音のない森
まぶたを開けると、
視界の端に、強い光が滲んだ。
思わず目を細める。
空が、近い。
冷たい空気が肺に入り、
吐いた息が、すぐに散った。
(……朝、か)
体を動かそうとして、
背中と肩に、鈍い痛みが返ってくる。
岩の感触。
固くて、冷たい。
(ああ、そうか。岩にもたれて寝たんだっけ)
昨夜のことが、少しずつつながっていく。
夢ではなかったらしい。
ゆっくりと身を起こし、
縁に近づいて、下を覗いた。
森が、広がっていた。
朝靄が、森の根元に薄くまとわりついている。
光はやわらかく、風はほとんどない。
昨日、歩いてきたはずの木々が、
ずっと下に見える。
(……高いな)
そう思ってから、
ほんの一拍、遅れて気づく。
(……静かだな)
静か、というより——
音が足りない。
森って、もっとざわざわしているイメージだった。
虫の音とか、鳥の声とか、枝の揺れる音とか。
それが、ここでは妙に薄い。
耳を澄ませても、
遠くで鳥が一声鳴くくらい。
(変な感じだ……)
あたりを見ると、
昨夜はただの影にしか見えなかった岩陰が、
朝の光で形をあらわにしていた。
洞窟というほど深くはない。
けれど、ただの岩とも言い切れない。
天井は低く、
奥は途中でぴたりと途切れている。
足元は、不自然なほど平らだった。
手を伸ばす。
ひやりとした感触。
指先の下を、細い直線がなぞるように走る。
(……やっぱり変だ)
自然に削れた岩じゃない。
人の手が加わったような、意図のある形。
言葉にならない感覚のまま目で追っていると——
『“人工物”である可能性は高いと思われます』
ルクの声が、静かに響いた。
『ただし、目的・時期・製作者については不明。
まだ判断材料が足りません』
「遺跡……みたいなものか?」
『断定は保留します』
胸が、少しだけざわついた。
異世界。
二つの月。
そして、よくわからない構造物。
RPGの主人公みたいだ、なんて考えて——
自分で苦笑する。
(そんなカッコいいもんじゃない。
ただの迷子だ)
苦笑して、顔に手を当てる。
そのとき——
ぐう、と小さく腹が鳴った。
(あ)
(……そりゃ、そうだよな)
昨日から、まともに何も食べていない。
空腹がじわじわ主張してきた。
「ルク。食べられそうなもの、ある?」
『周囲の植生を分析します。
少々お待ちください』
少々。
その言葉に、朔は無意識に腹を押さえた。
(……腹、減ったな)
そう思った途端、
それ以外のことが頭から抜け落ちる。
昨日、何食べたっけ。
(……ああ)
レトルトは切れていた。
冷蔵庫に残っていた、
中途半端な野菜。
使いかけのベーコン。
「これで何か作れるかな」
そんなことを考えて、
結局、聞いた。
(キャベツとにんじんとベーコンで、簡単に作れるやつ教えて)
作り方を見て、
「まあ、いけるか」と思って、
そのまま作った。
味は、悪くなかった。
(今考えることじゃないのに)
分かっている。
どうでもいい。
でも、
そういうことを考えていないと、
別のことを考えてしまいそうだった。
だから、
昨日のご飯のことを、
何度もなぞる。
そして——
『北東方向。
樹高三メートル前後の木。
枝先に果実が複数確認されます』
ルクの声が戻ってくる。
『赤紫色。表面に薄い粉。
鳥類の摂食痕あり』
「食べられるやつ?」
『断定はできません。
ただし、有毒の可能性は比較的低いと判断します。
種子は飲み込まず、果肉のみを少量。
体調の変化を五分ほど観察してください』
(医者かよ……。)
小さく笑いながら、
言われた方向へ歩く。
木の枝に、小さな果実が鈴なりになっていた。
指先ほどの大きさ。
完全な球ではなく、
細い柄で枝からぶら下がっている。
赤紫色の皮の表面には、
うっすらと白い粉が乗っていて、
朝の光を受けて、少しだけ鈍く光っていた。
指でつまむと、柔らかい。
皮は薄く、指先に、かすかな粉の感触が残った。
鼻先に近づける。
甘い匂いを想像したが、
実際には、ほとんど感じなかった。
指先に残った粉の感触だけが、
妙に現実的だった。
(……これ、ぶどうか?)
