正解かと訊かれたら、恐らく地下一階ではなく一階なのが正解ではあるような気がした。だが、本当に一年の教室の廊下は薄暗いのだ。
『V』字の階段を降りると先程まで注がれていた光は影を潜め、一気に薄暗くなった。目の前には少子化の影響か、使われていない余った教室があり、そこを通過すると六組の教室がある。その先には、五組から順に一組まで続いている。
四組の教室は予想通り鍵が掛っていた。南京錠の付いた引き戸に手を掛けて力を入れる。扉はガタガタと音を立てるだけで、一向に開く気配はない。開かないとはわかっていても試さずにはいられなかった。三月の廊下は寒い。急いで家を出たのでブレザーの下にセーターを着るのを忘れていたので余計に寒い。昨日のシュークリームの味を思い出す。シュークリーム一つで大袈裟な、と今一度思う。セーターを着ていればもう少しマシだったはずだ。この寒さは兄ちゃんのせいだ、と言いがかりとはわかってはいるが思わずにはいられなかった。
「開くはずないでしょ。鍵が掛っているんだから。」
声が聞こえた。声の方に視線を向けると悠子がいた。三組のロッカーにもたれ掛かり、手を背中に回す格好でこちらを向いていた。
「遅いよ。」悠子が口を尖らせる。気付くのが遅いと言う意味なのだろうか、おれは愛想笑いを浮かべる。
三という区切りが良い数字だからなのか、三組と四組の間にはトイレと階段が設置されていた。その為、三組と四組は隣同士ではあるが、少しだけ距離が離れていた。
おれは突然声を掛けられたことに驚いていた。そして、本当に自分に話し掛けているのか、周りを見渡した。
「ふっふふ、話しで聞いたとおり。君に話しているんだよ。」
悠子はこちらに向かって歩きながらいった。おれは意味がわからず混乱する。
「話しで聞いたってどうゆう意味?」
「ふっふふ、どうゆう意味だと思う?」
悠子が笑みを浮かべる。近づいて気付いたことだが、悠子の目は赤く充血していた。また、いつもの悠子と雰囲気が違うような違和感を覚える。
「えっ、誰かからおれの話を聞いたの?」
混乱しているせいか、おれは馬鹿正直に答える。
「さぁ、どうだろう。聞いたというか、見たというか。」
悠子が困った顔をした。どこか、寂しげな表情だった。
「見た?」
「宇宙人ってさ、仕事ないのかな?」
悠子が唐突なことを口にした。なんの脈絡もない会話におれは戸惑いながら「さぁ、おれは地球人だから、宇宙のことはわからないけど、宇宙人にも仕事ぐらいはあるんじゃないかな?」と適当に勝手なことを述べる。
「そうだよね。どうゆう意味なんだろう?」
「さぁ、どうなんだろうね。」
おれは精一杯の想像力を使って悠子の身に何があったのか、考えて答えた。
「わたし・・・覚醒したの。」
悠子は微笑んでいった。おれは『あたし、本当は宇宙人なんですぅ~』と甘ったるい声を出すタレントを思い出し、そうゆう類の冗談かと思った。だが、悠子の表情は散りゆく桜に対しなごり惜しそうに別れを告げる女優のような、そんな寂しげな微笑みだった。
「・・・・・・覚醒?」
「そう。覚醒。」
「覚醒って、埋もれていた才能が目を覚ますみたいな、あの覚醒。」
「たぶん、そんな感じ。」
笑えばいいのか、適当に称賛の言葉を贈ればいいのか、おれは咄嗟に色々な考えを巡らせたが最終的には「そう・・・なんだ」と、ただ曖昧な言葉を口にした。
「うん、そうなんだ。」
悠子はゆっくり首を縦に振った。
「そう・・・なんだ。」
おれはもう一度呟き、奇妙なやり取りが繰り返された。
可笑しな空気になってしまったと感じたおれは話題を変えようと、よく遅刻をするの、と訊ねると、悠子は「わたしの遅刻の回数知ってる?」と言ってきた。
「いや、知らないけど、たぶん多そうだね。」
「なんで?」
「なんか、ベテランの空気が漂ってる。」
