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火のある場所

「ただいま!」


ナディアの声が、戸の中に入っていく。


朔も一歩遅れて続く。


(……ただいま、か)


かまどのそばから、オルセンの声が飛んだ。


「おう、戻ったか」


「お肉、買ってきたよ」


朔はナディアに続けて言う。


「切りたてだって」


「……そうか」


オルセンは、

手を動かしたまま言った。


「じゃあ、作ろっか」


ナディアは籠を卓に置くと、

そのまま準備を始める。


朔は、少しだけ様子を見てから、

一歩だけ近づく。


「手伝おうか」


ナディアは手を止めて、

やわらかく笑う。


「じゃあ、お願い」


「任せて」


そう言ったものの、

どう動いていいか分からない。


“誰かの家の台所に立つ”

という感覚が、朔には久しぶりだった。


「どうしたの?」


ナディアは、少しだけ首をかしげて、


「こっちで一緒にやろ」


朔はうなずいて、まな板のほうへ寄る。


並べられた野菜に手を伸ばした。


ひとつ、にんじんを持ち上げる。


まだ土が少し残っていた。


「……これ、洗えばいい?」


「うん。土だけ落としてくれたらいいよ」


朔は桶に水を張ると、

にんじんを沈めた。


表面の土が、ゆっくりほどけていく。


水を切り、

軽く持ち上げる。


「洗ったよ」


すぐ隣で、

包丁がまな板に触れる音がする。


ナディアは手を動かしたまま、

少しだけ視線を寄越す。


「そしたら、そこに置いてくれる?」


朔はうなずいて、

まな板の横にそっと置いた。


刻む音が、隣で続く。


ナディアの手は迷いなく動いていて、

野菜がきれいに揃っていく。


そのとき――


「灰、出してくる。

ついでに水も汲んでくる」


朔はオルセンの方に目を向ける。


「手、足りてる?」


少しの間。


「桶はひとつだ。

それに……こういうのは俺の仕事だ」


朔は小さく肩をすくめた。


「……それは、そうだな」


かまどの前を離れる気配。


すぐに、庭へ抜ける足音が聞こえる。


開け放した窓の向こうから、

低い声が届いた。


「そっちは任せた」


ナディアが言う。


「じゃあ、こっちは任せて」



やがて、足音が遠ざかる。


水音。

包丁がまな板に触れる音。

外で、灰が落とされる乾いた音。


それぞれ違う音が、

ぶつからずに重なっていく。


ナディアはにんじんを揃えて切りながら、ちらりと朔を見る。


「包丁、使える?」


「まあ、最低限は」


「それで十分」


指先が、まな板の上を滑る。

迷いのない動きに、朔は一瞬、目を離せなくなる。


朔は、視線を落とすと、

まな板のほうへ向き直った。


(……近っ)


肩が触れそうな距離にいることに、

遅れて気づく。


離れたほうがいいのか、

それすら分からない。


包丁の音は変わらず、

すぐ隣で続いている。


(……あ)


手元を見ると、

切り口が、厚かった。


ナディアが、朔の手元を見て、

くすっと笑った。


「その切り方、

お父さんと一緒だよ」


「え」


その言葉に、

ふと、思い出す。


――この家で、初めて食べた料理。


朝の台所。

鍋から立ち上る湯気。

量があって、温かければいい、という作り方。


わずかに声を低くする。


「……腹に入れば、一緒だ」


ナディアは一瞬きょとんとしてから、

噴き出した。


「それ、それ」


笑い声が、台所にやわらかく落ちた。


その余韻をかき消すように、

鍋の底で、油が静かに温まる。


刻まれた野菜が落とされ、

じゅ、と小さな音がした。


湯気が、ふわりと立ち上った。


油の匂いと、野菜の甘さが混じる。


「……いい匂い」


思わずこぼすと、ナディアが少し照れたように笑う。


「わかる?

もっと良くなるよ」


「すでにすごく美味しそうだよ」


「見ててね」


ナディアは鍋の縁に寄り、

木匙で軽く混ぜてから、指先に少しだけ取る。


舌に乗せて、ほんの一瞬考える。


「……塩、少し」


棚から小さな袋を取り、

指でつまんで鍋に落とす。


やがて、鍋の中は、

角切りの肉と根菜がごろりと並ぶ煮込みになった。


「……できた」


その瞬間、腹が鳴った。


「……いや、あまりに美味そうで」


思わず、目を逸らす。


「ありがと。

じゃあ、食べよっか」


器に盛ると、

澄んだ湯気が立ち、汁が縁を伝った。


肉の表面には薄く脂が回り、

玉ねぎとにんじんは形を残したまま、柔らかく沈んでいる。


ナディアが手を合わせる。


「……マデナに、感謝を。

いただきます」


オルセンは、いつもの動作でそれに続く。


一拍遅れて、朔も同じように手を合わせた。


食べ始めると、しばらく言葉がなくなった。


噛むと、肉の旨みが静かに広がり、

にんじんの甘さが後から追いかけてくる。


「うまっ……」


思わず、声が漏れた。


ナディアは、ほっと息を吐いた。


「よかった」


朔は、器の熱を両手で感じたまま、

黙ってうなずいた。


胸の奥が静かにほどけていくのを感じていた。


食事の途中で、ナディアが箸を止める。


「……みんなで食べると、本当においしいね」


オルセンは、器を見下ろして小さく笑った。


「あぁ。巡りのおかげだな」


少し間を置いて、


「……もうすぐ昇り火だ。

そこで、ちゃんと届ければいい」


ナディアは、

一拍だけ置いてから、うなずいた。


「……うん。

……そうだね」


食事は、そのまま終わった。


器を片づけ、火を落とす。

外は、もう夕方の色だった。


風が、庭を通り抜ける。


朔は、空になった器を見つめたまま、

しばらく動かなかった。


火の気配が、静かに家の中に残っている。


それが、今はただ、

心地よかった。


――それを否定できない自分が、

少しだけ、怖かった。

ここまで読んでいただき、

本当にありがとうございます!


更新は水・金・土の21時10分予定です。

よろしければ、ブックマークしていただけると嬉しいです。

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