風が通る場所
風が、庭を横切った。
背中には、庭の土の冷たさが、まだ残っていた。
朔は、花壇の前に膝をついたまま、息を整える。
胸の奥で、空気が引っかかる。
吸って、吐いて、もう一度吸う。
呼吸のたびに、身体の内側が少しずつ広がっていく。
背中に残った土の冷たさが、
じわじわと輪郭を持ちはじめる。
肩、腰、手のひら。
どこかが痛むわけではない。
ただ、すぐに立ち上がる気にはなれなかった。
視線を落とすと、
膝の下に、踏み固められた庭の土があった。
湿り気は少なく、昼の熱をほんのり残している。
ここに倒れたのが、
ついさっきのことだと、改めて実感する。
外套を羽織ったオルセンが、庇の下の板張り――家の脇へ延びたポーチを抜けて、そのまま庭へ降りていく。
見回りに出たのだろう。
その背中は、柵の向こうへ静かに消えていく。
柵の外へ出たところで、
一瞬だけ、陽に照らされた外套の色が見えた。
足音は、もう聞こえない。
風が、花の間を抜けていった。
花の隙間ごとに、
風の通り道がずれていく。
背の揃っていない花壇が、ささやくように揺れる。
その奥で、銀緑色の葉が、少し遅れて擦れる音を立てた。
風の音色が、花の間にほどけていった。
強さも、向きも、少しずつ違っている。
どれも長くは留まらず、
触れて、離れていくだけだった。
何度か風が重なったあとで、
花壇は、ゆっくり形を取り戻していく。
最後に残ったのは、
音とも呼べない、小さな気配だけだった。
朔は、そのまま背中を土に預けた。
視界いっぱいに、空が広がった。
雲は、ゆっくり流れている。
『補足します』
唐突に、ルクの声が落ちてきた。
『先ほどのオルセンの状態は、通常の人間の威圧行動の範囲を大きく逸脱していました。』
朔は、黙って聞いていた。
『客観的に観測されたオルセンは、完全に捕食者の挙動を示していました』
「……何それ」
思わず、笑いが漏れた。
「オルセン、人間やめてたってことか」
『表現としては概ね正確です』
「雑なフォローすんな」
空の様子だけが、少しずつ変わっていく。
『現時点での限界値です。
それは固定ではありません』
雲の切れ間からの光に、思わず目を細めた。
ゆっくりと身体を起こす。
足はまだ重いが、動けないわけじゃない。
(……戻るか)
ポーチへ向かおうとした、そのとき――
「オルセーン」
振り向くと、木戸越しに声がした。
朔は立ち上がって、庭の木戸へ向かう。
留め金を外すと、籠いっぱいの野菜を抱えたおばちゃんが立っていた。
「あんたかい。今日は早いねえ」
近くで見ると、おばちゃんは首をかしげている。
「オルセンは?」
「……さっき、見回りに出たみたいです」
「そうかい」
特に気にした様子もなく、にこっと笑う。
「沢山取れたからね。差し入れだよ。
あんたに預けとくかね」
そう言って、籠を朔の腕に押し付ける。
「あなたに月の巡りがありますように」
一瞬、言葉に詰まってから、朔は口を開いた。
「……あなたにも、巡りがありますように」
おばちゃんは満足そうにうなずく。
「はいはい。じゃあね」
そのまま、何事もなかったように別の家の方へ歩いていった。
朔の腕には、土のついた野菜の籠だけが残る。
思ったよりも、ずっしりしている。
籠の底から、土と野菜の匂いが立ち上ってきた。
(……どうすればいいんだ、これ)
見下ろすと、籠の中には、
にんじんや大根、ほうれん草――
見慣れた野菜が、籠いっぱいに詰められていた。
上に重なっていた葉物をそっと取り出す。
乾いた土が、指先からぱらりと落ちた。
落ちた土は、すぐには散らず、
掌に残って、薄く広がっていく。
視線が、庭の端の水場に向く。
日陰になった桶の縁に、水が残っているのが見えた。
少し考えて――
(……とりあえず、ほうれん草だけでも洗うか)
それが、この家の一日になる。
風が、もう一度、花の間を通り抜けていった。
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序盤は数日連続更新です。




