結婚式当日に逃げられましたので、一旦お食事だけ楽しんでいただくことにしました
来る結婚式の朝、私は妙に早く目が覚めた。
窓の外はまだ薄青く、庭に落ちる朝露がきらきらと光っている。
眠れなかったわけではない。
むしろよく眠れた。
ただ、今日という日がついに来たのだと思うと、じっとしていられなかった。
ベッドから起き上がったところで、既に控えていた侍女がくすりと笑った。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
「ずいぶん早起きですね」
「私もそう思うわ」
自分で言うと、侍女は声を上げて笑った。
「大丈夫です。花嫁様は皆そうおっしゃいます」
「本当に?」
「本当にです」
それなら少し安心だ。
支度を始めるころには部屋も賑やかになっていた。
ドレス係の侍女たちが動き回り、机の上には花が飾られ、鏡の前には母が陣取っている。
なぜか母の方が緊張していた。
「お母様」
「なあに?」
「さっきから三回もハンカチを出したりしまったりしていませんか?」
「気のせいよ」
「今なんか目元を押さえていらっしゃるじゃないですか」
「朝の日差しが眩しいの」
「曇っています」
母は負けた、という顔をした。
「だって仕方ないでしょう」
少し潤んだ目で私を見る。
「小さかったあなたが、こんな立派になって……」
「まだ式も始まっていませんよ」
「だから今のうちなの」
私は笑った。
母も泣き笑いの顔になった。
ふと部屋の隅を見ると、父が腕時計を見ている。
数秒後、また見た。
さらに三十秒後、もう一度見た。
「お父様」
「なんだ」
「落ち着いてください」
「落ち着いている」
「五回目です」
「何がだ」
「時計です」
父は咳払いをした。
そしてまた時計を確認する。
侍女たちが耐えきれず吹き出す。
「まったく」
父は不機嫌そうな顔をしたが、耳が少し赤かった。
その時だった。
勢いよく扉が開く。
「エレノアお姉さま!」
飛び込んできたのは姪のマリーだった。
私の手前で急停止する。
彼女は八歳。
元気だけが服を着て歩いているような子だ。
「うわあぁ……!」
ドレス姿の私を見るなり目を輝かせる。
「お姫様みたい!」
「ありがとう」
「ねえ、結婚したら毎日その格好するの?」
「しません」
「えぇぇ!?」
どうやら本気で残念だったらしい。
「そんなに見たいの?」
「うん!」
「じゃあ今日はしっかり見ておいてね」
「見る!」
元気よく答えたあと、突然お腹が鳴った。
本人が真っ赤になる。
部屋中が笑いに包まれた。
「朝ご飯は?」
「……少しだけ」
「ちゃんと食べてきなさい」
「はぁい……」
しょんぼりしながら出ていく背中を笑って見送り、私は窓の外を眺める。
いい天気だった。
きっと良い一日になる。
そう信じていた。
婚約者のルーカスとは、情熱的な恋人同士というわけではなかった。
けれど一緒にいて落ち着く人だった。
読書が好きで。
散歩が好きで。
たまに皮肉っぽいけれど根は優しい。
少なくとも私はそう思っていた。
昨日届いた手紙もまだ机にある。
『明日が楽しみだ』
たった一行。
けれど彼らしい文章だった。
私はその紙に触れ、小さく笑った。
もう数時間後には、彼は私の夫になる。
そう思っていた。
異変は静かに始まった。
挙式三十分前。
まだ誰も気にしていなかった。
新郎がまだ到着していない。
それだけのこと。
馬車が遅れたのだろう。
道路が混んでいるのかもしれない。
そう思っていた。
二十分前。
まだ来ない。
十分前。
使用人たちが慌ただしくなった。
神父が険しい顔をしている。
父が席を立った。
母の表情から笑みが消えた。
胸の奥が冷える。
嫌な予感だけが大きくなっていく。
そして。
父が戻ってきた。
見たことのない顔で。
怒りと困惑と絶望を無理やり押し込めた顔で。
「お父様?」
父は何も言わない。
代わりに一枚の紙を差し出した。
おそらく父が握りつぶしていたのだろう。
ぐしゃぐしゃになったソレを震える指で受け取る。
短い手紙だった。
『愛する人がいる。
本当に申し訳ない。
結婚はできない。』
頭が真っ白になった。
読めている。
意味も分かる。
なのに理解できない。
「……え?」
情けない声が漏れた。
誰も答えない。
答えられない。
だって。
そんなはずがなかった。
昨日まで普通だった。
昨日まで。
昨日まで――。
「――ぁぁああ!!!」
泣いた。
ひたすら泣いた。
ドレスが皺になるのも構わず泣いた。
母の肩を借りて泣いた。
声が出なくなるまで泣いた。
これ以上ないほど惨めだった。
私の結婚式だったはずなのに。
私だけが置いていかれた。
◇
どれほど時間が経ったのか分からない。
ふと顔を上げると、部屋の隅でマリーが泣いていた。
小さなハンカチを握ったまま。
「マリー……」
小さく声をあげると、彼女はしゃくり上げながら近づいてくる。
「お姉さま……」
「どうしたの?」
「……なんで、なんでなの?」
また涙が出そうになった。
けれど私は笑った。
無理やり。
本当に無理やり。
「そんな顔しないの」
「でもぉ……」
「泣いたらせっかくのおめかしが台無しよ」
そう言うと、マリーは必死に涙を拭いた。
私の方が泣いていたのに。
その姿がおかしくて、何故か少しだけ笑ってしまった。
その時。
支配人がノックと共に入室してきた。
「お嬢様」
深刻な顔だった。
「本日の件ですが……」
式の中止。
招待客への説明。
きっとそういう話だろう。
私は窓の外を見た。
遠方から来た親族。
年老いた祖母。
久しぶりに集まった親戚たち。
