15. 夜道を戻る
夜の部屋は、静かだった。
外では、どこかの家の戸が閉まる音がして、
それきり、村の気配は遠のいていく。
朔は、寝台に腰を下ろしたまま、
しばらく動かなかった。
「……なあ、ルク」
返事があると分かっていても、
呼びかけるまでに、少し間があった。
『どうしました』
「今日さ……」
言いかけて、止まる。
何から話せばいいのか、
自分でも、よく分からなかった。
「……迷子、って言われた」
『アクトですね』
「うん」
それだけで、胸の奥が、少しざわつく。
「前にも言われたんだけどさ。
そのときより、なんか……引っかかって」
理由は、はっきりしている。
ここに来てから、
話す相手が増えた。
名前を呼ばれることも、増えた。
……ここに来てからは、上手く避けられない……
「人と、関わらないようにしてたんだよ」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「一回、やらかしてて……
ちゃんと、失くしててさ」
指先が、無意識に布を掴む。
「近づいたら、また同じになる気がして……」
しばらく、沈黙があった。
「だからさ」
朔は、天井を見たまま、続ける。
「ここにいたら、ダメな気がするんだ」
それは決意でも、結論でもなかった。
ただ、胸の奥に引っかかっている、
小さな違和感だった。
『その感覚は、回避行動として合理的です』
朔は、何も答えなかった。
そのとき、
廊下で、かすかな音がした。
扉の隙間に、
若葉色の気配が、一瞬だけ滲んだ気がした。
扉の向こうは、
いつの間にか、
夜の静けさに紛れていた。
⸻
夜が、ゆっくりと深まっていく。
遠くで、どこかの家の灯りが落ちた。
次いで、また一つ。
やがて、
聞こえていた生活の音が、
一つずつ、消えていく。
どれくらい時間が経ったのかは分からなかった。
気づけば、
家の中には、
自分の呼吸の音しか残っていなかった。
朔は、寝台から立ち上がる。
音を立てないように、上着を手に取り、
ここにきた時に、肩にかけていた鞄を持つ。
必要なものは、ほとんどない。
――最初から、何も増やしていない。
戸を開けると、
夜の空気が、ひんやりと頬を撫でた。
村は静かだった。
家々は影の塊になり、
道だけが、かすかに輪郭を保っている。
足音は、思ったよりも大きく聞こえた。
土を踏む感触が、やけに現実的で、
歩いているという事実だけが、はっきりしている。
道は、緩やかに村の外へ続いている。
昼に歩いたときよりも、ずっと細く見えた。
左右に広がる影が、少しずつ濃くなっていく。
(……市場に、外の物があった)
干し肉。
見慣れない布。
この村で作られたとは思えない道具。
(定期的に、外から人が来てる)
なら、この道も――
どこかへ繋がっているはずだ。
歩いていけば、
いつか、町に出る。
ここにいれば、
声をかけられる。
名前を呼ばれる。
いつの間にか、近づいてしまう。
だから、離れる。
それだけのはず。
(……これでいい。そう、思うしかない)
人と関わらずに済む。
失くす前に、離れればいい。
――けれど。
それ以上、
考える前に、足を出した。
足元の土は、まだ踏み慣れた感触で、
道も、急に姿を変えることはなかった。
しばらくは、同じような夜道が続く。
——カサ。
近くで草が擦れる音がした。
一瞬、足を止めて、
そのまま歩き続けた。
歩くたび、
背中のほうが、少しずつ遠くなる。
家並みが途切れ、
低い草が、足元を覆う。
(……)
足元を見ていると、
余計なことは浮かばない。
踏みしめるたび、
土の感触が、わずかに変わる。
——パキッ。
どこかで、
乾いた音がした。
(……枝でも踏んだか?)
そう思って、
視線を前に戻す。
道幅は変わらない。
それでも、左右の輪郭が、
いつの間にか曖昧になっていた。
夜の気配が、
一段、深くなる。
木々が連なり、
月明かりが、細かく切り刻まれていく。
『警告』
低く、耳元で声がした。
「……何」
『周囲の反応が増えています。攻撃的な挙動が見られます』
立ち止まりかけて、
朔は、歩幅を小さくするだけに留めた。
「動物……?」
『可能性は高いです』
風が、木々のあいだを抜けた。
その音に混じって――
低い、喉を鳴らすような声が聞こえる。
胸の奥が、ひやりと冷える。
(……この声)
喉を鳴らすような、低い音。
風に紛れていたはずなのに、
一度気づくと、はっきりと「近さ」が分かる。
森に来たばかりの夜、
逃げ場を探して、必死に耳を澄ましたとき――
あのときに、よく似ていた。
足が、止まる。
次の瞬間、
葉を踏む、はっきりとした足音が重なった。
近い。
距離が、詰まっている。
呼吸が、浅くなる。
『接近を確認』
その声と同時に――
足音が、ぴたりと止んだ。
……今のは?
風の音だけが、戻ってくる。
『反応が消失しました』
「……消えた?」
『はい。現在、脅威は確認されません』
朔は、しばらくその場から動けなかった。
(……無理だ)
ここから先は、
一人で歩ける距離じゃない。
関わりたくない。
それは、本音だ。
でも――
ゆっくりと、踵を返す。
来た道を戻りながら、
胸の奥で、何かが少しずつ形を変えていく。
関わらないために、
何もしないままでいることは――
ここでは、選べない。
(……戻ろう)
村へ。
あの家へ。
関わらないためじゃなく、
生き延びるために。
⸻
少し離れた場所で、
人影がひとつ、動いた。
足音はない。
声もない。
ただ、夜の輪郭に溶けるように、
鈍く光を返す、小さな輪が揺れている気配だけがあった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次話は明日21時更新予定です。
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