表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/22

18. 月の下で

日が沈み、

庭の影が、ゆっくりと伸びていく。


朔は、

その変化を、目で追っていた。


昼のあいだに残っていた生活の音が、

ひとつずつ引いていき、

家のまわりは静かになっていた。


人の出入りも落ち着き、

今はもう、足音も聞こえない。


昼に踏み固められた土。

少し折れた草の先。

風に揺れる、不揃いな花。


そのすべてが、

今日という一日を静かに残している。


足元に視線が落ちた。


(……俺は、真剣になることを、

どこかで避けていた)


でも今日は、必死に考えて、

動いた。


見ることも、

選ぶことも、

同時だった。


初めて――

本気で取り組んだ。


それが、少し怖かった。


空を見上げると、

二つの月が浮かんでいた。


動かない淡い銀と、

ゆっくり巡る大きな白。


その下で、

朔は立ち尽くしていた。


そこへ――


「……朔」


背後から、静かな声がした。


振り向くと、

ナディアがポーチのところに立っている。


あの日よりもずっと顔色はよく、

けれど動きはまだ、少しだけ慎重だった。


「もう、起きてて平気なの?」


朔がそう言うと、

ナディアは小さくうなずく。


「うん。

ずっと寝てるほどじゃないから」


少し照れたように続けながら、

ナディアはゆっくりと庭へ下りてくる。


『二、三日休んどけ。念のためだ』


そう言ってた、とナディアは笑う。


声を低くし、口調を真似ながら言う姿に、

自然と口元が緩む。


淡い緑の瞳が、こちらを映し、

視線が重なる。

 

「寝ている間にね、

窓から、見てたの」


「……え?」


「水を汲んでいるところも、

野菜を洗っているところも」


ナディアは、

ほんの少しだけ目を細める。


「子どもたちと走ってたでしょ」


朔は、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。


「別に……

成り行きで」


「ふふ」


その笑い方は、

からかうというより、どこか安心したみたいだった。


「……庭の奥で、

お父さんと向き合ってたときも。

ちゃんと、見てた」


柔らかい白い光が、花と土を照らす。


ナディアは、その月を仰ぐように上を向く。


「……寝込んでいるときはね、

こうやって月を見るの、ちょっと怖かった」


静かな声だった。


「でも今は、平気」


朔のほうを見る。


「ありがとう」


月の光が、ナディアの輪郭を柔らかく縁取っていた。


淡い光の中では、

時間だけが、少し遅れて流れている気がした。


朔は、言葉を探すように視線を落としかけて、

――そのまま、何も言わなかった。


夜の空気が、ひとつ息をする。


月明かりが、二人のあいだをゆっくりと満たし、

静けさが、そこに残った。


朔は、無意識に指先を握り込んでいた。

爪が、少しだけ痛い。


「……別に」


と、言いかけて、言葉を飲み込む。


何と言えばいいのか、

分からなかった。


ナディアは、そんな朔を見て、少し微笑む。


「……ルミナ」


月を背にして、言った。


「あなたが今いる、この村の名前」


(ルミナ)


胸の中で、その音をなぞる。


「ようこそ。ルミナへ」


二つの月の下で、

風が、静かに通り抜けた。


ナディアは、それ以上何も言わず、

静かにポーチのほうへ戻っていった。


その背中が、

月明かりの中で、

ゆっくりと影に溶けていく。


朔は、しばらくその場から動けなかった。


風が吹くたび、

草が小さく揺れる。


さっきまで確かにあった体温も、

声も、

今はもう、残っていない。


ただ、胸の奥に残った感覚だけは、

はっきりとそこにあった。


朔は、ゆっくりと息を吐く。


(……そろそろ、戻るか)



部屋に戻っても、

すぐには眠れなかった。


「ありがとう」


さっきの声が、

遅れて、胸の奥に落ちてくる。


それだけのはずだった。


それなのに、

ナディアの一言が、

思った以上に深く、残っていた。


顔も違う。

声も、仕草も、全然似ていない。


ーーほんの一瞬だけ。


同じ距離で笑っていた顔。

自分のことより、

相手を気にかける、その在り方。


――重ねそうになる。


朔は、小さく息を吐く。


それでも、

胸の奥に浮かんだ名前を、

振り払おうとは思わなかった。


(……なあ)


ぼくが、進もうとしたら。

お前は、許してくれる?


沈黙だけが、そこにあった。


当たり前だ。

もう、言葉を受け取れる場所にはいない。


それでも——


胸の奥で、

長いあいだ固まっていたものが、

静かに、ほどけた気がした。


「……ルク」


『はい。何でしょう』


「……俺さ。

少しは、前を向いてもいいのかな」


返事を待たずに、

朔は天井を見つめた。


ルミナの夜は、

まだ、静かに続いていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

更新は火・水・金の21時予定です。


もし続きが気になりましたら、

ブックマークしていただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