何も知らずにはしゃぐ子供たち。
みんな今日を楽しみにしていたのに。
「お嬢様?」
私は笑った。
笑顔ではなかったと思う。
半分泣いていた。
「せっかくここまで来ていただいたんですもの」
「はい」
「お料理だけでも食べて帰っていただけませんか」
私の言葉に部屋が静まり返った。
「エレノア」
父が名を呼ぶ。
「今は無理をしなくていい」
「無理じゃありません」
少し間を置いて。
「……たぶん」
たぶんだった。
自分でも分からない。
けれど。
「料理長に怒られるのも嫌ですし」
冗談のつもりで言った。
誰も笑わなかった。
伯母なんて今にも泣きそうだった。
「そんな顔で言わないで」
私はようやく気づいた。
自分が思っていた以上にひどい顔をしていることに。
◇
食事会は始まった。
当然ながら重苦しい空気だった。
会場には綺麗な花。
豪華な料理。
立派な装飾。
なのに花婿だけがいない。
私は各テーブルを回って謝罪を述べる。
「本当に申し訳ありません」
「違うわよ」
夫人が首を振る。
「あなたが謝ることじゃないでしょう」
どこへ行っても同じだった。
誰も私を責めない。
責めないから余計につらい。
その時だった。
「ケーキ!」
子供の歓声が上がる。
冒険と称して、この場所を探索していた彼らが、別の部屋に置かれた巨大なウェディングケーキを見つけたらしい。
会場が一瞬静まり返る。
私は思わず吹き出した。
そして彼らが集まる部屋へと移動する。
家族や親戚達もゾロゾロついてくる。
はしゃいでいる子供達を見ながら一言。
「そうですね」
皆がこちらを見る。
「切りましょうか」
子供たちの顔が輝いた。
「いいの!?」
「もちろん」
ナイフが入る。
歓声が上がる。
その直後。
興奮していた、一人の男の子が近くに置いてあった皿を落とした。
盛大な音。
子供の顔が真っ青になる。
「ご、ごめんなさい……!」
私は手を止め、彼の元に向かいしゃがみこんだ。
「大丈夫よ」
「でも……」
「今日は失敗してもいい日だから」
男の子がきょとんとする。
その瞬間。
「では儂も失敗しよう」
様子を見にきた、老伯爵がわざとらしくワインをこぼした。
彼は――
「伯父様」
「おや」
「今のはわざとですよね?」
「ばれたか」
会場に笑いが広がる。
本日初めての、本当の笑いだった。
そこから空気は少しずつ変わった。
ホールに戻った私たちはケーキや豪華な料理を手に、口々に話し合う。
老夫人が昔話を始め。
商人が旅先の失敗談を語り。
子供たちはケーキを巡って喧嘩を始め。
それを大人たちが止める。
私は気づけば笑っていた。
「そういえば」
私の元に近づいてきた夫人の一人が言った。
彼女は私の友人の母親だ。
「娘があなたに感謝していたわ」
「私に?」
「学園へ入る前、不安で泣いていたでしょう」
そんなこともあった。
「あなた、あの子の話をずっと聞いていたじゃない」
「ただ聞いただけです」
「それがありがたかったのよ」
別の人物も頷く。
「私も助けられたことがありますな」
「え?」
「妻の誕生日を忘れそうになった時」
「それは自業自得では……」
会場が笑う。
「しかし君が覚えていてくれた」
「偶然です」
「偶然でも助かった」
そんな話が次々と出てくる。
私は知らなかった。
自分の些細な行動を覚えている人がこんなにもいたなんて。
その夜。
私は一人ではないのだと知った。
◇
半年後。
街で私を見かけると、多くの人が声をかけてくれるようになっていた。
あの日の食事会の話は思った以上に広まったらしい。
私を元気付けるためか、色々な人たちが話しかけてくれた。
そして、その人と仲良くなり、その輪が少しずつ広がっていった。
◇
そんなことが続いたある日。
ルーカスと再会した。
以前よりずっと疲れた顔をしていた。
目線が合う。
すると彼は話しかけてくる。
「久しぶりだ」
「そうですね」
まだ、傷は癒えていないけれど。
思わず答えてしまった。
彼は視線を落とした。
「謝りたい」
静かな声だった。
続きを待つ。
「本当に申し訳なかった」
その言葉に私はしばらく考えた。
怒りがないわけではない。
悲しみが消えたわけでもない。
でも。
「あの日は本当に傷つきました」
彼が顔を上げる。
「しばらく毎日のように泣きました」
「……」
「恨んだこともあります」
彼は何も言えなかった。
その資格がないと分かっていたのだろう。
私は続けた。
「でも、たくさんの方が支えてくださいました」
老伯爵。
マリー。
友人たち。
あの日笑ってくれた皆。
「だから今はもう大丈夫です」
彼は少しだけ笑った。
寂しそうに。
「君は変わらないな」
「そうでしょうか」
「ああ」
少し考えてから、私は首を横に振った。
「変わりましたよ」
「え?」
「自分が思っていたより幸せだったんだって分かりましたから」
彼は答えられなかった。
私は会釈する。
そのまま家へと向かって歩き出した。
その時。
「エレノア様!」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと友人たちがいる。
その中には新たに知り合った人も居る。
「お待ちしていました!」
「例の本を持ってきましたの!」
「今日のお茶会、楽しみですわ!」
賑やかな声が重なる。
思わず笑った。
「今行きます」
振り返ると、ルーカスは遠くで立ち尽くしていた。
けれど私はもう立ち止まらない。
結婚式には失敗した。
人生最悪の日も経験した。
それでも。
人生は失敗しなかった。
そう思えるくらいには、私はたくさんの人に支えられていたのだから。




