06. 村のあたたかさ
村の入口に足を踏み入れた瞬間——
ふわりと、匂いが変わった。
湿った森の匂いじゃない。
土の匂い。
火の匂い。
甘い、焼いたパンの匂い。
その中に、
かすかに、音が混じり始める。
はっきり聞こえるわけじゃない。
どこかで、木が触れ合う音。
遠くで、水を汲む気配。
風に溶けて、境目が曖昧なまま、
森の静けさに、別の層が重なっていく。
道の両側には、小さな家が並んでいる。
木と石で作られた、素朴な家々。
軒先には干された野菜。
井戸のそばで水を汲む女性。
畑でしゃがみ込む老人。
家々のあいだに、確かな生活の気配があった。
どの光景も、見たことがないのに——
懐かしい。
ふと、軒先に掛けられた木札に目が留まる。
短い文字が、控えめに彫られていた。
意味を考えるより先に、
内容が、そのまま頭に入ってきた。
一拍遅れて、別のことに気づく。
(そういえば……)
オルセンの言葉も、
さっきから、普通に分かっている。
(それに……)
普通に会話できている。
口から出た言葉が、
そのまま、相手に届いている。
(……なんで、通じるんだ)
森では、そんな余裕はなかった。
混乱していて、
気にする前に、受け入れていただけだ。
今になって、
じわりと不思議さが込み上げる。
もう一枚、木札へ視線を向けかけた。
そのとき——
「おい。行くぞ」
前を歩くオルセンが、振り返りもせずに言った。
「あ……うん」
呼ばれて、思考が途切れる。
理由は、分からないまま。
けれど——
今は、それよりも追いつくほうが先だった。
オルセンは歩みを止めず、短く声をかける。
「寄り道はせん。
まっすぐ帰るぞ」
朔は短く、うなずいた。
(帰る、か)
そう呼ばれる場所ができること自体が、
少しだけ、怖かった。
そのとき。
「オルセーン!」
子どもの声が弾けた。
駆けてきた少年が、勢いよくオルセンの腰に抱きつく。
日に焼けた腕。
赤茶の髪が、走った勢いのまま跳ねている。
「おかえり!」
オルセンは、一瞬だけ目を丸くし——
次の瞬間、困ったように息を吐いた。
「……ただいま」
大きな手で、少年の頭に軽く触れ、
一度だけ、撫でる。
「畑はどうだった」
「草、またいっぱい!
でも負けてやらなかった!」
胸を張って、握った拳を小さく振る。
日に焼けた腕に、まだ土が残っていた。
「それでいい」
そんなやり取りを見つめていると、
少年の視線が、朔に移る。
「あれ? だれ?」
「森で迷っていた。
しばらくうちで面倒を見る」
(決定事項!?……それは困る)
驚いて、朔は思わずオルセンを見る。
オルセンは朔の視線に気づき、
肩をすくめる。
「もう一度言うぞ。
坊主のことを“信用した”わけじゃない」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「だがな。
迷子を放っておくほど、俺は薄情じゃあない。
しばらくは、うちにいろ。異論はあるか」
朔は一瞬だけ考えて——
言葉が詰まる。
そのとき、
「オルセンのとこに行くんだ!」
少年は、朔の方を振り向いて言った。
朔は反射的に、何か言おうとして——
言葉が、出てこなかった。
少年が、満面の笑みで手を振る。
「じゃあ、これからよろしく!」
「……ああ。よろしく」
言葉にした瞬間、
胸の奥が、一瞬だけざわつく。
——大丈夫。
まだ、何も始まっていない。
流れに乗っただけだ。
朔の様子を気にした様子もなく、少年はくるりと背を向けて、
「じゃあな、迷子ー!」
楽しそうに声を弾ませたまま、走っていった。
「……サクだよ」
つい、短く言い返す。
少年は一瞬だけ立ち止まり、
赤茶の髪をくしゃっと揺らして振り返った。
日に焼けた瞳が、いたずらっぽく細くなる。
「サクな!
俺、アクト!」
それだけ言い残して、
「じゃあな!」
今度こそ、ドタドタと駆けていき、
土煙だけが残った。
返事を待つ気は、最初からなさそうだった。
(元気だな……)
そう思ったところで、
ようやく、息を吐いた。
「……ああ、帰ってきたんだね、オルセン」
エプロン姿のおばさんが歩いてきた。
オルセンが軽くうなずく。
おばさんは朔に目を向け、やわらかく笑う。
「さっき、アクトの坊やがね、走りながら言ってたよ。
オルセンが森で迷った子を見つけたって」
(……噂になるの、早いな)
思わず、苦笑いがこぼれる。
だけど、不思議と嫌な感じはしない。
おばさんは、朔へやさしく微笑む。
「怖かったろうねぇ。
ここは安心していいからね」
その言葉に、
胸の奥が、ほんの一瞬だけ緩みかけて——
すぐに、指で押さえつけるみたいに、戻った。
そして——
おばさんの表情が、少しだけ真剣になった。
「それで……薬は、見つかったかい?」
オルセンは短く、首を振る。
「まだだ」
おばさんは深くうなずき、
「夜はうなされてたけど、今は眠ってる。
——落ち着いてるよ」
と言ってから、やさしく続ける。
「早く帰ってやんな」
オルセンは目を伏せ、一礼した。
「世話をかける」
「お互いさまさ」
おばさんが去り、
オルセンが歩き出す。
(“薬”……?)
胸の奥で引っかかる感覚。
けれど、
「坊主。ついてこい」
オルセンはそう言って、
歩みを緩めることもなく、先に進む。
広い背中だった。
知らない村、知らない大人、
知らない背中。
なのに——
心の奥で、
安心してしまいそうになる感覚を、
とっさに、見ないふりをしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
序盤は数日連続更新です。




