20. 並んで歩く距離
粘土の塊が、顔の横をかすめた。
「……っ!」
朔はとっさに身をずらす。
遅れて、風を切る音が頬を打った。
もう一歩。
転びかけた足で土を蹴り、距離を取る。
ーー来る。
そう思った瞬間には、
オルセンの肩が、わずかに動いていた。
踏み込み。
腕の振り。
重心。
それを見てから、身体をずらす。
ばこんっ!
乾いた音が、背後で弾けた。
飛んでくる“物”だけじゃない。
ーー足元だ。
踏み固められた場所と、そうでない場所。
湿った土と、乾いた土。
それが、少しだけ繋がって見える。
「っ、こっちだ!」
次の塊が、頬のすぐ横を抜けていく。
朔は息を詰めたまま立ち止まった。
その視線の先で、
オルセンが片手を上げる。
「そこまでだ」
そのとき、
家の戸が小さくきしんだ。
⸻
庭の向こうの、
木の擦れる音に、朔は顔を上げる。
花壇の奥、家の正面。
扉の影から、ナディアがそっと顔をのぞかせた。
外套を肩にかけ、籠を腕に抱えたまま、
視線を庭に向ける。
そして、庭の奥にいる朔と、視線がふと重なった。
「……あ」
小さく声がこぼれて、
それから、いつもの柔らかな笑顔になる。
「おはよう」
「……おはよう」
少し遅れて返すと、ナディアはいつものように微笑む。
「食材、ちょっと足りなくって。買いに行ってくるね」
「……一緒に行く」
ナディアが一瞬だけ目を瞬かせる。
「え?」
「……荷物、多くなりそうだし」
少し照れたように言うと、ナディアはくすっと笑った。
「じゃあ、お願い」
⸻
木戸を抜けて村の道に出る。
畑の匂いと、昼の光が混じって流れてくる。
しばらく歩くと、道の脇に小さな商いの並ぶ一角が見えてきた。
野菜や保存食、日用品を並べた露店が、肩を寄せ合うように並んでいる。
露店のあいだを縫うように、人が行き交っている。
魚を並べる音。
籠を置く音。
呼び込みの声が、あちこちから飛んでくる。
村のざわめきが、
露店のあいだを流れていた。
「そっちは油、足りてるか?」
「あるある。昇り火まで持てばいいだろ」
「木、もう集めた?」
「うちは裏の薪を少しな。足りなきゃ回すさ」
そんな言葉が、雑多に混じって耳に入る。
朔は、思わず足を緩めた。
「……昇り火?」
小さく漏らすと、
ナディアが籠を抱えたまま、少しだけこちらを見る。
「ああ、うん」
歩きながら、当たり前のことみたいに言う。
「次の満月。
この時期は、毎年こんな感じになるの」
人の行き交う露店を、軽く顎で示して。
「準備が重なるから、
みんな、ちょっと忙しくなるんだ」
そう言って、また店先へ視線を戻した。
やがて、ナディアがその中の一つの店の前で足を止め、並んだ品を確かめるように見て回り始めた。
粉袋、小さな瓶に入った油。
それに、乾いた香草の束と、塩。
いくつか選び終えると、ナディアが籠の中を見て小さく息をつく。
「……これだと、主になるものが足りないね」
その言葉を聞いた店の人が、うなずいて奥から二つの包みを出してきた。
「今日は川魚もいいし、豚肉も切りたてだよ」
ナディアは少しだけ迷うように視線を動かし、
朔も同じ二つを見比べる。
そして――
ほとんど同時に、
二人とも豚肉のほうを指していた。
「……こっち」
「……あ、同じ」
一瞬、二人で指を止めたまま、
顔を見合わせる。
それが可笑しくなって、
どちらともなく、笑みがこぼれた。
店の人が、その様子を見て口の端を上げる。
「二人とも、似たとこあるね」
ナディアは少し照れたように、指を引っ込めた。
包みをまとめながら、店の人はふたりにそれを差し出す。
ナディアは籠を脇に抱えたまま、
腰の布袋から、小さく澄んだ音を立てて、銀と銅を取り出した。
銀が一枚。
それに、銅が二枚。
店の人はそれを受け取り、軽くうなずく。
「……あなたに、巡りを」
ナディアは、迷いなく応じた。
「あなたにも」
⸻
帰り道。
朔はすでに腕いっぱいの荷物を抱えながら、ナディアの籠も一緒に持って歩いていた。
「……それ、ずっしりするでしょ」
「平気。最近ちょっと鍛えてるから」
冗談めかして言う。
「ふーん」
『毎日倒れています』
と、ルクの声。
朔は、小さく息を吐いた。
否定できないのが、いちばん悔しい。
(……やめて。……事実だけど)
心の中でそう返すと、ナディアがちらりとこちらを見る。
少し迷うような間を置いてから、ナディアが言った。
「……最近、頑張ってるよね。
朝になると、庭のほうから声が聞こえてくるし」
朔は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まる。
「……ごめん。うるさかった?」
「ううん」
ナディアは首を振った。
「なんていうか……すごいなって思って」
「……たいしたこと、してない」
「でも、やってる」
それだけの言葉が、
不思議とまっすぐに聞こえた。
「……ナディアだって」
思わず口をつく。
「充分、頑張ってるよ」
ナディアは少し驚いた顔をして、それから小さく笑う。
「……ありがとう」
家の屋根が見えてくる。
花壇の色も、その向こうに見える。
並んで歩く距離が、いつの間にか頁の続きを埋めていた。
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