ルクに聞けば、すぐ答えは出る。
そう思って——やめた。
なぜだか、聞きたくなかった。
そっと口に入れ、歯でかじる。
最初に広がったのは、甘さ。
舌の奥に、軽い酸味が続く。
ここまでは、思っていた味だった。
けれど、
飲み込む直前、
喉の奥に、ほんのわずかな苦みが残った。
薬みたいな、
舌の奥に貼りつくような後味。
(……あれ)
もう一度、口の中を確かめる。
甘い。
酸っぱい。
そして、最後に、違う。
(……いける、のか?……いや、たぶん)
恐る恐る飲み込み、しばらくじっとする。
めまいも吐き気もない。
ほっと息を吐き、もういくつかだけ摘んで、
そのまま小さな鞄に押し込んだ。
ふと、木の根元を見る。
(……?)
そこだけ、草がない。
まるで何かに押しのけられたみたいに、
地面がぽっかり空いている。
でも、枝の先には実が残っていて、
そのあたりにだけ鳥が来た跡があった。
(ここまでしか来ないのか……)
理由は分からない。
けれど、妙に気になった。
果実を持って岩陰へ戻り、腰を下ろす。
また、静けさ。
風がほとんど吹かない。
葉もあまり揺れない。
(森って、こんなに静かなものなんだっけ)
昨夜の、あの獣の気配も感じない。
音が消えたみたいだ。
壁に背中を預けて、
指先でまた表面をなぞる。
冷たくて硬くて、
どこか“意図”のある形。
でも——
(結局、分からないんだよな)
考えても、結論は出ない。
『観察は有効です。
ただし、現時点で結論を出すには情報が不足しています』
ルクの声は、静かで落ち着いていた。
『行動を重ねることで、
判断材料は増えていくでしょう』
「……まあ、そうなるしかないよな」
朔は果実を一つ、ゆっくり口に運んだ。
果実を食べ終えてからも、
ぼんやりと森を眺めていた。
ここは静かで、危険も感じない。
一晩しのげたという事実が、少しだけ心を緩める。
(ここにいれば、しばらくは——)
安全“そう”だ。
固くて動かない岩。
風を遮る陰。
一晩を越せたという事実。
けれど、胸の奥で別の声がする。
(……じゃあ、このまま何日? 何週間?)
喉の奥がきゅっと締まる。
『水分は確保できています。
しかし、栄養は不足しています』
ルクの声は静かだ。
『この場所は短期的には有効ですが、
長期滞在には適しません。
いずれ、移動が必要になります』
「……だよな」
頭では理解している。
でも、足は前に出たがらない。
(森の奥は、未知だ)
どこへ続くのか分からない。
何が出てくるのかも分からない。
(正直、こわい)
それでも——
何もしない未来を想像すると、足が前へ出た。
朔は岩陰から抜け出し、歩き出した。
鬱蒼とした茂みを掻き分け、
踏み出した瞬間——
耳の奥で、音が増える。
風。
葉のこすれる音。
遠くの鳥の鳴き声。
(さっきまでは……)
振り返ろうとして——やめる。
(……考えても、分からない)
小さく息を吐き、前を見る。
そして、しばらく歩き出した。
そのとき。
——草むらが、かすかに揺れた。
(……!)
心臓が跳ねる。
気づけば、
地面に身を伏せていた。
重くない。
静かで、慎重な足取り。
(人……?)
木の影から、一人の男が現れた。
それが、この世界で——
はじめて出会う「現地の人間」だった。
その瞬間から、止まっていた歯車は、静かに動き出した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
序盤は数日連続更新です。




