19. ひらいたままの頁
朔の部屋には、いろいろなものが置かれていた。
小さな棚に、古い本。
木箱の中に、細々した道具。
使い道の分からない布袋や、
少し色あせた紐。
どれも、きちんと並べられている。
ただ、日々の中で触れられることは少ないようだった。
その中に、
一冊の薄い絵本が混ざっていた。
背表紙は少し丸くなっていて、
何度も開かれた跡がある。
朔はそれを手に取り、
ぱらりとページをめくった。
やさしい色の挿絵。
大きな空と、
ふたつの月が描かれている。
文字は、子どもでも読めるくらいの、
簡単な言葉で書かれていた。
⸻
むかしむかしの はなしです。
ふたつの つきが そらに ありました。
ひとつは、
そらを めぐり、
ひとびとに よりそう つき――マデナ。
もうひとつは、
そらのいちばん たかいところから
うごかずに みまもる つき――アークです。
⸻
朔は、紙の端をつまんで、そっと送った。
やわらかな色の絵が現れ、
そこに月が描かれているのが目に入った。
その白い円を追うように、
視線が自然と窓へ流れる。
昼の光の中、
淡い輪郭だけを残して、
月がそこにあった。
空に浮かぶ、あの光。
それに、名前がついているらしい。
(……二つ、あるんだよな)
もう一度、視線を紙に戻す。
⸻
あるむらに スゥという ひとりの おんなのこが すんでいました。
ところが あるひ、
スゥの おうちに こわい まじょが やってきて、
スゥを そとへ おいだしてしまいました。
スゥは どれだけ あるいても、
どれだけ さがしても、
もとの おうちへ
かえることが できませんでした。
⸻
そっと、ページが送られる。
紙が、かすかに音を立てる。
⸻
ある まんげつの よる、
クリスという おとこのこが あらわれました。
クリスは、スゥの はなしを きいて、
いっしょに かえる ほうほうを
さがすことに しました。
⸻
ページの気配が、ゆっくり消えていった。
……ぱたん。
なぜだか、続きを少し明るい場所で
読みたくなって、そのまま持って部屋を出る。
朔は、絵本を閉じたまま立ち上がる。
廊下を抜け、居間を通り過ぎる。
足は、光のあるほうへ向いていた。
扉を開けると、
昼の光が、庭にそのまま落ちていた。
ポーチに出ると、
柔らかい光が、足元まで続いていた。
腰を下ろし、
膝の上で、また絵本を開く。
ページの中央には、
胸に手を当てた、まっすぐな目の少年が描かれている。
そのひとみは、
澄んだ川の底をのぞいたときのような、
うすい翠の色をしていた。
⸻
クリスは、スゥを、
ティフさんという とても かしこい ひとに
つれていきました。
「どうすれば、スゥは いえに かえれますか?」
すると ティフさんは いいました。
「クリスの ちからが ひつようだ」
⸻
風に揺れる庭の葉の音にまじって、
紙がさらりと鳴る。
⸻
クリスは いいました。
「アークに ちかって、
ぼくが きみを たすける」
そのことばを きいた ティフさんは、
ながい ことばを となえました。
すると、
クリスの なかの ちからが、
くるくると めぐり はじめます。
⸻
その ちからで、
スゥは、
ぶじに いえへ かえることが できました。
それから ひとびとは、
クリスとスゥの ものがたりを おもいだしながら、
アークと マデナの つきを みあげるように なりました。
⸻
絵本は、まだ膝の上に開かれたままだった。
読み終えたはずの物語が、
静かに胸にとどまっている。
(……関係ない、はずなのに)
閉じる気には、なれなかった。
ポーチの庇の影に、やわらかい昼の光が落ちている。
庭から、土の匂いと葉の揺れる音が届く。
ページの端が、
風に押されて、わずかに揺れた。
「……何、読んでるの?」
背後から、ナディアの声。
振り向くと、ポーチの入り口に立っていた。
昼の光を背にして、少しだけ眩しそうに目を細めている。
「これ」
そう言って、膝の上の絵本を少し持ち上げる。
ナディアは一瞬、目を瞬かせてから、
ふっと笑った。
「……懐かしい」
近づいてきて、絵本をのぞき込む。
「小さいころね。
よく読んでもらってたの。
お父さんにも……
……お母さんにも」
そのあと、ナディアは、絵本から少しだけ視線を外した。
朔は、口を開きかけて――
何も言わなかった。
しばらく、風の音だけが間を埋める。
「ね」
ナディアが、ページを指さす。
「私、この場面が好きだった」
そこには、スゥがひとり、夜の道に立っている絵。
怖くて、でも泣かずに前を向いている、小さな背中。
「最初はね、
誰かが助けてくれるところが好きだったの」
指先が、そっとページをなぞる。
「迷って、泣きそうで、
でも最後にはちゃんと迎えに来てもらえるでしょ」
少し間を置いてから、続ける。
「……でも、何度も読むうちにね、
だんだん、クリスのほうが気になってきて」
ページをめくる。
スゥの前に立つ少年。
手を差し出している絵。
「でも、いつの間にか……」
言葉を探すみたいに、少しだけ間があって、
「この人を、見てた」
庭の葉が、風に揺れる。
「怖かったと思うの。
それでも、約束するでしょ」
小さく息を吸う。
「“助ける”って」
ナディアは、そこで顔を上げた。
一瞬だけ、視線が重なる。
それから、
朔はゆっくりと、また絵本へ目を落とした。
静かに、うなずく。
「……分かる気がする。」
短い答えだったけれど、
それで十分だった気がした。
絵本は、まだ膝の上に開かれたまま。
文字も、絵も、もう読んでいないのに、
物語だけが、静かにそこに残っている。
昼の光の中で、
二人はしばらく、同じページを見ていた。
ここまで読んでいただき、
本当にありがとうございます!
少しでも続きが気になりましたら、
ブックマークしていただけると嬉しいです。
※この話のあとに、もう一話更新しています




