騒々しい朝へ
音に関する怪談と言われると、僕が思いつくのは、昔やったスマホゲームだろうか。
音の反響を線で描き、世界に輪郭を与えて先に進んでいくあれだ。伝わるだろうか。音を視覚的に魅せたあのゲームは感動した記憶がある。
怖い音と言われて思い浮かぶのも、きっと人それぞれだ。機械的な歌声だったり、鳴るはずのない異音だったり。
じゃあ小説において、音はどう表現すればいいだろうか。例えば君が電車の中でこれを読んでいるのに、突然ザーザーと雨の音を書いた所で、あなたの現実では雨は降らない。
例え雨の日のみ読んでくれと書いた所で、全ての人が従ってくれるとは限らないのだ。
逆に、無音にしてみて欲しいと言われたらどうなるだろう?深い夜の底だろうか。それとも樹海の真ん中だろうか。
この世界は音で溢れかえっている。当たり前の事であり、だからと言って無音が怖いとはならない。
止まない雨はないし、明けない夜はない。それと同じように、無音は何時までも続かない物だ。
ひとつ、体験談をしようと思う。昔、廃墟探索が趣味だった。当時から立ち入り禁止の看板ばかり立っているが、それを抜けた先の誰も居ない空間が好きだった。
廃墟探索で怖いのは幽霊なんかじゃない。
不良に出くわせば身ぐるみを剥がされ、熊に出逢えばほぼ死ぬ。
地主に見つかってこっぴどく叱られて帰った事もあった。
廃墟探索において、音は全て敵だった。
掲示板の情報では満足出来なくなった僕は、当時まだ普及していなかった航空写真を漁った。
その山にあった地図に載っていない建物。調べた所、テーマパークとして建設予定だったが、計画が頓挫して撤退した跡地と書いてあった。
1番近くの車道から、道無き道を歩いて40分程の計算。暑い夏の日でも長袖に、普段より水やタオルを多めに持つ。この冒険感こそ、ティーンエイジャーにとっての最大の楽しみだ。
平日の午前中。目的の場所に手に入れたばかりの中古車を停める。周辺を回ってみたが、車が出入り出来そうな場所は見当たらなかった。
コピーした航空写真と方位磁針をぶら下げ、早速山の中に足を踏み入れる。
開始数分で腕の汗を服越しに拭いながら、時計と地図と方位磁針を見て足を進める。
鳥の鳴き声が遠くで聞こえる。木々の揺れる音も心地よい。その中で、そこにあってはならない音を常に探す。
見つかってはならないからだ。人の声。発砲音。獣の唸り声。それが聴こえたら道を引き返す。そうしないと死ぬかもしれない。
歩ける道を常に確認しながら、ゆっくりと登っていく。時計はとうに40分過ぎていたが、まだ付かない。
長く息を吐きながら、喉を潤す為にカバンを開けた。水を飲む。喉が鳴らす音がやけにうるさく感じた。
いつから鳥の鳴き声が無かったのか。その時になってようやく気付いた。風も吹いていない。服の擦れる音、心臓の鼓動すらよく聞こえた。
何処かの雑誌で読んだことがあった。山などでオカルト的な場所は、動物の音が全くしない。猟師も近づかない危険な場所があると。
今君は、自分の心臓の鼓動は聴こえるだろうか?聴こえないくらい、音のある世界にちゃんと居るだろうか?
唇を噛む。しょっぱい。それと同時にその時の僕は、少しだけワクワクしていたのだ。
動画撮影用のカメラを取り出す。僕は別に幽霊に会いたい訳じゃない。でももし、それが撮れたなら、一躍掲示板の有名人だ。
地図を頼りに先に進む。灰色の地面が現れた。アスファルトだ。
上に続く道の先、木々の影に微かに見える灰色の建物。反対に下に続く斜面の先は、何処までも続いているように見えた。
上に登る。靴がアスファルトを打つ。その建物の前に立った。
家具やガラクタは何も無い。ただのコンクリートの領域がそこにあった。
扉のない入口に1歩入る。足音が響く。動線がハッキリしていて、恐らく窓の予定だったであろう、幾つもの四角い穴から光が差し込む。
ライトを取り出して付ける。本当に何も無い。水溜まりが幾つかあるが、外は晴れていて滴る音も無い。ラクガキすらひとつも無い。
これは全く嬉しい話では無い。不良も、不法投棄者も、誰もここに来たことがない。もしくは、それをしない場所なんて、果たしてまともな場所だろうか。
深く息を吸う。外の音は何も聞こえない。いつしか落ち着いてきた自分の鼓動も、意識しなければ聞こえなくなった。
なんと気分が良いのだろう。深い夜の底の不安も無ければ、樹海の中の緊張も無い。ただ心地よい空間に溶け込んで、頭の中の自分と対話する。
僕の求めていた廃墟だと、本気でそう思った。
それなのに、まだ心には蟠りがあった。
服の擦れる音や、自分の息遣いが邪魔をする。服を脱いでしまうか悩んだ時、何となく背中の入口に振り返った。
外の光が入り込むそこには、別に誰も居ない。当然なんの音もしない。白んだ草木が揺れている。
揺れているんだ。草木が。外は風が吹いている。外は今、音が鳴っている。でも僕には聞こえない。
1歩歩き出した。靴がコンクリートを鳴らす音が、建物の中を反響する。
その音に、全身の鳥肌が立った。この世界は無音のはずだ。音が鳴ってはいけないんだ。
外の草木が揺れている。僕は1歩も前に歩き出せない。外に行きたくない。音を聴きたくない。そこには僕の世界を破壊する音がある。そんな確信があった。
赤く染まった外が暗くなり、何も見えなくなった。もう草木が揺れているのか何も分からない。完全な暗闇だった。僕は全く動けなかった。
何故こんな世界が素敵だなどと思ったのだろう。ここは僕が居ていい場所じゃない。あの無音が警告だったのだ。
空気の流れが頬を撫でる。無音の孤城は僕以外居ない。それなのに、音が鳴ってしまうかもしれない事が恐ろしかった。
自分の呼吸はうるさくないか。服擦れは無いか。静寂に耳を澄ませるしか無かった。
音がした。小さな音だった。それは確かに、僕が最も恐れていた音だ。それに絶叫した。その声が全てを掻き消しながら建物の中を乱反射した。僕の耳には今も、自分の叫び声がこびり付いて離れない。
ふっと脚が前に出た。そのまま逃げ出した。微かに白んだ曇天の中、アスファルトの坂道を駆け下りて車まで走った。エンジンの音が、雨が車の屋根を打つ音が、とても五月蝿くて五月蝿くて。
コン。
何かが当たる音にびくりとした。この騒々しい世界の、あるはずの無い異音に驚いて、あぁ戻ってきたんだなって思った。
その廃墟?今もあるみたいだよ。廃墟マップみたいなサイトに載ってた。すっかり落書きも増えて、普通の廃墟さ。僕はもう行けないよ。きっと次は、もう出られない気がする。
その時の動画はまだあるよ。山の中を歩き、廃墟の中を少しだけ映したその動画には、僕の息の音以外は何も入っていなかった。
静かな場所はもうダメだ。あの無音の引力に引き寄せられてしまいそうになる。だから今じゃ、寝る時には常に音楽を流しているんだ。便利な世の中になっんだな。
君にとって怖い音はあるかい?それはどんな音だろうか。自分自身に聞いてみて欲しい。
きっとその音は、君をまた、騒々しい朝へ連れ戻してくれる。あちらの世界では、君の聴ける音は少ないから。