「ベテランの空気?」悠子は首を傾げて、顔をほころばせた。「確かに、わたし遅刻のベテランだ。」
「どれくらい遅刻してるの?」
「親子講義三回かな。だって、遠いんだもん。家から自転車で五十分だよ。電車でも、駅から学校まで三十分掛るから意味ないし。」
「三回は多いね。」
おれ達の通う高校には遅刻が月に四回あると『親子講義』というものがあった。子どもを遅刻させない為にはどうするべきか、という特別講義に親子で強制参加させられ、子どもの生活習慣を改善させる『改善提案』というレポートを親子で書かされる。この親子講義が開始以来、遅刻が約六割減したという効果があった。『あんな面倒なものを受けさせられるなら、意地でも子どもを遅刻させない』そんな親が多く現れ、子どもを車で送る親も珍しくはなかった。その中でも『親子講義』三回というのは学年トップの藤原の四回に次いで多いはずである。
「だからね」と悠子が言う。
「だから?」
「ハンデを付けるべきだと思わない?」
「ハンデ?」
突然出てきた『ハンデ』という言葉に驚いた。
「そう。ハンデよ。家が遠い人もいれば近い人もいるのよ。なのに、全員が同じ時間に同じ場所に集合って可笑しな話じゃない?」
「そうかな?」
おれは賛成できず、首を傾げる。
すると、悠子は民主主義としておかしい、平等じゃない、とか口にした。じゃあ、どうすればいいのか、と訊ねると悠子はよくぞ聞いてくれた、という面持ちで「全員が同じ時間に家を出ればいいのよ。」と言った。
「同じ時間に家を出るの?」
今度は意味がわからず、首を傾げる。
「うん。タイムカードってあるでしょ。」
「あの、アルバイトとかで使うやつ?」
「そう。あれを学校に導入するの。」そう言って悠子は人差し指を立てた。「生徒全員の家から学校までの距離を計って、各々に決まった定刻を設けるの。」
「それで、タイムカード?」
「そう。わたしはやさしいから先生達の負担も考えてあげているのよ。たへんでしょ。一々『こいつの定刻は八時十分だから、二分遅刻だな。』とか判断するのは。」
「でも、それじゃあ、着くのはバラバラになるんじゃないかな。」
「別にそれぐらいいいじゃない。平等なんだから。」
悠子は『平等』という言葉を強く強調する。
「でも、それじゃあ、あまり意味がない気がするけど。」
「意味ってなに?」
「だって、遅刻は約束の時間に遅れてくることでしょ。約束を破って他人に迷惑を掛けるから遅刻であって、その制度だと、家の近い人間は毎日無駄な時間を過ごすことになる。」
「別にいいじゃない、それぐらい。むしろ、わたしだったら優越感に浸って読書でもするわ。」
「そうかなぁ?」
「そうよ。だって、わたしが呑気に本を読んでいる間、家の遠い人間は必死な顔をして自転車を漕いでいるのよ。」
「うーん、あまり有意義には思えないけど。」
「だって、不思議に思ったことない。人間みんな平等とか言いながら、目の見えない人、耳が聞こえない人、容姿が他の人より優れている人、親が裕福な人、絶対に平等とはいえない物がたくさんあるでしょ。でも、そんなのそう生まれてきたんだから仕方ないって言った終わりじゃない。」
「壮大な話だね。」おれはすかさず茶化しを入れた。
「それと同じよ。わたしのお父さんがここに家を建てちゃったから、わたしは他人より早く起きて、人よりも長い距離を自転車で走らなければならない。仕方ない。」
悠子の熱弁は続く。
「きっと、どこかで『仕方ない』と考えているからよ。だから、今度は『仕方ない』を生徒がバラバラで登校するのは『仕方ない』にするのよ。そうすれば不自然じゃないわ。『わたしが他の人達よりも早く学校に来て読書をするのは家が近いから。仕方ない』『おれが他の人が今頃呑気に読書しているのに必死にペダルを漕ぐのは家が遠いからだ。仕方ない』そんな風に考えればいいのよ。」
