05. 静かな視線
——草むらが、かすかに揺れた。
地面に伏せたまま、息を止める。
湿った土の匂いが、すぐ近くにあった。
ルクの声が、低く落ちる。
『動かないでください』
影の向こうから、
ゆっくりと——
男が現れた。
背が高い。
外で働き続けてきた人間特有の、無駄のない引き締まった体つき。
くたびれた外套に、動きやすさ重視の服装。
その胸元で、くすんだ銀色の、
小さな輪がひとつ揺れていた。
片手には長い杖。
無骨なそれを地面に預けているだけで、
足元の土が、わずかに沈んでいた。
「……っ」
淡い色の瞳が、こちらを捉えた。
その視線の向こうに、
日に焼けた顔があった。
汗と埃でくすみ、
短く伸びた髭が、頬骨と鼻筋に影を落としている。
しばらく沈黙。
風の音に紛れて、
自分の鼓動だけが、やけに近く聞こえた。
低い声が落ちた。
「……坊主。
こんなところで、何をしている」
責める声ではない。
ただ、確認する声。
うまく唾が飲み込めない。
「……迷子です。
怪しい者じゃない……つもりです」
男は、ほんの少しだけ眉を上げた。
すぐには言葉が返ってこない。
杖を持つ手も、視線も、動かない。
時間だけが、静かに伸びていく。
喉の奥が、ひりつく。
——小さく、息を吐く音がした。
「森の奥まで入って地面に伏せてるのは、
迷子とは言わん」
そう言いながらも、
杖の先で地面を示す。
「立てるか」
張り詰めていたものが、ふっと抜けた。
恐る恐る、腰を浮かせる。
体重を足に移そうとする。
足に、力が入らない。
湿った土の上で、足がわずかに滑る。
ふらついた朔の肘を、男は一瞬だけ支え——
すぐに手を放した。
その動作は、見た目よりずっと静かで、思わず目を瞬かせた。
男は、朔が立てているのを一瞬だけ確かめる。
視線が、戻る。
「名は」
(苗字から? 下の名前? どう言えば……)
少し迷って——
「……真中。
真中 朔……です」
聞き慣れない響きに、
オルセンの視線だけが、わずかに細くなる。
やがて、自分の名を短く告げる。
「俺は、オルセン・リーヴェだ。
近くの村の者だ」
(……どっちが名前だ?)
一拍置いて、朔は無難そうな方を選ぶ。
「……リーヴェさ——」
「やめろ」
即座に、短く遮られた。
「ここでは、名前でいい」
「あ……オルセンさん?」
男は、ほんの一瞬だけ眉を動かし——
低く息を吐いた。
「さんもいらんが……それでいい」
(……オルセンが、名前なんだ)
杖をトン、と地面に突く。
「ここで長居は危険だ。来い」
踵を返す。
その拍子に、整えられていない濃い色の髪が、わずかに揺れた。
(……助かった)
そう思って、すぐに打ち消す。
ついて行けば、
言葉を交わすことになる。
関わることになる。
――名前だって、もう聞いてしまった。
胸の奥が、わずかに固くなる。
それでも、
今ここで立ち止まる勇気はなかった。
朔は何も言わず、
少し遅れて、その背を追った。
しばらく歩いたところで——
ふいに、
耳が少し賑やかになっていることに気づいた。
風が枝を揺らす音。
虫の、かすかな鳴き声。
遠くで鳥が羽ばたく気配。
(……あれ?)
さっきまで、こんな音——していただろうか。
一度だけ振り返る。
岩陰は、静かにそこにある。
まるで音だけが置いていかれたみたいに、
あいかわらず不自然なくらい静かだった。
(——また、戻ることになる)
根拠のない予感だけが、胸に残る。
そして朔は、
再びオルセンの背中を追った。
森を抜ける途中、低い声。
「その服」
淡い色の瞳が、一瞬だけ朔の足元から肩、
そして小さな鞄へと流れた。
「見たことのない仕立てだな」
(やっぱり、浮くよな……)
『素材が違います』
短く、ルクが言った。
『あなたの服は、この環境では目立ちます』
曖昧に笑うしかない。
オルセンは、少し間を置いてから続ける。
「ここらのものではない。
どこから来た」
言葉が詰まる。
(日本。地球。異世界——
言えるわけないだろ)
小さく息を吐き、なんとか言葉を探す。
「……どこって言えばいいのか。
目、覚ましたらここだったんで」
オルセンは朔を横目で一瞥し、
短く息を吐いた。
「記憶に穴があるのか。
それとも——隠しているのか」
責めるでもなく、ただ確かめる声。
だが、何も言えなかった。
オルセンは、静かに言う。
「……いい。今は聞かん」
それきり、言葉はなかった。
同じような木々を抜け、
同じような足音を繰り返すうちに、
足の裏がじんわりと熱を持ち始める。
どれくらい歩いたのかは分からない。
そのうちに、森の表情が少しずつ変わっていった。
木々の間隔が広がり、
足元の下草が短くなる。
鳥の声が増え、
風の匂いが、どこか違ってくる。
その変化に気づいた頃——
木々の向こうに、屋根が見えた。
小さな家々。
細い煙が、いくつも空へ伸びている。
低い柵が、村の外縁をなぞるように続いている。
風に乗って、
草を踏み分けるような気配が、かすかに混じる。
確かな“生活”の匂い。
気づかないふりをしていた息を、ようやく吐いた。
村の手前で、オルセンが立ち止まった。
振り返り、まっすぐ言う。
「いいか」
視線が、はっきりとこちらに向けられる。
「俺は、まだ坊主を信じてはいない」
(……だよな。……そうでないと困る)
「だが——」
ほんの少しだけ、声がやわらぐ。
「迷子を森に置き去りにもできん」
胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。
それだけ言って、再び歩き出した。
朔は、その背中を追う。
朝の光の中で、
まだ知らない世界が、静かに輪郭を持ち始めた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
序盤は数日連続更新です。




