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13. 庭に吹く風

朔は、庭の中央に立ち尽くしていた。


腕の中には、籠。

さっき預けられたばかりの野菜が、そのまま入っている。


(……洗う、といってもなぁ……)


視線が、庭の端へ向いた。


水場。

桶の縁に、少し水が残っている。


(……これ、使っていいのか?)


一瞬、考える。


(……新しく汲むか。)


そう思うものの、やり方が分からない。


井戸のほうを見る。

縄と滑車。

見れば分かりそうで、実際には何一つ分からない。


少し迷ってから、

朔は袖をまくった。


(……とりあえず、やってみるか。)


そう決めて、

井戸へ向かって歩き出す。


朔は籠を地面に置き、

一度、手のひらを見下ろした。


井戸の縁に手をかける。

ひんやりとした感触が、掌に伝わる。


縄を引くと、

木と木が擦れる音が、静かな庭に落ちた。


少しずつ、

縄の向こうから、水の重さが伝わってくる。


水桶が上がる。

中で、水が揺れた。


朝の光を受けて、

水面が、わずかにきらめく。


桶を下ろし、

葉物をひとつ、そっと浸す。


土が、ゆっくりと水に溶けていく。


指の間を、冷たさが通り抜けた。


(……まあ、こんなもんか。)


正しいかどうかは分からない。

でも、何もしないよりはいい。


朔は、洗った葉物を揃えて籠に戻す。


そのとき――


「オルセンいる?」


木戸の向こうから、子どもの声がした。


木戸の方に顔を向けると、

見覚えのある赤茶の髪が、

扉のところから勢いよく顔を出した。

畑で見たときと同じ、日に焼けた顔。


その隣に、もうひとり。

半歩下がって、静かにこちらを見ている影があった。


「今日は見回りだって。」


朔がそう言うと、


「そっか。」


それだけ言って、

赤茶の髪の少年は当然のように庭へ入り込み、

その後ろを、もうひとりが半歩遅れてついてきた。


朔が目を丸くしていると、

赤茶の髪の少年はそれだけで可笑しそうに笑った。


「ここ、入っていいんだよ。」


そう言って、土の広場へと歩いていく。


「……アクトが言ってるだけだよ。」


そう小さく付け足して、

もうひとりの影が静かについていった。


「ねえ、にいちゃん。」


数歩先で、ひとりが振り返った。

日の光を受けて、暗い色の髪がわずかに青く見えた。


「名前なんていうの?」


朔は、ほんの一瞬だけ迷って――

「……朔。」と答えかけた。


「サクだよ!」


アクトが、かぶせるように言う。


「もう村のみんな、そう呼んでるぜ。」


当たり前みたいに続けてから、振り返る。


「こいつ、セイ。」


少し遅れて、隣の影が小さく手を挙げた。


「……セイだよ。」


少し間があって、


「よし、サク!」

「競争な!」


アクトが振り返って叫ぶ。


「あそこまでだよ。」


少し遅れて、セイが指を伸ばす。


「……木のとこまで。」


土を蹴る音が重なった。


先に飛び出したのはアクトだった。

振り返りもせず、一直線に駆けていく。


「ほら、遅い!」


声だけが飛んでくる。


セイが朔の手を引きながら、走り出す。


朔は状況を理解する前に、足を前に出していた。


「ちょ、待っ――」


世界が、一拍だけ遅れる。


次の瞬間、

体が前へ、放り出された。


「あっ――」


情けない声と一緒に、

そのまま前へ転がった。


土の感触が、掌と膝に残る。


一拍遅れて、足音が戻ってきた。


「何やってんだよ!」


アクトが振り返って、笑いながら叫ぶ。

止まる気は、まるでない。


朔は起き上がりながら、手のひらについた土を払った。


「……もう一回。」


少し遅れて、セイの声。


次の瞬間、

当然みたいに、手を引かれる。


「なんで、俺が……っ」


声だけが遅れて、

体はもう、走り出していた。


踏み固められた土が、

足の裏に、はっきりとした感触を返してくる。


花壇の脇をかすめ、

家の影に一瞬入ると、

空気がひんやりする。


息が切れる。


それでも、足は止まらない。


どこまで走るのか、

何を競っているのか、

もう分からなくなっていた。


低い柵が視界の端を流れ、

洗い場の脇を抜けて、

また土の広場へ戻る。


木の影を抜け、ぶつかりそうになりながら、子どもたちと走る。


その途中で、

銀緑色の葉が、走る風に揺れていた。


何をするでもない。

ただ、同じ場所を、行ったり来たりしているだけだった。


気づけば、二人とも近くにいた。


花壇の縁から伸びた影が、

さっきより、少しだけ長くなっている。


「……そろそろ。」


小さな声だった。


アクトは、膝に手をついてから顔を上げる。


「まだいけるだろ。」


言いながらも、視線は庭の端をなぞっている。


その横で、セイは答えず、

もう一度、影を見る。


「……約束。」


それだけで、十分だった。


アクトは一瞬だけ口を尖らせる。


「えー。」


それでも、走り出そうとはしなかった。


鼻を鳴らして、

乱れた息を整える。


「……またな。」


負けたとは言わない。

でも、続けるとも言わない。


二人はそのまま、庭の外へ向かって歩き出す。


アクトは途中で振り返り、片手を上げた。


「じゃあな、サク!」


それだけ言って、また前を向く。


セイは一瞬だけ足を止めて、

こちらを振り返った。


何か言いかけて――

結局、何も言わずに、

小さくうなずく。


それから、アクトのあとを追って歩き出した。


朔は、その背中を見送った。


走る理由も、

立ち止まる理由も、

自分のものじゃなかった。


それでも、

身体の奥に残った熱だけが、

さっきまで一緒にいたことを、

はっきり伝えていた。


庭を抜ける風が、

もう一度、花の間を通り過ぎていった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

序盤は数日連続更新です。

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