「不思議な制度だ。」
「この世界事態不思議なんだから仕方ないじゃん。」と悠子は嬉しそうに笑う。「サッカー選手が愛する彼女にデジカメを投げるくらい不思議な世界だし、今こうして、わたしと君が向かい合っていることだって不思議なんだよ。」
途中の譬えは意味がわからなかったが、確かに不思議だった。遅刻して後悔していても良いはずなのに、おれはいま神に向かって感謝をしていても良いほどに時間を過ごしている。
「確かに不思議な世界だ。」
おれはその意見には素直に首を縦に振った。
「君は初めてでしょ。」と悠子が言った。
「ああ・・・うん。」一瞬なんのことかわからなかったが、会話の流れから、なんとなくおれの遅刻の回数だということに気付き「おれは逆に新人の空気が漂っているかな」とおどけて見せた。
「漫画を読んで夜更かしをしたのが原因だって、そんな空気を漂わせている。」
最初は偶然だと思った。だから、おれは大袈裟に驚いた素振りをした。
「すごい、その通りだよ。」
「野球漫画でしょ。わたし達が生まれる前に描かれた漫画。昔、読んだことあったのに読み返していたんでしょ。」
「え」
「それに、遅刻は初めて。今日遅刻をしなければ皆勤賞を貰えたのに・・・残念」
悠子の顔をさほど残念そうではなかった。どちらかといえば愉快そうだった。
「なんで・・・」おれはさっきまでの会話を思い出そうとした。どこかで自分で言ったのかもしれないと。
「シュークリーム食べたでしょ。」
おれは驚きのあまり、シュークリームという言葉を初めて耳にしたような錯覚に襲われた。「シュークリーム?」
自分で口にして、やっと本来のシュークリームが頭に浮かんだ。ああ、そうだ。この丸くてクリームとシューが絶妙にマッチした食べ物がシュークリームだ。
「セーターを着ていないのは、お母さんのシュークリームを食べたのが原因ね。」
悠子は不敵の笑みを浮かべる。まるで、緻密に練った犯行を名推理される犯人と名探偵の関係だった。
「・・・いや、さっきまでのは正解だけど、おれが食べたシュークリームは母さんのではなく、兄ちゃんのだ。」
おれは戸惑いながらも、弁解をする。混乱していたせいで人前では兄のことは『アニキ』と呼んでいたのに思いっ切り『兄ちゃん』と口にしていた。
「おじさんの?」悠子は目を丸くした。
悠子は急に真顔になり、おれから視線を外して手を顔に当てた。その姿は名探偵が自分の推理に落ち度がなかったか思案をする様子に見えた。
「おじさんじゃないよ。アニキだよ。誰がおじさんだよ。おれのアニキまだ十八だよ。」
おれは悠子が真顔で言うので指摘する。
「え」
悠子がおれに視線を戻して、目を丸くさせた。
「だから、おれのアニキはおじさんじゃないって。」おれは再び訂正する。
すると少し間を置いてから「ふっふふ」と溢れだすように笑い「ごめん、ごめん」と謝ってきた。
「なにがおかしいんだ。」
おれは少しむきになっていった。なんとなく、自分の理解のできないところを笑われるというのは良い気分とはいえなかった。
「いや、ただ」と悠子は言いながら笑うのを止めた。
「ただ?」
「あのシュークリームはお兄さんのじゃないよ。」
「なんでそんなこと断言できるんだよ。」とおれは驚いた。
「だって、わたしは覚醒したんだもん。」
「覚醒って」おれが苦笑すると悠子はもう一つ予言した。
「来年は皆勤賞取れるよ。だから、その皆勤賞の賞状は大切に保管しておいて。」
そのうち一つはすぐに見事的中した。おれが学校の帰りに『ムール』でシュークリームを買って帰ると母がそのシュークリームをその場でおいしそうに食べたのだ。なんでそんな嘘を吐いたのか、とおれが問い質すと、ああ言えばおれが学校に帰りに買ってくると予想ができたと何食わぬ顔で言っていたのを覚えている。