03. 夜の気配
森の色が、ゆっくりと変わっていく。
夕方、という言葉では足りない。
光そのものが、少しずつ冷えていく感じだった。
川で喉を潤したあと、
俺はしばらく石に腰かけて空を見ていた。
やっぱり、二つ。
空の高いところに、動かない淡い銀の月がある。
そのそばを、大きい白い月が、ゆっくりと場所を変えながら巡っていた。
(……片方、動かねぇ。
見間違いじゃないよな)
見上げているだけで、時間は進む。
なのに、あの銀の月だけが動かない。
現実味はないのに、
体のどこかは冷静で——
(じゃあ、どうする?)
その問いだけが、残った。
『移動を推奨します』
ルクの声が頭の奥で響く。
「移動って……どこへ?」
『現在位置は不明です。
よって断定はできません。
ただし——この場所は、夜になると危険度が上がる可能性があります』
「危険度……って?」
『捕食者。あるいは、それに相当するもの』
喉が、ひくりと鳴る。
(そりゃ、いるよな。森だし)
あたりを見回す。
日が沈みかけて、影が長く伸びている。
足を踏み出すと、草が湿っていた。
(とりあえず……高いところ? それとも隠れられる場所?)
考えながら、森の中を少しずつ進む。
風が止み、音が減る。
代わりに、夕闇が染みてくる。
そのとき——
低く、喉を鳴らすような音がした。
「……っ」
足が止まる。
聞き間違えじゃない。
どこか遠くで、獣の声。
——もう一度。
さっきより、少し近い。
風に紛れていた音が、
はっきりと“こちら”を向き始めていた。
(……近づいてる)
そう理解した瞬間、
背中に冷たいものが走った。
『後退を。ゆっくり。音を立てずに』
言われるまま、少しずつ下がる。
胸の鼓動が速くなる。
空気が冷たくなっていく。
(隠れられる場所……!)
視線を走らせる。
すると、少し離れた斜面に、
地面が崩れたような場所が見えた。
大きな岩がいくつも折り重なっている。
その隙間に、
影がぽっかりと口を開けていた。
(あそこ……!)
俺は身を低くして走った。
草が足に絡みつき、
思ったように前へ進まない。
踏み込むたび、
湿った音がやけに大きく響く気がして、
無意識に足運びが乱れる。
背後で、
木の根を踏みしめるような鈍い音がした。
間を置かず、
さっきより近い位置で、同じ音がする。
息が荒れる。
吸おうとしても、胸に空気が入らない。
振り返る余裕はなかった。
確かめる勇気もなかった。
必死に草を掻き分けながら、
ただ、岩の影だけを見ていた。
——あと少し。
そのとき、
背後で枝が軋む音がした。
近い。
さっきより、はっきりと。
足元の草が途切れ、
土がむき出しになる。
反射的に身を投げ出す。
岩陰に飛び込み、
背中を壁に預ける。
——来ない。
そのことに気づいて、
ようやく、息を吐いた。
胸の奥に溜まっていたものが、
少しずつ抜けていく。
背中に押しつけた感覚を、今さら意識する。
ひんやりと冷たい感触。
思ったより広くて、奥が暗い。
(……洞窟? いや、違う。何だこれ)
壁に手を当てる。
ただの岩だと思っていた。
でも、指先に触れる表面は、妙に滑らかで——
(削った……?)
よく見ると、
薄く線が刻まれている。
模様のような、文字のような。
けれど、崩れていて読めない。
目を凝らしているうちに、
空が一気に暗くなった。
と、同時に。
——森の奥で、何かが走り抜けた。
草が擦れる音。
重い足音。
喉が、ごくりと鳴る。
(近い……!)
息を止める。
耳の奥で、ルクの声。
『動かないでください。
その場で』
時間が、伸びる。
やがてその気配は遠ざかり、
静けさが戻ってきた。
(危な……)
ふう、と息を吐く。
(……勘弁してくれよ)
獣に追われるとか、
そんな展開、想定してない。
鬼ごっこですら、
本気で逃げたことはなかった。
適当に走って、
空気を見て、
そろそろいいかと思ったところで捕まる。
帰りてぇ。
……いや、本当に?
誰とも会わずに済むなら、
何も始まらないで済む。
……もうあんな思いはしたくない。
でも——
このままここで生きろって言われたら、
さすがに、きつい。
そもそも。
帰れる保証なんて、どこにもないのに。
(何を考えてるんだ、俺は)
壁にもたれ、空を見上げた。
森の上に、夜が広がっていく。
そして——
二つの月が、はっきりと浮かび上がった。
ひとつは、淡い銀。
もうひとつは、少し青みを帯びている。
どちらも静かで、冷たい。
(……きれいだな)
怖いはずなのに、
同時に、目が離せなかった。
『体力を温存するため、
可能なら、少し眠ってください。』
「ここで?」
『はい。
この場所は——他よりは、安全です』
(“他よりは”って……。)
苦笑しながらも、
まぶたが重くなっていく。
石の冷たさが、背中からゆっくり広がる。
目を閉じる直前、
指先の下で、岩の模様が微かに光ったような気がした。
(気のせい……か)
そんなことを思いながら、
意識は静かに沈んでいった。
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序盤は数日連続更新です。




