09. 居待の夜
見回りを終え、家へ向かう頃には、空の色がすっかり変わっていた。
昼の青は深く沈み、
代わりに、やわらかな闇が地面を包み込んでいく。
ふと、朔は空を見上げた。
二つの月が、並んで浮かんでいる。
一つは大きく、白く、くっきりと。
もう一つは淡く、銀の光を放っていた。
ここが自分の知っている場所ではないことを、
嫌というほど思い知らされる。
それでも、不思議と怖くはなかった。
どちらの月も、
夜を照らすために、そこにある。
そう思える光だった。
「……満月か」
思わず、そう呟いた。
『正確には、三日ほどズレています』
耳元で、淡々とした声が返る。
「……細かいな」
『事実です。地球の暦で言うなら、居待月に相当します』
「……聞いてないよ」
思わず、少しだけ笑ってしまった。
夜の空は、こんなにも綺麗なのに、
くだらない言い合いをしている自分が、どこかおかしくて。
それでも——
二つの月は、確かに夜を満たしていた。
⸻
家へ戻ると、
扉の脇の小さな灯りが、夜の中に浮かんでいた。
昼とは違う静けさが、
家の中に溜まっているのが分かる。
戸を閉めた音が、家の中に響いた。
その直後だった。
――がたんっ。
鈍い音が、廊下の奥から返ってくる。
オルセンの表情が、はっきり変わった。
「……ナディア」
呼ぶより早く、駆け出していた。
朔も、一拍遅れて動く。
考えるより先に、
身体が反応していた。
居間を抜け、
開いたままの扉の前で、足を止める。
寝台のそば。
ナディアが、床に崩れるように座り込んでいた。
起き上がろうとしたのだろう。
片手を寝台にかけたまま、
肩で息をしている。
「……っ」
声にならない声が漏れる。
オルセンがすぐに駆け寄り、
その身体を支えた。
「ナディア!」
低く、鋭い声。
ナディアは、少し遅れて顔を上げる。
「……大丈夫。
ちょっと、立ちくらみ……」
言葉は、途中で途切れた。
「……動くな」
短く言って、
ナディアを寝台へ戻す。
苦しそうに、
息を吸っては、吐いている。
声をかけていいのかも、分からない。
昼に見た、あの穏やかな顔とは、まるで違う。
それでも――
「大丈夫、だよ」
その声は弱くて、
けれど無理に明るくしようとしているのが、はっきり分かる。
胸の奥が、きゅっと締まる。
(……大丈夫な顔じゃない)
ナディアの胸が上下するたびに、
その間隔が、わずかに不揃いなのが分かる。
吸うよりも、吐くほうが長い。
それが、余計に苦しそうに見えた。
「……無理をするな」
低い声だった。
ナディアは、うなずくように小さく首を動かす。
「……うん」
その様子を、
朔は、数歩離れたところで見ていた。
昼に見た、あの穏やかな表情。
あれは、楽だったから見せていたものじゃない。
苦しさを隠して、
見せないようにしていただけだったのだと、
今なら分かる。
そして今も、きっと同じだ。
心配をかけないように、必死で取り繕っている。
けれど――
それが、
もうできなくなるほど、つらいのだと。
──ルク。
呼びかけは、ほとんど反射だった。
『状況を確認します』
オルセンの背中越しに、
ナディアの浅い呼吸が聞こえる。
『該当する疾患データが存在しません』
『既存の生理・医学モデルでは説明不能です』
(……くそ)
ここにいても、できることはない。
下手に手を出せば、邪魔になる。
そして、静かに部屋を出た。
机の前に座り、
灯りの下で、ただ待つ。
⸻
どれくらいの時間が経っただろうか。
淡い銀に見守られ、夜を照らす白い光が山の稜線へ隠れ出した頃、オルセンが姿を見せた。
居間に漏れる月明かりの中で、
オルセンが低く言う。
「……普通なら、こんなに早くは来ない」
「え?」
「月酔い症だ」
朔は、その言葉を初めて聞いた。
「月が強く出る夜になると、
身体がついてこなくなる」
さっき見た、
二つの月が脳裏に浮かぶ。
「……月に、反応してるってこと?」
オルセンは短くうなずいた。
「そうだ」
少し、言葉を選ぶ。
「だが、本来は若い者がなるものじゃない。
まして、発症してから三日でここまで進むのは……」
言葉が、そこで途切れた。
「……早すぎる」
重たい沈黙が落ちる。
「放っておけば、後遺症が残る」
「……治らないのか?」
「完全には、な」
オルセンの視線が、床に落ちた。
「だから、薬を探していた」
朔の胸が、微かにざわつく。
「……森で?」
「そうだ。
……そこで、坊主に会った」
オルセンは、短く息を吐く。
「月果という実がある。
このあたりでは、それを煎じて使う」
朔の背中に、
ひやりとしたものが走った。
(……まさか)
森。
赤紫の、小さな実。
甘くて、少し苦かったあの味。
森で見た光景が、頭に浮かんだ。
朔は、それを振り払うように首を振る。
(……いや、でも)
言葉を選びながら、朔は口を開く。
「……その実、赤紫で、粉がついたみたいな……?」
オルセンが、はっと顔を上げた。
「見たのか」
「……食べた」
一瞬、空気が止まった。
「腹が減ってて……
木になってたから、少しだけ」
言葉を重ねるたびに、
オルセンの目がわずかに見開かれていく。
「念のために、いくつか持ってきた」
朔がそう答えた瞬間、
オルセンの声が、わずかに揺れた。
「……それを、まだ持っているか」
朔は、肩に掛けた鞄に手を伸ばし、
あのとき摘んだ果実を、そっと取り出す。
夜の灯りに照らされて、
赤紫の皮が、静かに光る。
オルセンは、何も言わずに朔を見つめた。
やがて、低く言う。
「……巡り合わせ、か」
二つの月が、
窓の向こうで、黙って光っていた。
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序盤は数日連続更新です。




