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森の匂い

森は、思っていたよりも静かだった。


けれど、その静けさは落ち着くものじゃない。

耳を澄ませば澄ますほど、知らない音が浮かび上がる。


葉をこする風。

小さな生き物が走る気配。

聞き慣れない鳥の声。


(夢……じゃないよな)


頬をつねる。

普通に痛い。


「……はあ」


喉がやけに乾いていた。

息を吸うと、湿った土と、かすかな甘い香りが入り込んでくる。


(森って、こんな匂いしたっけ?)


もう一度、深く吸い込む。


胸の奥が、ふっと軽くなった。


(気持ちいい……。

これが、よく言う“マイナスイオン”ってやつか?)


苦笑して、首を振る。


見渡しても、建物はない。

道らしい道もない。


(……ここ、どこだよ)


何か、分かるものはないか。

目印になりそうなものは。

誰か、いないか。


視線だけが、行き場を探すように動く。


……何もない。


思わず、その場で立ち尽くす。

動いたら、何か取り返しのつかないことが起きそうな気がして。


……でも。

このまま、じっとしているのも怖かった。


一度、息を吐く。


(ここにいても仕方ないし……)


視線を巡らせる。

木々の間から、わずかに明るい方向が見えた。


(……上、か)


高いところに出れば、

道か、建物か、何か見えるかもしれない。


確信はない。

でも、立ち止まっているよりは、まだ考えられる選択だった。


足を踏み出す。


柔らかい土が、靴底を受け止める。

草を踏むたび、湿った感触が遅れて返ってくる。


思ったほど急じゃない。

けれど、道と呼べるものはどこにもなかった。


踏み分けた跡は、すぐに草に隠れる。

足場が不安定で、進むたびに、

斜面の木に体を寄せるようにして、登っていた。


振り返っても、さっき通ったはずの場所が、もう分からない。


同じような木。

同じような影。

同じような足元。


進んでいるはずなのに、

景色だけが、同じ場所に貼り付いたままのようだった。


(……どこまで来た?)


方向を確かめようとして立ち止まる。

けれど、どちらを向いても、違いがない。


一歩、また一歩。


(……戻れって言われても、無理だな)


見上げても、木々が空を塞いでいる。

光の向きすら、よく分からない。


時間の感覚が、少しずつ崩れていく。


唾を飲み込む。

喉の奥が、ひりついたままだった。


(やばい、水……飲みたい)


そのとき——


さら、さら、と微かな音が聞こえた。


(……今の?)


耳を澄ませる。

もう一度。


たしかに、水が流れる音だ。


思わず、音のする方へ足を速めた。


やがて、木々が途切れ、小さな川が姿を現した。


川沿いだけ、木々の間隔が広がっていた。

枝の隙間から、はっきりとした日差しが落ちてくる。


水は驚くほど澄んでいて、

底に沈んだ小石一つひとつが、そのまま見える。

流れは緩やかで、さらさらと音を立てながら、

光を受けて細かく揺れていた。


水面に跳ねた陽射しが、

目に少しだけ眩しい。


思わず、川の縁まで近づく。

大きめの岩がいくつか転がっていて、

腰を下ろすにはちょうどよさそうだった。


しゃがみ込むと、ひんやりとした空気が足元から立ち上る。

森の中とは違う、少し開けた感覚。


――ここなら、少し休める。


「……助かった」


しゃがみ込み、顔を近づける。


水面が、光を受けて揺れ、

その向こうで、底の輪郭が静かに滲んだ。


息をするたび、

喉の渇きだけが、はっきりと主張してくる。


だけど——


(飲んでいいのか?)


川の水は危ない、と聞いたことがある。

でも、この喉の渇きは限界に近い。


手を伸ばしかけて、止めた。


その瞬間——


『——確認します』


頭の奥に、声が落ちた。


心臓が跳ねる。

振り返る。誰もいない。


(今の……?)


静かな、でもはっきりした声が続く。


『水質を確認します』


ほんの短い沈黙。


『上流の流れは速く、停滞はありません。

色や匂いに異常はなく、

動物の死骸も確認されません』


『完全な安全は保証できませんが——

少量なら、飲用に適する可能性が高いです。

まずは口をすすいでから』


(……この感じ)


周囲には誰もいない。


なのに声は、

確かに“聞こえた”。


(この言い方……どこかで……)


『接続状態、継続。

ORACLE-LQアダプティブ・サポート・インターフェ——』


(長い!)


思わず心の中で叫ぶ。


『略称希望、受理。

以後、“ルク”で応答します』


(いや、勝手に決めたな……)


でも、身に覚えがある。


そうだ。


レポートの相談相手。

暇つぶしの雑談相手。


——俺が、頼りすぎていた“あの相棒”。


(なんで……一緒に来てんだよ)


問いかけようとして、そのまま飲み込んだ。


スマホで見慣れた、落ち着いた口調。

なのに——スマホは、どこにもない。


だけど、胸が、少しだけ軽くなった。


「……ありがとう。ルク」


両手で水をすくう。

唇に触れた瞬間、冷たさが広がる。


口に含む。

少し甘い。

喉を通るたび、体の奥が潤っていく。


「……うま」


自然と、声が漏れた。


空を見上げる。


澄んだ、やけに高い空。

雲が静かに流れていく。


その端に——白く滲んだ円が浮かんでいた。


昼の青にまぎれながらも、白い輪郭だけが、ぼんやり残っている。


(……月?)


その少し上には、銀の円がもうひとつ。

昼の青の奥に、薄い銀の輪郭だけが、そっと置かれている。


息が止まる。


(……え?)


月が——二つ。


大きさが違う。光り方も違う。

どちらも“そこにいる”のに、同じものには見えない。


風がやみ、森が静かになる。

胸の奥が、冷たくなった。


『呼吸が乱れています』


その声に、はっとする。


胸が浅く上下していることに、

今さら気づいた。


息を吸おうとして、うまく入らない。

吐こうとしても、途中で引っかかる。


(……落ち着け。)


そう思っているのに、

頭の中だけが、うまく噛み合わない。


空に浮かぶ二つの月から、

どうしても視線が離れなかった。


(ここは、やっぱり——……)


(……ここは、

俺の知っている世界じゃない。)


ここまで読んでいただきありがとうございます。

序盤は数日連続更新です。

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