立てない重圧
朝の光が、窓の隙間から差し込んでいた。
朔はゆっくりと目を開ける。
木の天井。
小さな窓。
昨夜のうちに覚えた家の匂いが、まだ残っている。
身体を起こすと、床板が小さく鳴った。
その音が、この家の朝の静けさに混じる。
扉を開けると、廊下の奥からかすかな物音が聞こえた。
鍋のふたが触れる音。
火が息をする音。
台所へ行くと、オルセンがいた。
火にかけた鍋の前で、無言で何かをかき混ぜている。
昨日と同じ、不器用そうな動きだ。
朔は、自然と口を開いた。
「……ナディアは?」
オルセンは一瞬だけ手を止めてから、振り返らずに答えた。
「落ち着いてる」
短い言葉だった。
けれど、どこか柔らかい響きがあった。
続けて、声が少しだけ引き締まる。
「昨日のことは覚えてるな」
朔は少し笑って、冗談めかして続けた。
「……いや、その。
オルセンも忙しいだろ。
見回りとかもあるだろうし……だから……大丈夫」
オルセンは一瞬目を向け——
すぐに視線を戻す。
そして、器を一つ、作業台の端に置いた。
「飯を食ったら、庭に出てこい」
…….うん……?
それだけ言って、いつもの外套を掴み、家を出ていく。
扉が閉まる音が、短く響いた。
朔はしばらく、その場に立ったまま動かなかった。
やがて、器を手に取る。
昨日と同じ、固いパンと、
やけに大きな具が入ったスープ。
外からは、
誰かが桶を運ぶ音や、
家の戸を開け閉めする音が聞こえてくる。
村の一日が、もう動き出している。
その気配を背に受けながら、
朔は黙って食べた。
食べ終えると、
空になった器を水ですすぎ、
伏せて乾かす。
それから、扉の方を見る。
(……行くしか、ないよな)
⸻
家からの前に広がる小さな庭。
身体を動かすには十分な空間がある。
踏み固められた土。
低い柵。
視線を奥へやると、
その手前に、
銀緑色の葉をつけた木が、
実を残したまま、静かに立っている。
それから——花。
季節の花が植えられている。
ただ、背の高さが揃っていない。
こちらは少し詰まりすぎていて、
あちらは妙に間が空いている。
きちんとしているようで、どこか不器用な並び。
(……オルセンがやったんだな)
整ってはいない。
けれど、ここは「誰かのため」に作られた場所だ。
庭の中央に、オルセンが立っていた。
くすんだ深緑の外套を脱ぎ、袖をまくっている。
長い杖は、今日は手にない。
「準備はいいか」
(……正直、やりたくない。
というか、できれば、関わりたくない)
心ではそう思うものの、気づいたら、うなずいていた。
オルセンは少し距離を取るように立ってから、言った。
「坊主。
身を守るために、一番大事なものが何か分かるか」
朔は少し考えて――口に出す。
「……力?」
オルセンみたいな、あの力があれば。
(……あのときも……)
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「役に立つことはある」
オルセンは否定しない。
ただ淡々と続ける。
「諦めないことだ」
朔は、意味がうまく掴めないまま黙った。
「逃げたい時に、逃げない。
投げ出したくなった時に、踏みとどまる」
低い声で、オルセンは言った。
「それがなけりゃ、どんな力も意味がない」
そして、一歩、前に出る。
「立ってろ。……それだけでいい」
その言葉が落ちた瞬間、
庭の音が、ひとつ消えた。
空気が変わった。
言葉にできない圧が、庭いっぱいに落ちてくる。
肌がひりつく。
呼吸が浅くなる。
怖い。
逃げたい。
けれど、足が動かない。
まるで、巨大な獣に睨まれた小動物のように。
足の裏に、じわりと重さが乗る。
踏み固めた土が、急に遠くなる。
地面に立っているはずなのに、
身体だけが、下へ引かれていく感覚。
膝が、わずかに震えた。
(……なんだよ、これ)
目の前の男が、急に別のものに見える。
人間なのに、そう感じられない。
けれど、本能が告げる。
(……やばい)
息が詰まる。
胸が、ぎゅっと押し潰されるような感覚。
意識が揺れる。
息を吸っているはずなのに、
肺に空気が入ってこない。
胸が動くたび、
何かを間違えている気がした。
『朔』
耳元で、ルクの声。
『呼吸を維持してください』
「……っ」
声にならない。
『倒れる可能性があります。膝を——』
視界の端が暗くなる。
体の芯が冷えていく。
そして――
世界が白くなる。
最後に聞こえたのは、ルクの淡々とした声だった。
『意識レベル低下』
⸻
気づいたとき、土の感触が背中にあった。
空が見える。
ぼやけた視界の向こうに、オルセンが立っている。
「起きたか」
しばらく、誰も何も言わなかった。
風の音だけが、
庭を横切っていく。
それが、
やけに遠く感じられた。
声は低い。
けれど、さっきの圧はもうない。
朔は身体を起こそうとして、うまく力が入らない。
オルセンが言った。
「自分を責めるな」
視線が、地面へ落ちる。
「戦うことなく生きてこられたなら、
それは幸せなことだ。
坊主が悪いわけじゃない」
朔は唇を噛む。
悔しいというより、情けない。
怖かった。
何もできなかった。
オルセンは背を向けた。
「……だがな」
振り返らずに、言葉だけ残す。
「世の中には、
立ってなきゃならん時がある」
その背中が、庭の向こうへ歩いていく。
立ち上がろうとして、
無意識に足に力を入れる。
けれど、
さっきの感覚がよみがえって、
身体が言うことをきかなかった。
柵のそばで、
銀緑色の葉が、風に揺れていた。
銀緑色の揺らぎに応じるように、
花の影が、土の上をゆっくり動く。
誰かが笑う声。
桶を置く音。
朝の村の気配。
風の音と、
遠くの人の声だけが、
変わらず庭を流れていく。
胸の奥に残っているのは、痛みじゃない。
寒さでもない。
まだ、何もできない。
——その事実だけだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
序盤は数日連続更新です。




