灯りのある家
おばさんの家の前を離れ、
道なりに歩いていく。
気づけば、
声の数が、ひとつ、またひとつと増えていた。
籠を抱えた人の声。
荷を下ろす音。
呼び止める声と、短い応答。
「それ、ここに置いといてくれ」
「助かるよ。今朝は人手が足りなくてな」
木箱が下ろされる音。
誰かが短く礼を言う。
「……銅貨二枚か。安いな」
「今朝は多めに仕入れたからな」
「じゃあ、もらうよ」
「毎度あり」
別の声が、すぐ隣で続く。
「早いな、もう昼か?」
「腹減るわけだよ」
笑い声が一つ。
誰かが肩を叩く音。
(……楽しそうだな)
そう思ってしまって、
自分でも、少し戸惑う。
今まで、
人が多い場所は避けてきたはずなのに。
しばらく歩くと、そんな声も
少しずつ背後に遠のいていった。
代わりに広がってきたのは、
家々のあいだを縫うように続く、村の暮らしの気配だった。
干した布が風に揺れ、
軒先には薪や籠が積まれている。
人の足取りも、どこか落ち着いている。
「……あそこだ」
オルセンは、
途切れずに並ぶ低い屋根の平屋の中の一軒を指差す。
どれも似た造りで、
遠目には、特別な違いは見えない。
どこにでもありそうな造り——
けれど、近づくほどに、
抱いていた印象から、少しずつ外れていく。
「……思ってたのと、違う」
淡い色合いの外壁が、光を受けている。
強くは跳ね返さず、やわらかく留めていた。
窓枠の白が、明るさをそっと縁取っている。
視線を巡らせて——
ふと、目が止まる。
居間の端に、前へ張り出した一角。
庇の下の出窓に、昼の光が溜まっている。
その向こうで、銀緑色の細長い葉の木に見守られた庭が、やさしく続いていた。
枝先では、黒紫色の小さな実が、
風に触れるたび、かすかに揺れている。
(……まるで絵本の挿絵……)
視線を戻すと、
玄関の扉の脇に、小さな灯りが下がっていた。
夜になれば、きっとここを照らすのだろう。
気づけば、足が止まっていた。
数歩先で、オルセンが立ち止まる。
「……置いていくぞ」
それから、短く付け足す。
「ここが、俺の家だ」
オルセンは、小さな窓のついた木の扉に手をかける。
「……あまり騒がしくするな」
そう言って、ゆっくりと押し開いた。
(……誰か、休んでいるのか)
理由は分からない。
けれど、その一言で、自然と足取りが静かになっていた。
扉の向こうには、
ホールと呼ぶには、少し小さな空間があった。
外の空気が、そこで一度やわらぐ。
オルセンは扉の前で足を止め、
履き物を脱いでから中へ入った。
朔も、それに倣う。
白く縁取られた扉を押し、居間に入る。
窓から差し込む光が、
木目に沿って、やわらかく落ちてくる。
火の気配と乾いた木の匂い。
使い込まれた机と椅子。
壁際には、書類の束。
見慣れない印の入った革袋が、無造作に置かれている。
その傍らには、乾かした葉や根を包んだ小袋がいくつも並び、
木箱の中から、かすかに苦い匂いが混じっていた。
オルセンは居間を横切り、
慣れた足取りで奥へ向かった。
歩幅は変わらないのに、
音だけが、ひどく静かだった。
そして、足を止めた。
「……ここだ」
静まり返った部屋の前。
オルセンは、声をさらに落として続ける。
「休んでいる」
それ以上は言わない。
扉を軽く叩き、ゆっくりと開ける。
薬草の匂いが、ふわりと広がった。
寝台の上で、少女が横になっている。
明るい色の髪が、枕にゆるく広がっていた。
その目が、ゆっくりと開いた。
オルセンとよく似た顔立ちだが、
目を開いたその表情は、とても穏やかだった。
「……お父さん?」
体を起こそうとする。
「いい」
オルセンの声が、即座に落ちた。
命令口調なのに、強くない。
「休んでろ」
少女は一瞬きょとんとして——
すぐに、困ったように笑った。
「もう……心配しすぎだよ」
その視線が、こちらに向く。
光を受けた瞳は、
春先の木々のような淡い色を帯びていて、
見つめられると、不思議と胸の奥が落ち着く。
……思わず、目を逸らした。
「あれ?」
小さく首を傾げる。
「……お客さん?」
オルセンが、短く答える。
「森で拾った迷子だ。
しばらく、うちで面倒を見る」
「拾った、って……」
少女が少しだけ眉を寄せる。
「またそんな言い方してる。
助けた、でしょ?」
オルセンは、一瞬だけ黙ってから、短く息を吐いた。
「……同じだ」
「同じじゃないよ」
少女はそう言って、こちらを見る。
「ごめんね。
びっくりしたよね」
それから、どこか気まずそうに笑って続けた。
「あんな言い方してるけど……
本当は、すごく優しいんだよ?」
「余計なことを言うな」
オルセンが低く言う。
けれど、否定はしなかった。
思わず、口を開いていた。
「俺がここにいる時点で、だいぶ優しいと思いますけど」
少女は、朔の返事に頬を緩ませた。
そして、オルセンの方に顔を向けて、
「良かったね」
と、やわらかく言った。
その一言に、
オルセンが少しだけ、居心地悪そうに咳払いをする。
「わたしは、ナディア」
そう言って、少女は小さく微笑んだ。
「あなたは?」
一瞬、迷ってから答える。
「真中です。
真中 朔」
「そっか」
ナディアは、そう言ってから、
ほんの少しだけ、微笑みを深めた。
「よろしくね、朔」
(……聞かれないんだ)
どこから来たのか。
なぜ森にいたのか。
何ひとつ、聞かれない。
それが、こんなにも楽だなんて。
胸の奥が、静かに軽くなる。
「よろしく。……えっと、ナディアさん」
一拍、間があった。
ナディアはきょとんとしてから、
ふっと力の抜けた笑顔になる。
「さん、いらないよ。
ナディアでいいよ?」
(……っ)
一瞬だけ、間が空いて——
そのまま、口が先に動く。
「……よろしく、ナディア」
言ってから、
胸の奥がざわついた。
(……呼んでしまった。
何してるんだ。俺は)
それでも、
今さら言い直すのも変で、
曖昧に、笑みを浮かべる。
「ほら」
オルセンが言った。
「……もう寝とけ」
ナディアは一瞬だけ、困ったように笑った。
「寝るには、まだ早いよ」
その声は軽いけれど、どこか無理がある。
オルセンは、ほんの一拍だけ黙ってから言った。
「病人は寝とけ
……月に感謝を」
「……はーい」
ナディアは小さく返事をしてから、
布団の中で体を丸める。
「月に感謝を。おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
短く返して、扉を閉める。
空気が、わずかに動いた。
「部屋は余ってる。
好きに使え」
オルセンは、そう言うと
ナディアの向かいにある扉を顎で示した。
「広くはないが、眠るには困らん」
一拍置いて、付け足すように言った。
「隣は、俺の部屋だ。
何かあったら来い」
それだけ言って、
オルセンは向きを変え、自分の部屋へ入った。
扉の閉まる音が、家の中に静かに吸い込まれていく。
家の中に差し込む光だけが、穏やかに残っていた。
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序盤は数日連続更新です。




